六百戸もの町家を取り壊して何の重要文化財か |
家斉の姫を嫁に押し付けられれば、莫大な費用が掛かり藩財政が疲弊するだけではない。夫人が、良人よりも頭が高く尊大になり、大奥から付いて来た女中たちは、藩士を見下すのである。
加賀の前田斉泰は、14歳の溶姫を妻に迎えた。江戸上屋敷には、新たに丹塗の門が設けられ内側には壮麗無双の主殿及び庭園が造られた。庭園を造るだけでも、半年もの間毎日百人の人足が働いた。敷地から巨石がが出て、その片づけだけで千二百五十両を要した。そのために六百戸もの町家が取り壊されている。 新築の主殿に溶姫が引き連れて来た人数は、大上臈一人、小女臈一人、介添二人、御年寄二人、中年寄三人、御中臈頭一人、御中臈八人、御小姓一人、表使い三人、御右筆三人、御次六人、呉服間五人、御三ノ間七人、御末頭二人、御中居三人・使番三人、小間使い三人、御半下二十人。さらに男が、御用人二人、御用達し一人、侍八人、医師一人が付いた。百万石も、この嫁取りで一挙に財政が傾いたと柴田錬三郎は書いている。
佐賀藩主鍋島斉直は、嗣子直丸に家斉の盛姫を押しつけられた。その掛かりの大きさに参勤交代道中の費用もなくなり、病気と称して出府を半年のばす始末。三十五万七千石の大名が、財力も尽きるほどの迷惑であった。
阿波藩に世継ぎとして押しつけられた斉祐は12歳であったが、7、8歳の知能も有しなかったという。
それでも藩の迷惑はたかが知れている、民百姓に転嫁される負担の過酷さを思うべき。体制は潰れさえすればいいのだ、できるだけ簡単に。民百姓は生きなければならない。
必要なときに変えられない仕組みは、根底において腐っている。生きてはいない、生きているとは反応することなのだ。
下町の工高に朗らかで体格もよく頭脳明晰な少年が入ってきた。成績は抜群で担任によれば、内申書は「5」や「4」が多く、小さな町工場の跡取りになることを決意していた。僕は彼の「現代社会」を受け持った。 人をまとめる聡明さの片鱗を見せてくれた。
ところが学期末成績に一つだけ「1」が付いた。 教科担任によれば、白紙で名前もないという。少年は「あの先生の授業は授業ではない」という。二学期も三学期も、白紙が続いた。三学期になると「名前さえ書けば単位はやる」と教師は言った。
僕がこの学校に着任する前、同じ事があったことを聞いた。ただそれは一年生ではなく、三年生であった。
「寿司屋に入ったら、先ず玉子をたのめ」と、その教師の授業は毎年同じように始まる。初めのうち、生徒は感心している。凄い物知りだと、学級日誌に書く。だが次第に「今日も寿司の話だった」と書くようになる。そして授業は、名門大学に進んだ子どもの自慢から、息子の会社の自慢、世界に広がる一族の自慢に続く。その三年生も答案を白紙で出した。三学期になって青ざめたのは、件の教科担任であった。名前さえ書けば単位はやると譲歩した。しかし三年生は頑として応じなかった。「あいつからだけは単位を貰いたくない」が彼の言い分だった。
朗らかな一年生の主張は「名前を書いたら、まるでこっちが悪いみたいな事になる。悪いのは授業をしないあいつだ」だった。
原級留置が決まる成績会議で、僕は単位制でありながら学年制である事の矛盾を述べずにおれなかった。しかし、僕の問題提起への支持はいつもない。
彼は最後に、社会科準備室に来て「先生、ありがとう。先生の授業は忘れないよ。・・・オレ親父と相談したんだ。高卒の資格を検定で取って大学に行くよ。高卒で十分だと思ってたけど勉強することは一杯あるね」
件の教師は退学することを条件に、単位を出した。検定試験が楽になる。
何かを断じてしない事、で筋を通す。ガンジーならばハンスト。授業しない教師の理不尽に、たった一人で立ち向かう青年らしい抵抗が尊い。
僕は理不尽な授業を受けた生徒が、一斉に白紙無記名の答案を出すことが高校生らしい自治行動だと思う。ボイコットして座り込み、そして街に出ろ。理不尽な振る舞いをする側が、様々に結束しているのに遠慮することはない。そうでなければ過労死社会は潰れない。
涙の行事を教師の指導の下で繰り広げることが自治ではない。部活で校長室のトロフィを増やすことが誉れではない。納得がいかない理不尽を変える、それが青年の特権である。
過労死と戦争の待ち構える己の未来は祈りや歓声では変えられはしない。
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