60年安保改定に反対して京都四条を駆け巡る高校生 |
こうした光景がなくなってしまったのはのは、社会的要求を掲げる行為が無効だからだろうか。そうではない、大いに有効であったからだ。
「表現、就業、結社、集会、もしくはデモを妨げる行為は、共謀及び脅しを用いた場合は1年の禁固刑及び1万5千ユーロ(約208万円)の罰金、暴力及び損壊行為によるによる妨害の場合は3年の禁固刑及び4万5千ユーロ(約625万円)の罰金に処す」 フランスは刑法431条1項で、人民大衆の自由を妨害する行為を、罰金付きで厳しく戒めている。
(ただし、公道で実施されるデモや集会については、3日前までに警察に届ける。デモの禁止は『重大な問題が起きる実際上の危険性が認められ』かつ『デモの禁止以外に公の秩序を維持する有効な代替手段が無い』場合に限られる)
フランスの警官にも労働組合があって、デモの届けに来た高校生に効果的なデモの方法を伝授する。それがフランスデモである。
日大の古田会頭の口癖は「全国の大学で唯一、学生運動のない大学」だった。1978年5月国税庁が、日大の使途不明金22億円を公表したのが日大闘争の発端である。日大の施設は劣悪なもので、ぎゅう詰めにしても90人は無理な教室の定員は150人、9000人の学生を抱える経済学部図書館の椅子はたったの250席、学部食堂の定員は50人。学生の政治活動はもっての外で、集会・ビラ・立て看などは許可制、如何なる学生運動セクトも入り込めなかった。自治会にあたる学生会は御用組織に過ぎなかった。後に全国を震撼させた日大全共闘秋田明大は、経済学部学生会委員長として使途不明金を話し合う集会願いを出している。
集会は不許可、無届けの抗議集会になりそれでも300名が集まった。そこに体育会学生が「赤狩りだ」と殴り込み暴行
。翌々日、素人臭い抗議の200mのデモがあり最後に歌われたのは、日大校歌であった。如何に日大生が闘争に不慣れな羊であったかが判る。
もしこの時、フランス刑法431条1項並の法規が日本にもあれば、日大闘争はあらゆるセクトを排した愛校的色彩の中で進んだ可能性が高い(学生側の要求は、古田会頭以下前理事の退陣・経理の公開・使途不明金に関する話し合いの三点のみであった)。しかし日大当局と体育会は校舎をロックアウト。学生の反発を煽った。体育会は暴力団と一体になり、負傷者を出すようになる。
東大安田講堂攻防戦や浅間山荘事件で指揮を執った佐々淳行は
「警視庁は最初・・・「これじゃ日大の学生が怒るのも無理はない」と秋田明大・・・率いる学園民主化運動に理解を示していた」(『東大落城』文春文庫)と書いている。
もしそれが事実であるならば早い時期に、集会を体育会や暴力団から守らねばならなかった。フランス並みの刑法がなくとも、憲法がその役割を直接務めねばならぬ。警官も国民に奉仕する公僕である。
日大闘争支援弁護団がまとめた数字によれば、逮捕者1608名(うち拘留595名、起訴132名)、死亡1名、負傷7717名、(うち重傷713名、失明3名)
民主化闘争が実現していたなら、これらの犠牲は無い。
激しいぶつかり合いの後の9月末日、日大講堂に3万5000人の学生が集まり「大衆団交」が行われた。会頭は体育会による暴力や一旦約束した団交の拒否や機動隊導入、などについて「大いに反省」と言い「弾圧を・・・自己批判する」と署名した。体育会については、解散を口頭で宣言したが、不正経理による闇給与については逃げた。
10月3日の大衆団交に、必ず出席するとの約束で一旦幕は閉じた。だが、佐藤首相が総裁、古田会頭が会長を務める日大と政財界人を繋ぐ「日本会」は、自らの怠慢(民主化を求める御用学生会の民主化の動きを弾圧する古田を放置し続けた事) は棚に上げ激怒、全ては反故にされ、秋田明大らに逮捕状が出された。
株式会社日大の暴力的独裁体制は温存され、2018年アメフト部タックル事件で一気に表面化した。
京都の高校生が四条を駆け抜けた時代の影響は、彼らが大学に進学し就職した後も、投票行動や市民活動で様々に残った。
美濃部東京都政以降全国に広がった革新自治体が、70年代には続いたし、1986年迄は所得税最高税率75%は維持された。日本の少年/少女の数学学力が世界で、中学一位、高校二位だったのは1987年だった事も忘れてはならない。組合がまだ影響力のあった時期、学力は高かったのである。
我々は、高校生がことある度に街に出て訴える自由を保障する必要がある。それが経済制度の格差を縮め政治の民主的平和的安定を保つ事を、1978年に由来する事件の数々が教えている。