戦時に「反逆」する「学習」

 『十七歳の特攻隊』、昭和元年に生れた芥川賞作家重兼芳子の体験記である。十九年の四月、軍需工場に動員されても、アジアを解放する正義の戦いの、鉄砲玉の一つになろうと決心していた軍国少女たち、ある日寮で集まって炒り豆をかじっていたとき、突然ラジオが聞こえてきた。
 「今から大切な放送があります。皆さんは威儀を正して聞いてください」と前置きがあった。・・・スピーカーから、なにやらしわがれた声がする。抑揚のない、つまらなさそうな老婆のような声だ。・・・「親孝行もできず先立つことを許してください。靖国神社に会いに来てください。広島県出身、十八歳」 ぼそぼそと語られる言葉は少年らしい張りやはずみのある声音ではない、ただ淡々と平板につまらなさそうに続くばかりだ。聞き耳を立てていた私たちは、事態がまだよく呑みこめずにいた。 
   しばらくしてから同じ世代の少年たちが明日飛行機に爆弾を積んで、体当。攻撃に出撃するのだということが分った。ぼりぼりと大豆を噛む音がぴたりと止った。「弟よ妹よ、父母に孝養を尽してくれ。兄は先にゆく。さようなら」言っている言葉は、私たちがいつもくり返し教えられていることだ。しかし、どうして老婆のような沈みきった声であり、力のこもらない無感情な声なのだろう。「死にたくないのだ」と私は直感した。  
 新聞やラジオで報じられているのは少年たちが喜び勇んで出撃してゆくニュースだ。日の丸の鉢巻を締めて白いマフラーをなびかせた勇姿だ。しかし今聞く声は勇ましくもなく喜んでもいない。言葉だけは勇ましくても人間の肉声というのは正確に感情を伝えるものだ。そう感じ取ったのは私だけではなく、五人は呆然として顔を見合わせた。少年たちは声にならぬ声で「死にたくない」と叫んでいる」
  彼女は、体を壊して工場から事務に職場がかわる。
  「徴兵課には毎日おびただしい郵便物が届いた。・・・毎日配達されるおびただしい郵便物は、十七歳、十八歳の少年たちの志願の手紙なのだった。二十歳の徴兵検査まで待つことはできず、どうしても入隊して国のために命を捧げたいという気時が綿々と綴られてあった。 
 少年たちが志願するのは当時の徹底した教育のためだ。学校には軍人になった先輩が後輩を激励にやってきて軍隊に志願することをすすめる。教師もどうにかして生徒を軍隊へ入れようとする。・・・少年たちの熱意に充ちた文面には、米英撃滅、熱血、神州不滅、などという熟語ばかりあった。・・・私は少年たちの熱意に酔いしれ、文面からくる勇ましい声高な文章に引きこまれた。声高な文章というのは真実からほど遠いものであることを、私は全く知らなかったのだ」
 芥川賞作家重兼芳子もこの時は、熱意に充ちた志願書を送った少年たちの出撃間際の声が、スピーカーから流れたしわがれた声であると結びつけることが出来ない。
 敗戦後の8月20日、特攻で死んだはずの兄が帰ってきて、家族は狂喜する。しかしそれも束の間、死んだ戦友の幻影に引き摺られるようにして、半ば自殺するように死んでしまう。 
 重兼芳子の描く少年兵たちは、いずれの局面においても「現在の自分自身」を認識出来ずに徒に状況に引き摺られている。「国のために命を捧げる」自分に酔っている。酔うことを潔しと思い込むことで思考を凍結してしまった。重兼芳子の兄は、凍結した意識のまま敗戦の現実を認識出来ず、再び家族を捨てたのである。

