38度線は日本が作った

「解放」されるベき朝鮮が分割された
 「金時鐘 いうところの大東亜戦争で日本が負けましたが、三八度線というのは、朝鮮を兵団基地にしていた三八度線以南の第一七方面軍と、三八度線以北から旧満州一帯におよんでいた関東軍との軍団上の境界線でした。アメリカとソビエトによる武装解除をその線でするという終戦処理を、日本が意図的に出してる。 
   当時の日本の為政者たちは、あの混乱のなかでもよく今日の日本 - これは朝鮮との関係においてですが - を見通していたように思います。その炯眼ぶりを思うにつけ、ぼくは肌寒い思いに駆られたりしますが、ポツダム宜言を受諾することは、朝鮮を手放すことなのに、あの終戦処理に関する限り、朝鮮を手放す意図はない。また戻ってくるということなんですね。そういう発想で、のっぴきならない関係にある米ソ両勢力に角を突き合わさせれば、朝鮮は未解放のまま存立するという見通しを持っておったというふうに、ぱくは個人的に思うんです。負けた日本、戦争犯罪を犯した日本は分割されなくて、「解放」されるベき朝鮮が分割されたというのでは、・・・あまりにも朝鮮はうかばれなさすぎますよ」   『差別その根源を問う 下』朝日選書

 北朝鮮の核ミサイル廃棄を日本のマスメディアは、信用ならないと息巻いている。朝鮮戦争の原因を作り、植民地体制維持を画策した国が言える台詞ではない。
   それにしても、敗戦の困難混乱の極みにあって、自らと自らの家族の安全だけはいち早く段取りし、戦争犯罪の証拠の隠滅を図り、守るべき開拓団男子を満蒙国境に徴発しその家族を置き去りにして逃げる卑怯さには、開いた口も塞がらない。
 日本が決意すべきは、北朝鮮に劣らず積極的な「東アジアの非核化」宣言であり、米軍全基地の撤去である。コスタリカの常備軍廃止同様、平和の宣言はその後の懸命な外交交渉の「覚悟」を前提としている。強い国に追従することを外交の国是とした政府には最も困難な課題だろうがそれなしにこの国が独立する道はない。
 自分は甲冑に身を固めて完全武装しながら、相手には丸腰丸裸を迫るのは筋が通らない。峠の胡麻の蠅じゃあるまいし。
 近頃は、至るところで自らを「サムライ」と自称するのが流行っている。江戸中期の兵学者大道寺友山←クリックなら日本政府の振る舞いを「武士らしからぬ卑怯の沙汰」と怒ったに違いない。
 非核化は、憲法が政府に命じる責務でもあるのだ。

狂人を縄でからげて 病室にぶち込むことを 保護と言うなり




狂人を縄でからげて  
病室にぶち込むことを  
保護と言うなり 金子文子

 金子文子  1903年1月25日~1926年7月23日。関東大震災の2日後に、治安警察法に基づく予防検束の名目で、朴烈と共に検挙され、十分な逮捕理由はなかったが、大逆罪で起訴され、死刑となった。後に恩赦で無期懲役に減刑されたが拒否して刑務所長の面前で通知を破いている。獄死。
 彼女については、「天皇が神なら、戦争でも兵隊が死なない、飛行機も落ちないはずでしょう」←クリックに書いた。


 日本の病院の12.5%は精神科病院。一般病院の精神科も加えた病床数は34万4千で、群を抜いて世界一。この数字も「クールジャパン」で誇ったらいい。
 精神病に関する世界一はそれだけではない。人口当たりの精神科病床数は、日本が人口千人に対し2.7床。OECD調査によると、千人当たり1床を超えているのはベルギー、オランダと日本の3国のみで、2床を超えているのは世界で日本だけ。アメリカやドイツ、イタリア、カナダなどは千人当たり0.5床を下回っており、日本の5分の1以下。
  まだまだ世界一はある。同じくOECD調査では、精神病床の入院日数の平均が50日を超えているのはポーランドと日本だけで、150日を超えているのは日本だけ(日本を除く国の平均入院日数は18日、日本は296日で驚異的な世界一である。

 だがWHO世界メンタルヘルス調査によれば、メンタルヘルス(精神面における健康)障害有病率は日本は8.8%でイタリアの8.2%に次いで低い水準(フランスは18.4%、アメリカは26.4%)である。
  なのに、全世界にある精神病床の5分の1が日本にある勘定になる。

