教師は個性も権威も放棄してコードに成る |
教師は先ず明確で優れた質をもった知識を伝達しなければならない。同時に、教師は「個性」をもち、深い思想を示さなければならない。そんな学生の声が記録されている。
「教師には存在感がなければならない。」
「講義は聴く者を考えさせるものでなければならない……あたかも瞑想でもするように……ノートがとれなくても問題ではない。」
「私は、自分の思想を伝え、経験を話してくれる先生が好きです……教師が自分の言っていることを実際に信じているという印象をもっています……教師には人をうっとりさせる魅力が必要です……そこに触れあいがあるのです。」
「まったくの学校的というのではなく、講演のような講義が必要です。」
「権威ある講義が必要です……つまり研究者である教師による、訴えるべきメッセージのある講義でなければならない。」
「明白でよく組織された講義。」
「本を朗読するだけの教師はいらない……教師の個性がはっきりと示されるべきだ。」
「エスプリをもった教師……。」
「明白でノートを取りやすい講義。」
ブルデュー『教師と学生のコミュニケーション』藤原書店
これらの声はフランスの大学生から集めたものだが、国籍と年齢を超えた普遍性がある。ここから我々は何を引き出すべきだろうか。
先ず言えるのは、彼らは、ディベートやアクチブラーニングなど目新しい技術や趣向に何ら期待していないことだ。
それにしても、これら全てを一人の教師が満たすことは出来ない。人は一芸に秀でることで精一杯である。多芸は貧芸や無芸になりかねない。だとすれば、様々な教師が必要だということではないか。
学校全体が単一の授業技術で武装すれば、技術は目立つが教師の特性は後退して影がなくなる。
ある授業技術の高名な指導者が、苛立ちを隠さず「学校中が足並みを揃えれば、全体の学力はもっと向上する」と言う。部分的に実施して大きな成果があるのだから、全校で取り組まねば、全市で取り組まねばならぬと参加に圧力を加える。足並みを揃えない教師を咎めたりの話も耳に入る。技術の未熟な教師が会議で叱られたりもする。
僕はルイセンコ学説の悲劇を思い出してやりきれなくなる。技術の未熟な教師というのは、他の授業に熟達したベテランのことだ。独自の方法を身につけているからこそ、新しい方法に馴染めない。それを叱るとは残忍である。長年にわたって蓄えた経験を殺す技術を文化とは呼べない。ひとり一人の特質を生かして豊かにするから単純な集合より集団化には意義がある、一人ひとりを圧殺して揃えるなら悪夢である。
単一の強情な技術思想に学校が染まれば、教師は個性も権威も放棄してただのコードと成る。短期的な成果のためには好都合と行政は見做すだろうが、コードが質を形成することはない。
時には相反するような様々な教師の様々な方法によって鍛錬されてこそ、少年たちの特性は、軽薄な大人たちの思い込みをこえる。どんなに優れた技術も、それが及ぶ範囲は知れたものであることを承知したいものだ。しかしそれが破壊する領域はその幾層倍も広い。技術の高度化はそうした隘路を絶対に克服できない。
単純な事実がある、それは技術開発や宣伝普及のために要する時間や労力のために、肝心の中身のために費やすべき努力が手薄になることだ。旅館の女将が客室を巡って挨拶するための華美な衣装や時間や費用が、客の宿泊滞在の快適さを損なうのと変わらない。その技術に自信があるなら、自然に広がるのを何故待てないのか。
僕は些か心配である。新郎新婦が結婚式で両親に贈る花束や出生時の体重と同じ重さの米で参列者の涙を誘う国柄だ。葬式や卒業式の稚拙な演出に感動する民族だ。授業の中身はそっちのけで「起立・礼」や髪型に神経を尖らす人間に、「授業の中身」と言って話が通じるだろうか。
結婚式の豪華さではなく困難な日常も互いに助け合える生活、死後の葬式の厳粛さではなく生きている間の人間味溢れる交流、お辞儀やネクタイの点検確認ではなく充実した中身の授業・・・そう言っても十分には通じないかも知れない。愛国心が君が代を歌う口の大きさで確認される時代なのだ、「充実した授業」をそろった服装やお辞儀で確認しかねない行政を我々は許している。 つづく