かつて旋盤実習棟の屋根裏は木造トラス構造が美しく、動力は天井の長い鉄軸と滑車とベルトで中央動力源から伝えられ、工場らしい錯綜する陰影とリズミカルな音が満ちていた。それが機械ごとの小型モーターに切り替わったのは1970年代半ば過ぎ。高校進学率は90%を超え、夜間高校では働く青少年も地方出身者も急減して生徒の活気も消え始めた。みんなが揃うまでの間、教室のダルマストーブ囲んで、それぞれの職場の春闘方針を巡って騒がしくなることもなくなった。
学生気質の抜けない僕のクラスに、京都からの転校生があったのはその頃である。小柄でひどく痩せた、目の大きな少年であった。どうも元気がないから職場訪問をした。焼き釜を備えた比較的規模の大きな洒落たパン屋で、本人には会わずに店長に会った。
「せんせー、店まで来てくれたんやてな。こんなん初めてや、嬉しゅうて学校まで駆けてきた。・・・あのな、せんせーに言うときたいことあるんやけど聞いてくれるか」
彼は、なぜ京都にいられなくなったか話した。
「内緒やで。今度は頑張るでぇ、せんせー。一度家にも来てや、父ちゃんと母ちゃんにも会うてや。これ俺が焼いてん。店長がな、持たしてくれてん」
僕の好きなクリームパンだった。
「旨いね、有り難う。でも頑張らなくてもいいんだよ」と言っておいた。
夜間高校には給食がある。次の日、彼は僕の向かい側に座った。
「せんせー変わっとるなぁ、頑張らんでもええなんて、店の人たち皆吃驚しとった」
「ふうん」と言うと、
「大人は皆言うで、頑張りぃやーて。何でせんせーだけそない言うねん、知りたいわ」
「そうか、知りたいか。憲法にもお寺のお経にもそう書いてあるんだ。そのうち僕の授業でやろう」
「今知りたいんや、待てんわ」・・・
分かるためには、学ぶ側に主体性が準備されねばならない。レディネスとはこの「今知りたいんや、待てんわ」のことである。こうして突然少年たちの心それぞれに沸き起こる動き、それに我々は常に耳を澄まさなければならない。雑用に忙殺されながら、禅僧のように虚心坦懐になれたら・・・と思う。「今知りたいんや、待てんわ」が、何時、どのようなことで、誰に起きるのか分からない。授業で語ることの百倍も準備する必要があるのはそのためである。一人の生徒に対して百倍であるから、受け持ちの生徒数を考えれば無限と言って良い。かと言って焦って始まらない。
ともかくも、こうして僕は、少年の言葉に添うて寄り道する準備にかかった。
いつも体のどこかがが動いている落ち着かない少年だった。僕にはそれが隙あらば脱走しようと構えているようで、おかしかった。
「逃げたいか」と聞くと
「俺ほんまに学校が嫌いやねん、辛抱でけんのや」と寂しく笑った。
家庭訪問もした。木賃宿風アパートの一角、土間を挟んで障子で仕切られた三畳と四畳半。窓は三畳に一つ、畳はすり切れ、家具は小さな茶箪笥と食卓にテレビだけ。台所もトイレも共同。
「センセー、八つ橋好きかー。俺大好きや」
お喋りである。学校で見せる落ち着きのなさは、ここでは消えている。少し年配の夫婦はニコニコしながら、お茶と銘菓八つ橋を出してくれた。
「年取ってから出来た子でしてな、そのぶん可愛いーて堪らんのです」
「京都に来る人たちは、皆あん入りの生を買うやろ、何でやろな。焼いたんも旨いで、なー父ちゃん」
「学校が嫌いで辛抱でけん」はかなりらしく、時々授業の中抜けをした。
定時制過程の始業前は、全日制の放課後にあたる。雑務を片付けたり、授業の準備したりにはうってつけの静寂と長さがある。二日酔いの昼下がり、出勤すると事務室から手招きがあった。
「先生・先生電話。同じ生徒から三度目」
受付の窓口越しに受話器を受け取る。
「・・・せんせー、堪忍してや、俺なぁ、またやってしもてん。頑張ったんやで、でも手が出てしもた」
件の生徒からである。
「今どこだ」
「捜さんといて、父ちゃんももう駄目やここにも居れん、そういうねん。・・・せんせー・・・世話になったな」
少年はべそをかいていた。一瞬、心中という言葉がよぎる。
「馬鹿なこと言うな、今行く」
目まいがして舌がもつれそうになる。
「堪忍やで、ほなもう行くでぇ。さいなら」
一家は学校と同じ妙正寺川沿い、電話はそこからだろう。事務の自転車で川沿いを急ぐ。住まいは、綺麗に片づいて何もない。心中するなら荷物は持ってゆけない。少し安心して渇きをおぼえた。土間には打ち水がしてある。まだ遠くには行ってない。夕餉の買い物客で混み始めた駅前を何ヶ所か回った。
少年は僅かな金を店から盗み、その日のうちに自分で店長に名乗り出て金も返したのだった。「引き止めたんですが・・・健気に頑張っていました・・・」店長も悄気ていた。僕のたった四人の学級に彼が在籍したのは、ひと月あまり。しばらくは三面記事が気になった。
小栗康平の『泥の河』を見る度に、「またやってしもてん」「堪忍やで」が聞こえる。俳優たちの表情や言葉づかい、川沿いの寂しい光景、振り向きもせず曳航されながら去る廓舟の一家に重なる。
少年は頑張り足りなかったのだろうか。そんなことはない。彼は自分の執着に気付いて嫌気がさしていた。だから直ちに名乗り出て自ら罰している。頑張り過ぎた。高名な作家や政財界要人までが、若い時代の「やんちゃ」を勲章のように雑誌やTVで自慢する。彼らは頑張りもせず地位を得、罰を逃れている、その特権性が勲章、だから吹聴したくなるのか。
少年も両親も頑張りすぎた。彼が姿を消さなければ、制度としての学校は指導と称して退学を勧告したに違いない。
彼のための授業は、「宝暦治水事件」から始めるつもりで下調べにかかっていたが、大学や都立図書館にもめぼしい資料はなく、国会図書館に幾日も通い詰めた。おかげで授業を始める前に肝腎の少年はいなくなってしまった。
授業を聞けば喜んでくれただろうか。やっぱせんせー変っとるわ、そう言っただろうか。
確かなのは彼が学ぶことが苦痛で、「学校が嫌いやねん、辛抱でけん」のではなかったことだ。そうでなければ 「知りたいわ」とは言わない。
少年を思い出すのが辛かった。やらず終いのこの授業は、ベヴァリッジ報告と囚人組合で終わるつもりだった。頑張らねばならぬのは、社会の仕組みであり国家である。個人ではない。