 厄介者は閉じ込めようという考え方が、日本の組織では根強い。モリカケ問題では籠池夫妻が10か月も勾留された。
 精神病患者は入院加療が必要なくなっても、引き取り手がなく入院が長びき「社会的入院」と名付けている。専門家は「社会的入院」者は15万人から20万人と見ている。
  1980年代には、日本の精神病者の状況に危惧を抱いた国際法律家委員会と国際保健専門職委員会の合同調査団が派遣され、WHO報告書で、“人権保護や治療の観点からきわめて不十分”と指摘されたが、否定的状況は変わらない。

 僕は、金子文子の和歌があたっていると思う。本人の了解も逮捕状もなしに、人の自由を奪って劣悪な環境に閉じ込めるのは日本の精神病院だけである。刑務所と変わらない施設もある。「虐待」と呼ばねばならない。正しい言葉を用いなければ、正確な伝達は出来ないのだ。我々の言葉は、こうした誤魔化しに適している。
暴力団は、「カモ」や手下をいたぶるのを「可愛がる」と言い
日本軍は、アジア各地を占領・支配するのを「協和・解放」と書くことを学校教師や報道記者に強制
幕府は、アイヌ民族を集落から追い立て重労働させるのを「介抱」とうそぶき
ハンセン病療養所では、園内の重労働を含む作業に患者を使役たその悲惨な有様を「天国」と自画自賛
中国人強制連行では、どのように理屈を捏ねても「募集」と言い難い場合、「保護工人」と呼び習わし
軍医は足手まといの兵を殺して「処置」と報告
官僚がセクハラやパワハラをしても「コミュニケーション」とせせら笑い
司法官憲は、冤罪のために証拠を捏造、ばれても「適切な手続きと逃げ
教師までが、合唱や校歌の練習に、生徒を教室や体育館に閉じ込めて帰さないのを「指導」などと言い張れるのだ。こうした例は枚挙に暇が無い。宗教やスポーツさえも例外ではない。
 日本語の構造的欠陥と言うべきだと思う。日本語を母語とする民族の非倫理性、不道徳の胸壁となっている。

追記    「日本精神科病院協会」山崎學会長が同会機関紙5月号巻頭言に、「精神科医にも拳銃を持たせてくれ」と書いた。患者対策のためだと言って。 
 どちらが狂人なのか。安倍は旭日重光章叙勲にこの会長を推挙して、自ら勲章を手渡しした。
 同会傘下の政治団体「日本精神科病院協会政治連盟」からは自民党に三年間で1億5000万円の政治献金が記録されている。個人献金はこの中に含まれない。
 昨年11月6日、トランプ・安部会談で米大統領は「日本がより膨大なアメリカ製武器を買うことだ」と期待し、かなりな額の爆買いがまとまったと言われている。米国拳銃メーカーは、銃規制の世論に押されて大量の在庫を抱えている。精神科医の次は、新幹線の車掌・高速バスの運転手・フェリーの船長・銀行警備員・・・テロを口実に「銃を持たせろ」の声が広がりかねない。日本の銃規制まで、米国の為に緩和する鏑矢になるかも知れない。物騒な発言である。

 

昭和47年頃、新卒教師の言葉が命令調になった

日本の68年大学闘争は、対話を伝統をとして残せなかった
 「・・・私は、教育者として、ある時点から、「子どもの心にとどくことばで!」「子どもの心にとどく授業を!」と主張するようになったと書いた。ある時点というの東大闘争・日大闘争が鎖圧されて二、三年あとからである。昭和の年号でいえば47年ころである。 
 じつは、このころから、大学を卒業してくる新卒の教師のことばが、権力者のことばになり、命令調になり、おしつけ調になってきたからである。教育荒廃が叫ばれだしたのも、このころからであった。ちなみに、父親が高校二年の男の子の家庭内暴力に耐えかねて殺してしまった、という事件が、はじめてあらわれたのは、昭和49年である。東大闘争・日大闘争のころまでは、まだ、日本の子どもの側に、「自分の問題」という意識が胸のなかにあり、その問題意識が自分自身をコントロールしていたのである。言いかえるなら、その問題意識が東大闘争・日大闘争ひきおこしていたといえる」 無着成恭『ひと』1985年12月号