   『十七歳の特攻隊』は小学館編「女たちの八月十五日」に納められている。同じ本に、大正3年生まれの早船ちよ『本を焚く』もある。
 「昭和十六年夏、出版統制令によって、文学の同人雑誌も全国的に整理・統合されることにな・・・る。 わたしは、それまで十年あまりも自宅で、受験学習塾を経営して、子どもをおしえていた。幼稚園からはじまって、小学生・中学生(五年制)の受験競争は、四十年後の今日とくらべても相当きびしいものだった。 英・数・国漢・理科・地歴を学ぶために、数十人の子どもが通ってくる。 
 そこへ、少年航空兵の試験をうけたくて、大阪から家出をしてきた少年もまじっていた。彼と仲よしの朝鮮人の少年は、民族差別のため、中学受験におとされていた。その朝鮮人の彼は、さめた目でファシズム下の日本を見ており、「ねえ、先生。たとい時代がどのように移り変わろうと、科学をしっかり学んでいけば生きていかれますよ、ね」と、敗戦を見とおしているように、いった。 ほかに、三十五歳すぎの三菱重工で働いているおじさんが「ケガキ(鉄板に製図)するのにおら、三角を知らんから教えてくれ」と入門してきた。また、おなじ軍需工場の保険事務の十九歳の女の子が、防空頭巾・もんぺ姿で多摩川べりの寮から夜道を通ってくる。彼女は、といい、しかし、ときには「どうして、わたしは数学をやらずにいられないのか」と、自問するのだった。片岡智恵子というその名を、いまも、わたしは忘れない。 街のクリーニング屋のおばさんも、「何か勉強せにゃ」と、ノートをかかえてくるのだった。灯火管制の暗い電灯のもとに頭を寄せあって、代数の問題を考えたり、古典の『万葉集』や『梁塵秘抄』を、声をだしてゆっくりと読む。ひたむきに学ぶその姿は、戦争に対する無言の抵抗のようにも考えられた。 
 そんなとき、警戒警報が闇空に鳴りひびくと、生徒らは怯えて、からだを固くして身がまえた。ふつう、学校では警報下には帰宅させていた。塾では、「空襲がこないうちに、気をつけて帰りなさいね」といっても、「ううん」と首をふったまま、みんな勉強をつづけるのだった。 少年工の生徒は、「勤労者に特配があったから」と、弁当箱のあさりの佃煮などを、みんなに分けた。ひとつまみの個煮でも、みんな、目を光らせて味わうのだった。 十九年六月、井野川潔が赤紙召集で横須賀の海軍山砲隊の通信兵に徴兵された」   早船ちよ『本を焚く』

  当時彼女は蒲田区に住んでいた。夫の井野川潔は教育学者で、プロレタリア教育運動で、既に二度収監されていた。

  僅か10年の歳月と教育が、軍国少女を産んでいる。それにしても、早船ちよが自宅の受験教室で教えた子どもたちは、重兼芳子が、目にした志願書を送った少年たちと同世代である。
  僕は受験学習塾で警戒警報を振り切って学ぶ少年少女やおじさんおばさんたちの姿を、抵抗をこえた反逆だと思う。朝鮮人少年の「科学をしっかり学んでいけば生きていかれますよ、ね」も多摩川ベリから通う少女の「どうして、わたしは数学をやらずにいられないのか」もクリーニング屋のおばさんの「何か勉強せにゃ」も時局をこえて自立しているからである。自立こそは、全てのファッショ体制下が嫌悪し恐れていた。素晴らしいのは、受験生だけではなく工場のおじさんや朝鮮人少年など教室内が一様ではないことである。現在の学校や大学から消えて久しい「ユニバーサル」な世界がある。
 早船一家が埼玉に疎開してからも、塾生たちは蒲田の家に集まり学習して夜道を帰っていったのである。僕はこの塾生たちのその後を知りたいと思う。空襲で死んだのだろうか、蒲田や川崎の労働者となって戦後の民主化に散ったか、大学にすすんで学園民主化の先頭に立ったのか。
 僕はこうした日照りにも干魃にも怯まない学習への意欲が、戦後工場に地域に経営に無数に広がった「読書会」や歌声、演劇などの多様なサークルに繋がったと考えている。  

追記 早船ちよの塾に通う少年たちほどの反逆性はないが、時局に馴染めない鬱屈して中途半端な旧制中学生の、敗戦後の成長を中野重治は描いている。『五勺の酒』で校長が「ただ僕はこんなことではじまった生徒の活動が、その後停滞してきたように見えるのが気になるのだ」と言っている停滞は、早船が描いた反逆性ある青少年や労働者との関係=連帯のなさに起因していると思う。解放とは、ただ上からの圧迫が消えるだけではなく、自ら圧迫をはね除けて外との多様な関係を結ぶことなのだ。その点は、東大新人会や緑会の時代から今日まで変わらない課題である。
 教師たちは、外との繋がりを同程度の偏差値の学校間と部活の対外試合に限定して閉鎖したがるからである。臆病である。

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