寝る生徒は授業への不満だけではなく、生きる困難や不安を抱えている。寝ている生徒を起こして、幾分とも勉強に気を向けさせれば、学力の問題は前進して不安は解消するのか。逆ではないか。
学力上の問題を抱えた生徒達にとって何より腹立たしいのは、人としての尊厳が成績を根拠に損なわれていることである。人としての尊厳を点数で回復させようとするのは、人ではなく「点数」に尊厳があると再確認させることに他ならない。 成績が悪いことと人としての尊厳は互いに独立であることを、まずは実感できるようにするのでなければならない。進学重点校に異動したがる教員の姿勢も精神も、尊厳も問わなければならない。スポーツの実績を成績に準ずるとして、もて囃すのは「成績」だけが尊厳であるという価値観を拡大するに過ぎない。それを痛いほど身にしみて感じているからこそ不貞腐れて「寝る」。
僕の中学での親友が、スラム住まいで成績は「1」だらけにも係わらず、少しも卑下することなく居眠りもせず明るかった。それは、学校的諸価値・権威に対峙する盛り場の「不良」生徒達の存在があってのことだ。越境入学者ひしめく「名門」であることさえ吹き飛ばす勢いがあった。
今選抜による格差は、学歴であれスポーツであれ「不断の努力と生まれつきの能力による結果」として是認され、焦燥感に満ちた競争に人を駆り立てる。
「学力が明るい未来を約束する」が本当なら、「低学力」は絶望の未来を制度化するのだ。成績に関わりなく、文化的で豊かな生活の保証が学ぶことの前提になければならない筈。にもかかわらず教員は低学力による格差の悲惨を煽り立てる。塾を繁栄させ僅かに順位が動く、努力は塾資本を肥え太らせ権力に接近。競争は決して少年たちを豊かになどしない。
受験戦争とはよく言ったものだ。闘い終えた本人には小さな墓標だけが与えられ、結果は全て受験商人が掠取する。煽てられ騙され塾と部活に入れあげ、青春を潰された挙げ句、塾資本と教材屋に巻き上げられている。「頑張れば結果は着いてくる・・・」と本気にする高校生がいるとしたら、酩酊している。寝るのが正しい。学ぶことは成績や未来の栄達とは関係のないことだと気づくまで、自らの尊厳のためではないかと思い始めるまで。
格差・隔離に彩られて、「学力」は現代の優性思想を根拠づける道具となった。結婚して家庭生活を営むことも出来ないような低賃金・労働環境に追い込まれる非正規労働者に言い聞かせる理屈の根幹をなしているのだ。ナチスは少なくとも「安楽」死と言い繕った。現代の優性思想としての「学力」信仰は、若者を肉体と精神の損傷へ強い、餓死・自殺に追い込み「自己責任」とうそぶく。そういう構造を維持し、「ああいう風に」ならないように頑張れと叱咤するのが教員の役割となった。生徒部は無論、教務も進路も学年もその為の組織である。塾にもアルバイトにも行かず、クラブも委員会も行事もサボる、授業は寝てお喋りすることから「主権者」としての自覚は生まれる。こんなに確かなことはない。
授業観察で、居眠りする生徒の人数を数えるばかりの管理職。その時間だけは居眠りを許さない教師。王工の元総番長なら彼らに対して「何だいつもと違うじゃねえか、カッコつけやがって」と言うだろう。
囚われて肝心なものが目に入らない
宗教学者がガンジスの水辺で、足元のゴミに気を取られ腹を立てた。ために、ガンジスの雄大な美しさに気付いたのは帰国後、家族の撮った写真を見てからであったという。こだわる、囚われたのである。目の前に絶景があっても気付かない。偉人がいても見えない。生徒ひとり一人の成長や変化に疎くなる。
ある教師がうっかり教頭になり、後悔し降格を申し出て教諭に戻る迄の六・七年、玄関脇の花に一度も全く気付かなかったと言う。教委が要求する雑務に文字通り謀殺されていたのである。「毎年咲いていたんですね」としみじみ語った。僅かな地位のために、肝心の感性が枯死寸前だったのである。多分、娘や妻が美しくなっても、息子が可愛い盛りであることにも気付かない。野菜が旨い季節になったのにも。足下のゴミに気を取られ、管理の目でしか生徒たちを見なくなる。
今、教頭や校長ばかりがそうなのではない、主幹・主任・・・階層を増やし、差別へのこだわり・囚われを恒常化して、授業と生徒への関心を奪いとっている。その狙いは、公教育の失敗であり、教育の全面民営化である。
