生徒は先生より先生ぶりたがる

 都立S高は体育祭が名物で、nhkが番組を組んだこともある。生徒たちの自慢は大掛かりな応援合戦であった。次第に自慢の種はなくなってきていた。それでも推薦入試の面接で、体育祭見て受験を決めましたと見えすいた嘘をつく者も少なくなかった。入学後聞けば、中学生の時にS高の体育祭をわざわざ見に来た者は殆どいない。選択の最大の根拠はいつも偏差値、次いで服装の自由であった。
 それでも巨大なマスコットを竹と紙でくみ上げ、応援合戦を繰り広げる。マスコット作りにも、応援の振り付けにも馬鹿馬鹿しく時間をかけていた。三年生が、一二年生を指導すると言えば体裁がつくが、実際はしごきであった。参加不参加は任意であるにもかかわらず、しごきしごかれる関係に志願する。しごく側の三年生は、バインダーを小脇に抱え竹刀片手にダミ声で威圧するのが常であった。中には白衣を引っかける者もあった。バインダーには練習開始と終了を書いた紙しか挟んでいない。空虚な中身を隠す道具としてのバインダー、白衣、竹刀、ダミ声、全て教師の真似。放課後グランドで部活の生徒を威圧する顧問の戯画であった。
 「生徒は先生より先生ぶりたがる」と言ったのは市民運動家だった。バインダーとダミ声が教師らしさとは、教師の権威も落ちたものである。しかし生徒から見て実態はそうなのだ。

  「講義は聴く者を考えさせるものでなければならない……あたかも瞑想でもするように……ノートがとれなくても問題ではない」
 「私は、自分の思想を伝え、経験を話してくれる先生が好きです……教師が自分の言っていることを実際に信じているという印象をもっています・・・教師には人をうっとりさせる魅力が必要です・・・そこに触れあいがあるのです

     ブルデュー『教師と学生のコミュニケーション』藤原書店
 

 こうした学生の期待に応える努力を怠り、教委の恫喝の前にちぢみ上がった教師の姿を生徒たちは見透かしている。応援団幹部の振る舞いは、権威を失い権力だけにすがる教師のカリカチュアに他ならない。正面切って「先生の授業つまらない」「あなたの指導はうんざりだ」と言えない少年たちが、戯画で笑いのめしているのだ。バインダー抱えて脅し脅される馬鹿げた関係は、体育祭終了後に頂点に達する。円陣を組んで、一人ずつ感想を述べているうちに泣き始めるのだ、下級生はしごかれたことに感謝し、三年生はしごいたことを詫び、抱き合って泣くのだ。批判精神希薄な青春の悲しい光景である。

  「・・・軍隊にいる間理由もなくいじめつけたり、殴ったりしたやつのうちを一軒一軒まわり歩いて、あのときのお礼だといって、片っぱしから気のすむほど殴り倒してきたという。西は山口県の岩国から北は青森まで足をのばしたそうだが、その住所は復員するときにちゃんと控えておいて、そのうえ乗車用の復員証明書も余分に何枚か手にいれておいたというから″お礼参り″はかねてからの計画だったらしい。邦夫は煙草に火をつけながら、
「こっちゃよ、懐かしくて訪ねてきたっていうようなこと言ってな、一人一人外へ誘い出してこてんぱんにのしてやったんだ。どいつもこいつも軍隊じゃでっかい面こいていやがったけど、裟婆じゃみんなホトケさんみてえにおとなしくおさまってたぜ。おれたちが鬼ヒゲといっていた百里空の先任班長の野郎は、信州の岡谷だけんど、二週間前式をあげたところだといって新婚ホヤホヤだった。こいつは三度のめしを二度にしても、おれたちを殴るほうが好きだっていうやつでな、訪ねて行ったのは夕方で、ちょうど女と二人だけだったが、こいつは家ン中でのしてやった。いきなり鼻っ柱にメリケンをかっ喰らわしてな、そうしたら女がギャアギャア騒ぎだしやがったから、ついでに女も二つ三つぶん殴ってやった。まあ亭主への恨みだからしようがねえや。中でもザマなかったのは岩空の分隊士だ。こりゃ兵学校出の中尉でな、気狂いみてえな張りきり野郎で、やつに殴られたあと病院に担ぎこまれて四日目に死んじまった同年兵もいるし、おれだって前歯を二本も折られているんだ。こいつはうまいこと阿武隈川の河原におびき出してぶん殴ってやったけど、野郎ときたら河原に手をついてペコペコ頭をさげて泣き言こきやがるんだ。・・・あのときは立場上しょうがなかったんだ、許してくれ、この通りあやまるから許してくれってな・・・こっちゃわざわざ福島くんだりまで、そんな泣き言を聞きにきたんじゃねえやって言って、同年兵の分まで半殺しになるほどぶん殴って血だらけに踏みつぶしてひき蛙のように河原にのばしてやった」
 ・・・「でもあれだな、これでいくらか恨みは晴らせたんだけんど、気持ちはあんまりさっぱりしねえもんだな。なんだかこう、変にうすら淋しいような気がしちゃってよ、復讐なんていうのはもともとこんなもんかなァ・・・」
 ・・・それにしても半月間よくも回ったものだ。その執念には感心した
」  (渡辺清『砕かれた神─ある復員兵の記録』朝日新聞社)
 
 というようなことにはならないのが残念でならない。集団的な涙=カタルシスには一切を流し浄化する悪い効果がある。オリンピックやワールドカップを政治が利用したがるのはこの効果が計り知れなく都合がいいからだ。低賃金や低福祉、過労死の悲惨の根源への溜まりにたまった鬱憤を、集団の涙で排泄し快感に変えるのだ。そう考えれば、何千億や兆単位の負担は安いものだ。しかも実際に支払うのは涙で悲惨を排泄する連中なのだ。

 教育実習生が実習を控えても一向に事前の勉強に関心がゆかず、教材研究に冷淡になったのも「生徒は先生より先生ぶりたがる」からである。「ぶる」のに努力は要らない。
 生徒たちから見て、教師が研究や学習にのめり込んでいる様子は見えなくなってしまった。過労死レベルの雑務に振り回されているのだ。見えないのではなく無くなってしまった。かつて学校の図書室には、教員専用の閲覧室が設けられていた。書店の営業職員は、教師たちが個人的に注文した書籍を届けに頻繁に職員室に出入りしていたものだ。

  「自分の思想を伝え、経験を話してくれる先生・・・教師には人をうっとりさせる魅力が必要です・・・そこに触れあいがあるのです

    
 教師の手が空くのを待ち構えて、質問を繰り出したり、話をねだったり、ただ側に居たがったり、そういう光景がなくなった建物をもはや学園とは言えまい。だからこそ少年たちは「先生より先生ぶりたがる」ことで行方不明の教師像を求めてさ迷うのである。

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