 この頃僕は教師になった。各地の国立教員養成大学出身者が、軒並み教員採用試験から排除される事態が続いていた。教委は校長に対等な口をきき、ことあるごとに交渉を要求する大卒生を嫌い、素直で従順な新設間もない女子短大卒業生を好んだのである。
 僕は、「利潤」や戦争に関わることを嫌悪して、革新自治体の東京と京都の高校以外の仕事に希望はないと睨んでいた。それも賭けに近い際どい判断で、仲間の誰もが意図的に留年を選んだ時期であった。

  「新卒の教師のことばが、権力者のことばになり、命令調になり、おしつけ調になってきた」ことに、初め僕は気付かなかった。労働組合の活動家や技能オリンピック入賞者が混じる定時制課程生徒たちに、命令や押し付けは無効だった。
 しかし教研の「働く青年」(定時制)分科会では、生徒の行事参加率が低いことに苛立つ「若い」教師が目立つようになった。行事出席簿を作り、行事出席率を進級の条件にすることが流行った。
 いくつかの職場を経験するうちに、生徒を管理の対象としか考えていないような教師が次第に増えてきたことに気付いた。例えば文化祭で担任学級が入賞すると、教員の打ち上げで、生徒を「如何に締め管理したか」を蕩々と演説する者が少なくなかった。そんな教師が、大学ではセクトに属していたことを隠そうともしないし、組合にも積極的であったのは不思議な取り合わせである。
 ある教師は集会のたびに、お喋りで静まらない生徒たちに対し「お前たちはそんなに偉いのか」と頭越しに恫喝するのが常であった。こうした教師たちは、僕と同年配か若い教師であった。彼らは共通して、対話嫌いで「きまり」が好きであった。対話嫌いと「きまり」好きは生徒に向けられるだけではなく、同僚にも向けられた。決まりには、教委や文部省の通達も含まれていた。年配の教師であれば、焼き鳥屋やストーブを囲んで対話することも可能であったが、彼らには通用しなかった。
 僕の親しい友人は学年同僚たちから学級指導について管理的手法で足並みを揃えるように繰り返し忠告・介入を受け、一年で担任を降りざるを得なかった。同じような例を別の職場でも経験した。
 68年闘争を経験した教師たちがこうであれば、高校生の意識が、閉塞し荒廃へと向かうのは当たり前であった。
 僕はかつての陸軍内務班を想い浮かべ、暗澹たる気持ちになった。日本の68年大学闘争は、ヨーロッパと違い何一つ対話的果実をもたらさなかったのである。それどころか、こうした時代風潮が累積して都政そのものが硬直し、やがて国政が閉塞し、命令口調が国全体に広がったのである。

追記 集会を嫌う生徒たちのお喋りに、声の大きな強面の教師が有り難がられるようになった時期がある。僕のいた下町の工高では、詰まらない話にお喋りするのは正常な反応であるとして、怒鳴ることをしないよう申し合わせをした。教師が交代で腕に縒りを掛けた話をすることにしたのである。これは見事成功した。
 命令口調の教師を珍重したことのツケは大きい。管理職の話になぜ生徒は退屈するのか、年配の先生によれは市販の「ねた帳」があり、大方はそれに頼っているという。書店で立ち読みしたが、実に詰まらない。こんな本を校長会の重鎮が書いて、管理職たちが有り難がって買うのだから困る。校長は生徒の投票で決めねばならない。 

沈む太陽を見て「もう一度やってみせて」とせがむ二歳児的国家

「もう一度やってみせて」
 二歳児は、親や他の大人を万能の神のようにみなしている。精神分析医Selma Fraibergは、その例として太陽が沈むのを見て、「もう一度やってみせて」と父親にせがんだ二歳児を紹介している。 
  だが、かつて日本では大人までが「この国は現人神の国だから「神風は吹く」」と言ったのである。一度目は元寇の時に吹いて日本を救ったとして、日本に危機が迫れば、「もう一度やってみせて」くれると請け合い、どん底の窮乏と弾圧に耐えたのである。二歳児ではない、大の大人がである。