教師が、短期的成果を急かされて指導にこだわる余り、頭髪・ネクタイ・制服・遅刻・・・に囚われて見えなくなるものは余りにも多い。見えなくなるものを、いくつ即答できるだろうか。もし僅かしか浮かばないとすれば、玄関脇の花を見落とす教頭と同じになっている。憐れと言うべきである。
ある校長が、生徒に「どうして授業しないのか」を聞かれて「わたしは管理職だから・・・、ずっとなりたかった」と応えたという。どうしてTシャツはいけないのか、酒煙草は、行事不参加は・・・何故いけないかを聞かれて、「規則だから」としか応えて来なかった男らしい返答である。それを聞いて「なんてつまらないやつだ」と、若者が呆れたのも無理はない。校長はそれに気付いていない、この程度の説明で生徒は納得し尊敬する筈と考えている。その乖離が学校を殺すのである。
「いい加減に管理監視は止めて、教育者らしくしたらどうか」との問いに、校長が
「私は行政の末端である、授業を禁じられている」と誇らしげに言った時、僕は対話の不可能性を受け入れたくなった。
「どうして授業しないか」は、校長を教育者として確認したいとの、生徒の希望を込めた誘いである。少なくとも校長は、「君は何故私に授業をして欲しいのか」ぐらいは聞くべきであった。授業が嫌で校長になるのが多いことぐらい、生徒は気付いている。 愛校心の核には、外に向かって未来に向かって誇れる授業をする教師・校長がいて欲しいと生徒たちは考えたいのである。
ある教師がうっかり教頭になり、後悔し降格を申し出て教諭に戻る迄の六・七年、玄関脇の花に一度も全く気付かなかったと言う。教委が要求する雑務に文字通り謀殺されていたのである。「毎年咲いていたんですね」としみじみ語った。僅かな地位のために、肝心の感性が枯死寸前だったのである。多分、娘や妻が美しくなっても、息子が可愛い盛りであることにも気付かない。野菜が旨い季節になったのにも。足下のゴミに気を取られ、管理の目でしか生徒たちを見なくなる。
今、教頭や校長ばかりがそうなのではない、主幹・主任・・・階層を増やし、差別へのこだわり・囚われを恒常化して、授業と生徒への関心を奪いとっている。その狙いは、公教育の失敗であり、教育の全面民営化である。
教師が、短期的成果を急かされて指導にこだわる余り、頭髪・ネクタイ・制服・遅刻・・・に囚われて見えなくなるものは余りにも多い。見えなくなるものを、いくつ即答できるだろうか。もし僅かしか浮かばないとすれば、玄関脇の花を見落とす教頭と同じになっている。憐れと言うべきである。
ある校長が、生徒に「どうして授業しないのか」を聞かれて「わたしは管理職だから・・・、ずっとなりたかった」と応えたという。どうしてTシャツはいけないのか、酒煙草は、行事不参加は・・・何故いけないかを聞かれて、「規則だから」としか応えて来なかった男らしい返答である。それを聞いて「なんてつまらないやつだ」と、若者が呆れたのも無理はない。校長はそれに気付いていない、この程度の説明で生徒は納得し尊敬する筈と考えている。その乖離が学校を殺すのである。
「いい加減に管理監視は止めて、教育者らしくしたらどうか」との問いに、校長が
「私は行政の末端である、授業を禁じられている」と誇らしげに言った時、僕は対話の不可能性を受け入れたくなった。
「どうして授業しないか」は、校長を教育者として確認したいとの、生徒の希望を込めた誘いである。少なくとも校長は、「君は何故私に授業をして欲しいのか」ぐらいは聞くべきであった。授業が嫌で校長になるのが多いことぐらい、生徒は気付いている。 愛校心の核には、外に向かって未来に向かって誇れる授業をする教師・校長がいて欲しいと生徒たちは考えたいのである。
文化は誰のものか・1
「・・・ドイツは文学や芸術の存在を認めます。しかし、致命的な誤りを犯しました。文化が政府のものとなることを認めてしまったのです。この誤りからすべての悪が生じるのです。イギリスでは文化は政府のものではありません。国民のものです。当然のことながら、文化は過去・現在の私たちイギリス人のものの見方から生まれます。ゆっくりと、無理なく、のんびりと発展して来ました。例えばイギリス人の自由への愛、イギリスの田園、イギリス人のお上品な偽善、イギリス人の気まぐれ、穏和な理想主義やユーモアある理性などなどが、すべて結びついて、確かに完全とは申せませんが、月並ではないと自負してよい何かを作って来ました。・・・」 E.M.フォスター『反ナチス放送講演三篇』1940年9月26日
文化は政府のものではありません。国民のものです
