「吾人は自由を欲して自由を得た。自由を得た結果不自由を感じて困っている。それだから西洋の文明などはちょっといいようでもつまり駄目なものさ。これに反して東洋じゃ昔しから心の修行をした。その方が正しいのさ。見給え個性発展の結果みんな神経衰弱を起して、始末がつかなくなった時、王者の民蕩々たりという句の価値を始めて発見するから。無為にして化すという語の馬鹿に出来ない事を悟るから。しかし悟ったってその時はもう仕様がない。アルコール中毒に罹って、ああ酒を飲まなければよかったと考えるようなものさ」
『吾輩は猫である』の猫の飼い主・苦沙弥先生の同学八木独仙の言葉である。ヤギ髭の哲学者ではあるが、仲間からは『無覚禅師』と呼ばれる悟りきれない「禅坊主崩れ」である。
独仙が「自由を得た結果・・・みんな神経衰弱を起して、始末がつかなく(なる)」と言うところを、フロイトは
「ほとんどの人間は実のところ自由など求めていない。なぜなら自由には責任が伴うからである。みんな責任を負うことを恐れているのだ。」とストレートに言って見せる。
「禅坊主崩れ」までが「アルコール中毒に罹って、ああ酒を飲まなければ・・・」と嘆く。だが飲まずにおれない。会食の「自粛要請」しておきながら、その晩には議員仲間や経営者と会食する政権党議員がうってつけの例だ。
会食は奴らにとって「自由」そのものだ、黒塗り「公」用車を使って公費や接待費で飲むことを唯一の楽しみに議員になった連中である。国民には事実上禁じたものを自分たちには許す。では自粛要請を止めるかといえばそうはしたくない。政治からの逃避と攻撃され次の当選が覚束ない。そこに浮き上がる意識が「特権」である。自分たちだから許されるという都合のいい意識。彼らにとって「自由」とは特権のことでしかない。
八木独仙の言うように、彼らには修行が足りないのだろうか。そんな上等な話ではない。そもそもなど修行したくないのである。彼らには、修行は自らするものではない。他人に命じるもの。
修行としての「自由」。そんな大それた課題を自らに課した少女を、たった一人知っている。
自他ともに自由が誇りの自由の森学園中から、管理不感症の都立高へ来た少女。不自由の中に身を置いて、「自由」を実践的に学ぼうと決意したのだ。噂を聞いて僕は、闘士をイメージした。だが授業にでてみると、小柄な可愛らしい少女であった。彼女については『ノートは先生と私の共同作品』←クリック で書いた。
件の少女は、教師たちに果敢に立ち向かった。「修行」を忘れた教師相手に面と向かって授業を批判する姿勢と言葉は、「自由」を知る者の勇ましさに由来していた。
批判によって自由を希求するのは、自由に伴う責任を引き受ける決意の表明であった。その姿は同学年の少年少女たちに刺激を与えずにはおかなかった。だから件の少女の学年は、他の学年より知的な開拓精神に満ちていた。僕は知的な精神は、集団に伝染することを疑わない。それゆえ、選別にはどうしても同意出来ない。