ヒマラヤ越えの飛行ルートダウラギリの標高は8,167m。酸素濃度が地表の3分の1しかない。酸素ボンベが無ければヒトは10秒で意識を失う。アネハヅルは、毎年ここを越える。
アネハヅルはツルのなかではもっとも小さい。ある朝の夜明け、モンゴル大草原を一斉に飛び立つ。
羽ばたきと滑空を繰り返しながら、山越えの上昇気流を探り高度を上げる。ダウラギリの周辺は、強い乱気流が渦巻き、風向きは瞬時に変わる。彼らは美しいV字編隊を組んで薄い酸素濃度と乱気流を克服してきた。
V字編隊の空気力学を最大限に活用するために、先行する鶴の翼端で生じる螺旋状の気流の渦の上向き部分に翼を持っていく。先頭の鶴も常に羽ばたくから気流も絶えず上下する。従って、後続の鶴が先行する鶴の気流に乗り続けるには、的確な位置取りだけでなく、羽ばたくタイミングも正確に合わせる。それ故先頭の鶴には相当の負担がかかる。彼に疲労が見えてくると、体力を温存した仲間が次々と交代する。
複雑な乱気流の中には、真上に向かって上昇する風もある。 その上昇気流に乗れればヒマラヤを越えられる。
失敗すれば2000mも3000mも後退し疲労困憊のあげく、低地に舞い降りることになる。疲れ果てたアネハヅルの群れは、もうワシやトンビから逃げる元気すらない。アネハヅルの山越えの季節には、群れを狙う猛禽類も集まっている。
上昇気流を見いだした群れは、一気に高度を上げて静寂のうちにダウラギリをこえてゆく。
ここには安っぽいメダルも声援も賞金もない。メダルを齧る者も、メダルの数を数える組織もない。国賓待遇に胡坐をかく傲慢な男もいない。
インド亜大陸がユーラシアプレートに衝突するまでは、多くの鳥や獣や昆虫そしてヒトがここを越えていた。ヒマラヤ越えの厳寒の峠に人の歩いた跡がある。岩壁に穴を穿って路をつくったのだ。
「あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい」マルコの福音書10章43~45節
マルコの言葉を聞くのに、えらい神父や大仰な教会は一切要らない。アネハヅルのダウラギリ越えが示している。教会や寺院が膨大な人と億万金を使って、いまなお失敗し続けていることを。