  明治35年生まれの住井すゑは、昭和一桁生まれとは出来が違う。敗戦の一年前のことである。
  「1944年(昭和十九)の7月下旬、私宅からは牛久沼の対岸にあたるK村から、青年団長のN君が訪ねてきた。N君は・・・幼年期に片脚を損傷、そのため兵役は免除で、もう何年かK村の青年団長をつとめていた。そんなN君は年に数回、私たちを訪ねてくるのが習慣のようになっていた。 さて、ハナシは当然のように戦況に及んだ。N君は村ではインテリで、新聞なども精読していたので、犬田(住井すゑの夫の犬田卯)とは俗に言うウマが合う仲だった。しかし、そばで聞いている私には、この日の二人の話にはどうにもうなずけないものがあった。 
 二人とも、″日本は絶対に負けない、負けるはずがない″と、興奮さえしている。それは裏を返せば、戦争は負けつづけて、日本はもうどこにも勝ち目がないことがわかっているための気やすめであり、強がりなのだ。 
 そんな気やすめや強がりが性に合わぬ私は、六月中旬のB29による北九州の空襲や、ビルマのインパール作戦のむざんな失敗についての新聞記事などを持ち出し、「この戦争はやがて日本の無条件降伏で終わるでしょう」と言い切った」 住井すゑ『愛する故に戦わず』

  可笑しいのは、彼らが敗戦を知った後だ。 
 「N君が青年団員四人を連れ、沼を舟で渡ってきたのはそれから二日目の昼過ぎだった。さて、夫の仕事部屋に輪を描いて坐るなりN君は言った。 
 「いくさに負けた日本はこれからどうなるか、本当のところがお聞きしたくて、今日は青年会の幹部を連れてきました。・・・一年以上も前に、敗戦の詔書は必ず天皇がラジオで放送すると予言されたセンセイは神さまです。だから、これからのことも、当然おわかりになるはずです・・・こんなことは、神さまでなけりや見通せるもんじゃありません」
 若者たちは、新しい「神」に日本の先行きを聞きに来たのだった。
 日本敗戦を見通したのが「神」なら、治安維持法で拷問をうけ殺され、政治思想犯として刑務所に入れられた「アカ」は全て「神さま」である。一体誰が「神さま」たちを監獄から救い出そうとしたか。「神さま」は敗戦後も監獄に放置されたうえ、疥癬に感染させられ殺されたではないか。「神さま」を拷問し殺した特高を誰が糾弾したか。
  「神さま」を畏れ敬ったのではない。自らを罰する権力を恐れ、自らすすんで判断力を放棄したに過ぎない。権力の恐ろしさを植え付けたのが、初等中等教育であったのだ。明治生まれの住井すゑはその手には乗らなかった。

 それにしても、懲りずにいつまでも、人の力をこえたものを有り難がる。 最近もコンビニなどのささやかな気配りを「神対応」と呼ぶことが流行り、人気スポーツのこれ見よがしのplayを「神演技」と持ち上げ涙する現象があった。困った人を見たときの自然な思いやりを「神対応」と言い、鍛錬の賜物を「神演技」と言うのを聞くたびに、「神」も人間も安っぽくなったと思うのだ。「神対応」と誉め讃えるなら時給千円余の待遇は失礼に当たる。鍛錬の賜物が「神演技」であれば、「クールジャパン」を支える労働者は悉く「神演技」の持ち主であり、低賃金・過労死に至るまで虐待するのは不敬にあたる。
 政府の非人間的政策が、人々から余裕を搾り取り対人関係を冷やしている。だからささいなことが目立つて、賞賛に走る。敬う気持ちなどありはしないのだ。しかし「神」などを有り難がって、自らの力で現実を変えようとしないならば、新自由主義的非人間政策はいつまで経ってもびくりともしない。

 「神」に幻惑されて実態を見誤ったのは、教育を素直に受け入れた若い世代であった。沖縄戦でも、日本軍に踊らされて集団自決にはやる人々に「生きろ」と制止したのは、教育を受けていない老人たちだった。オウム真理教もみんな若かった。しかし「神」を画策したのは、老若交えた権力と金力であった。それは「三菱財閥がかつて東条大将に一千万円を寄付した」ことに現れていた。
 批判精神は、暗記や命令や念仏で身につくものではない。 だから政権は18歳選挙権とスポーツ芸能騒ぎには異常に熱心で、批判精神には弾圧的である。
 「権力と金力」は「もう一度やってみせて」と再び子どもに言わせて、万能の神を演出する手筈は整いつつある。万能の神は無答責である。

