昭和47年頃、新卒教師の言葉が命令調になった

日本の68年大学闘争は、対話を伝統をとして残せなかった
 「・・・私は、教育者として、ある時点から、「子どもの心にとどくことばで!」「子どもの心にとどく授業を!」と主張するようになったと書いた。ある時点というの東大闘争・日大闘争が鎖圧されて二、三年あとからである。昭和の年号でいえば47年ころである。 
 じつは、このころから、大学を卒業してくる新卒の教師のことばが、権力者のことばになり、命令調になり、おしつけ調になってきたからである。教育荒廃が叫ばれだしたのも、このころからであった。ちなみに、父親が高校二年の男の子の家庭内暴力に耐えかねて殺してしまった、という事件が、はじめてあらわれたのは、昭和49年である。東大闘争・日大闘争のころまでは、まだ、日本の子どもの側に、「自分の問題」という意識が胸のなかにあり、その問題意識が自分自身をコントロールしていたのである。言いかえるなら、その問題意識が東大闘争・日大闘争ひきおこしていたといえる」 無着成恭『ひと』1985年12月号

 この頃僕は教師になった。各地の国立教員養成大学出身者が、軒並み教員採用試験から排除される事態が続いていた。教委は校長に対等な口をきき、ことあるごとに交渉を要求する大卒生を嫌い、素直で従順な新設間もない女子短大卒業生を好んだのである。
 僕は、「利潤」や戦争に関わることを嫌悪して、革新自治体の東京と京都の高校以外の仕事に希望はないと睨んでいた。それも賭けに近い際どい判断で、仲間の誰もが意図的に留年を選んだ時期であった。

  「新卒の教師のことばが、権力者のことばになり、命令調になり、おしつけ調になってきた」ことに、初め僕は気付かなかった。労働組合の活動家や技能オリンピック入賞者が混じる定時制課程生徒たちに、命令や押し付けは無効だった。
 しかし教研の「働く青年」(定時制)分科会では、生徒の行事参加率が低いことに苛立つ「若い」教師が目立つようになった。行事出席簿を作り、行事出席率を進級の条件にすることが流行った。
 いくつかの職場を経験するうちに、生徒を管理の対象としか考えていないような教師が次第に増えてきたことに気付いた。例えば文化祭で担任学級が入賞すると、教員の打ち上げで、生徒を「如何に締め管理したか」を蕩々と演説する者が少なくなかった。そんな教師が、大学ではセクトに属していたことを隠そうともしないし、組合にも積極的であったのは不思議な取り合わせである。
 ある教師は集会のたびに、お喋りで静まらない生徒たちに対し「お前たちはそんなに偉いのか」と頭越しに恫喝するのが常であった。こうした教師たちは、僕と同年配か若い教師であった。彼らは共通して、対話嫌いで「きまり」が好きであった。対話嫌いと「きまり」好きは生徒に向けられるだけではなく、同僚にも向けられた。決まりには、教委や文部省の通達も含まれていた。年配の教師であれば、焼き鳥屋やストーブを囲んで対話することも可能であったが、彼らには通用しなかった。
 僕の親しい友人は学年同僚たちから学級指導について管理的手法で足並みを揃えるように繰り返し忠告・介入を受け、一年で担任を降りざるを得なかった。同じような例を別の職場でも経験した。
 68年闘争を経験した教師たちがこうであれば、高校生の意識が、閉塞し荒廃へと向かうのは当たり前であった。
 僕はかつての陸軍内務班を想い浮かべ、暗澹たる気持ちになった。日本の68年大学闘争は、ヨーロッパと違い何一つ対話的果実をもたらさなかったのである。それどころか、こうした時代風潮が累積して都政そのものが硬直し、やがて国政が閉塞し、命令口調が国全体に広がったのである。

追記 集会を嫌う生徒たちのお喋りに、声の大きな強面の教師が有り難がられるようになった時期がある。僕のいた下町の工高では、詰まらない話にお喋りするのは正常な反応であるとして、怒鳴ることをしないよう申し合わせをした。教師が交代で腕に縒りを掛けた話をすることにしたのである。これは見事成功した。
 命令口調の教師を珍重したことのツケは大きい。管理職の話になぜ生徒は退屈するのか、年配の先生によれは市販の「ねた帳」があり、大方はそれに頼っているという。書店で立ち読みしたが、実に詰まらない。こんな本を校長会の重鎮が書いて、管理職たちが有り難がって買うのだから困る。校長は生徒の投票で決めねばならない。 

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