戦時に「反逆」する「学習」

 『十七歳の特攻隊』、昭和元年に生れた芥川賞作家重兼芳子の体験記である。十九年の四月、軍需工場に動員されても、アジアを解放する正義の戦いの、鉄砲玉の一つになろうと決心していた軍国少女たち、ある日寮で集まって炒り豆をかじっていたとき、突然ラジオが聞こえてきた。
 「今から大切な放送があります。皆さんは威儀を正して聞いてください」と前置きがあった。・・・スピーカーから、なにやらしわがれた声がする。抑揚のない、つまらなさそうな老婆のような声だ。・・・「親孝行もできず先立つことを許してください。靖国神社に会いに来てください。広島県出身、十八歳」 ぼそぼそと語られる言葉は少年らしい張りやはずみのある声音ではない、ただ淡々と平板につまらなさそうに続くばかりだ。聞き耳を立てていた私たちは、事態がまだよく呑みこめずにいた。 
   しばらくしてから同じ世代の少年たちが明日飛行機に爆弾を積んで、体当。攻撃に出撃するのだということが分った。ぼりぼりと大豆を噛む音がぴたりと止った。「弟よ妹よ、父母に孝養を尽してくれ。兄は先にゆく。さようなら」言っている言葉は、私たちがいつもくり返し教えられていることだ。しかし、どうして老婆のような沈みきった声であり、力のこもらない無感情な声なのだろう。「死にたくないのだ」と私は直感した。  
 新聞やラジオで報じられているのは少年たちが喜び勇んで出撃してゆくニュースだ。日の丸の鉢巻を締めて白いマフラーをなびかせた勇姿だ。しかし今聞く声は勇ましくもなく喜んでもいない。言葉だけは勇ましくても人間の肉声というのは正確に感情を伝えるものだ。そう感じ取ったのは私だけではなく、五人は呆然として顔を見合わせた。少年たちは声にならぬ声で「死にたくない」と叫んでいる」
  彼女は、体を壊して工場から事務に職場がかわる。
  「徴兵課には毎日おびただしい郵便物が届いた。・・・毎日配達されるおびただしい郵便物は、十七歳、十八歳の少年たちの志願の手紙なのだった。二十歳の徴兵検査まで待つことはできず、どうしても入隊して国のために命を捧げたいという気時が綿々と綴られてあった。 
 少年たちが志願するのは当時の徹底した教育のためだ。学校には軍人になった先輩が後輩を激励にやってきて軍隊に志願することをすすめる。教師もどうにかして生徒を軍隊へ入れようとする。・・・少年たちの熱意に充ちた文面には、米英撃滅、熱血、神州不滅、などという熟語ばかりあった。・・・私は少年たちの熱意に酔いしれ、文面からくる勇ましい声高な文章に引きこまれた。声高な文章というのは真実からほど遠いものであることを、私は全く知らなかったのだ」
 芥川賞作家重兼芳子もこの時は、熱意に充ちた志願書を送った少年たちの出撃間際の声が、スピーカーから流れたしわがれた声であると結びつけることが出来ない。
 敗戦後の8月20日、特攻で死んだはずの兄が帰ってきて、家族は狂喜する。しかしそれも束の間、死んだ戦友の幻影に引き摺られるようにして、半ば自殺するように死んでしまう。 
 重兼芳子の描く少年兵たちは、いずれの局面においても「現在の自分自身」を認識出来ずに徒に状況に引き摺られている。「国のために命を捧げる」自分に酔っている。酔うことを潔しと思い込むことで思考を凍結してしまった。重兼芳子の兄は、凍結した意識のまま敗戦の現実を認識出来ず、再び家族を捨てたのである。

   『十七歳の特攻隊』は小学館編「女たちの八月十五日」に納められている。同じ本に、大正3年生まれの早船ちよ『本を焚く』もある。
 「昭和十六年夏、出版統制令によって、文学の同人雑誌も全国的に整理・統合されることにな・・・る。 わたしは、それまで十年あまりも自宅で、受験学習塾を経営して、子どもをおしえていた。幼稚園からはじまって、小学生・中学生(五年制)の受験競争は、四十年後の今日とくらべても相当きびしいものだった。 英・数・国漢・理科・地歴を学ぶために、数十人の子どもが通ってくる。 
 そこへ、少年航空兵の試験をうけたくて、大阪から家出をしてきた少年もまじっていた。彼と仲よしの朝鮮人の少年は、民族差別のため、中学受験におとされていた。その朝鮮人の彼は、さめた目でファシズム下の日本を見ており、「ねえ、先生。たとい時代がどのように移り変わろうと、科学をしっかり学んでいけば生きていかれますよ、ね」と、敗戦を見とおしているように、いった。 ほかに、三十五歳すぎの三菱重工で働いているおじさんが「ケガキ(鉄板に製図)するのにおら、三角を知らんから教えてくれ」と入門してきた。また、おなじ軍需工場の保険事務の十九歳の女の子が、防空頭巾・もんぺ姿で多摩川べりの寮から夜道を通ってくる。彼女は、といい、しかし、ときには「どうして、わたしは数学をやらずにいられないのか」と、自問するのだった。片岡智恵子というその名を、いまも、わたしは忘れない。 街のクリーニング屋のおばさんも、「何か勉強せにゃ」と、ノートをかかえてくるのだった。灯火管制の暗い電灯のもとに頭を寄せあって、代数の問題を考えたり、古典の『万葉集』や『梁塵秘抄』を、声をだしてゆっくりと読む。ひたむきに学ぶその姿は、戦争に対する無言の抵抗のようにも考えられた。 
 そんなとき、警戒警報が闇空に鳴りひびくと、生徒らは怯えて、からだを固くして身がまえた。ふつう、学校では警報下には帰宅させていた。塾では、「空襲がこないうちに、気をつけて帰りなさいね」といっても、「ううん」と首をふったまま、みんな勉強をつづけるのだった。 少年工の生徒は、「勤労者に特配があったから」と、弁当箱のあさりの佃煮などを、みんなに分けた。ひとつまみの個煮でも、みんな、目を光らせて味わうのだった。 十九年六月、井野川潔が赤紙召集で横須賀の海軍山砲隊の通信兵に徴兵された」   早船ちよ『本を焚く』

  当時彼女は蒲田区に住んでいた。夫の井野川潔は教育学者で、プロレタリア教育運動で、既に二度収監されていた。

  僅か10年の歳月と教育が、軍国少女を産んでいる。それにしても、早船ちよが自宅の受験教室で教えた子どもたちは、重兼芳子が、目にした志願書を送った少年たちと同世代である。
  僕は受験学習塾で警戒警報を振り切って学ぶ少年少女やおじさんおばさんたちの姿を、抵抗をこえた反逆だと思う。朝鮮人少年の「科学をしっかり学んでいけば生きていかれますよ、ね」も多摩川ベリから通う少女の「どうして、わたしは数学をやらずにいられないのか」もクリーニング屋のおばさんの「何か勉強せにゃ」も時局をこえて自立しているからである。自立こそは、全てのファッショ体制下が嫌悪し恐れていた。素晴らしいのは、受験生だけではなく工場のおじさんや朝鮮人少年など教室内が一様ではないことである。現在の学校や大学から消えて久しい「ユニバーサル」な世界がある。
 早船一家が埼玉に疎開してからも、塾生たちは蒲田の家に集まり学習して夜道を帰っていったのである。僕はこの塾生たちのその後を知りたいと思う。空襲で死んだのだろうか、蒲田や川崎の労働者となって戦後の民主化に散ったか、大学にすすんで学園民主化の先頭に立ったのか。
 僕はこうした日照りにも干魃にも怯まない学習への意欲が、戦後工場に地域に経営に無数に広がった「読書会」や歌声、演劇などの多様なサークルに繋がったと考えている。  

追記 早船ちよの塾に通う少年たちほどの反逆性はないが、時局に馴染めない鬱屈して中途半端な旧制中学生の、敗戦後の成長を中野重治は描いている。『五勺の酒』で校長が「ただ僕はこんなことではじまった生徒の活動が、その後停滞してきたように見えるのが気になるのだ」と言っている停滞は、早船が描いた反逆性ある青少年や労働者との関係=連帯のなさに起因していると思う。解放とは、ただ上からの圧迫が消えるだけではなく、自ら圧迫をはね除けて外との多様な関係を結ぶことなのだ。その点は、東大新人会や緑会の時代から今日まで変わらない課題である。
 教師たちは、外との繋がりを同程度の偏差値の学校間と部活の対外試合に限定して閉鎖したがるからである。臆病である。

若者を貧困と無知から解放すべし

    「病気の原因は社会の貧困と無知からくる。」「だがこれまで政治が貧困と無知に対してなにかしたことがあるか。人間を貧困と無知のままにしては置いてはならないという法令が出たことがあるか」   黒澤明は『赤ひげ』で新出去定に怒りを込めてこう言わせている。             ...