僕は『民主主義に万歳二唱』を読むたびに、この一節を思い出しやるせない気持ちになる。僕にとって、文化が政府のものになるのと、中間団体としての「学校」のものになるのは大して変わりがないからである。生徒・学生・教師ひとり一人が個人的に、サークルとして文化を享受するのに何の異議もない。むしろその雰囲気が消えているのに不満がある。
もし大学や高校が、学校構成員の国家権力による介入に対して闘う伝統があれば、少し話は変わる。
日本の学校における「文化」は、「文化祭」において集中的に表現されるという奇妙な特性を持っている。文化は日常的な営みである。祭りは非日常の時空である、そこでは日常のしがらみから解放される。つまり文化祭では、生徒たちの文化は、二重に守られる。日常的には文化の定義上権力的規制から自由であり、祝祭当日は日常そのものからも自由となる筈のものである。例えば僕の出た高校では、文化祭の三日間の出欠はとらなかったし、教師は三日間のうち一日の半日だけ登校した。
だが現実には、ビラは何枚、ポスター掲示は指定場所のみ。出し物は事前審査が書類で行われ、様々の制限が設けられる。中間団体内における官僚的「中間団体」による介入が、秩序だけを根拠にして進行するのである。若者はこうして、文化には規制が加えられることだけを刷り込まれる。
学校の日常。その中から自然に湧き出す青年の文化を見守りたい。生徒や教師の文化を教育行政その末端が、学校支配下のものと見做し規制を加えてはならない。
「文化」の名を外せばいいかもしれない。早稲田祭や五月祭のように。しかし日本では「文化」包丁や「文化」住宅のような「文化」の使われ方があって些かウンザリもする。しかし「文化」を外して「祭り」にすれば、介入を控える必要がある。
追記 10月2日文科省スポーツ庁が、「スニーカー通勤」のような“歩きやすい服装”を推奨するキャンペーンの実施を発表した。半袖の背広といい、ノーネクタイといい、政府が国民の生活スタイルに介入したがる。文化が政府のものとなることに対する嫌悪感が国民の側に無さすぎる。せいぜい、似合うだのかっこ悪いだのという程度の反応である。このキャンペーンにも広告代理店と天下り官僚が深く関与して消費税の国民から遊離した「有効な」使い道として、記者会見で自画自賛するのである。国民が文化の主体として現れることはないのである。
不満が改革や革命ではなく「破局」に行きつくのはなぜか・2
承前
冒頭の考察は、いま日本の教師たちの授業記録やessayに、教師自身の苦悩や生徒の生活分析が欠落している理由を良く説明している。彼女が工場で働いたのは、人民戦線内閣成立前。労働者階級が最も苦しんだ時期である。出来高払い女工の賃金は親方の恣意に左右された、病気が重なれば直ちに生活は破綻する。労働者は、解雇を恐れ卑屈になった。
これらの生活からシモーヌ・ヴェイユが得たのは、自分自身がなにものに対しても何らの権利を持たぬという感情であった。尊厳は工場で脆くも破られるのである。容赦のない圧迫は、反抗を惹起するのではなく服従を生むのである。
そんな環境にあっても、彼女は、自由な仲間付合いの各々の瞬間が恰も永遠であるかのように、それをかみしめて味わう能力を得たことを喜びとして自覚している。
彼女は社会的不正義に対する抵抗としての革命の必要性は認めていた。しかし、物質的条件だけでは、仕事の単調さ、非人間性、不幸を打ち破ることはできないと結論付けた。そうしてたどり着いたのは、単調さに耐える一つの力、「美」であった。生活の中の光としての美または詩。シモーヌ・ヴェイユはその根源を神に求めた。
戦後、労働者の状態は、社会主義国でも資本主義国でも見違えるように改善される。特にビバリッジ報告がイギリス社会を根底から変えた。少なくとも工場外生活は快適に、工場生活もある程度快適になったが、文化的精神的無気力や官僚主義という新たな問題が現れたのである。
シモーヌ・ヴェイユの工場労働による考察から、80年が過ぎているというのに、我国の労働者の状況は少しも前進していないどころか悪化している。
『工場日記』に気になる一節がある。工場で尊厳を破られた人々は、これを新たに構築せずにはおれない。そのために「人々は自分たちの価値を示す外的徴候を必要とする」というのだ。自己を価値あるものとして知らしめる目に見えるしるし、それがなければ自信を取り戻せない。
それが入れ墨やマッチョな風体、自らを「非正規」から分離するリクルートスーツに首からぶら下げる身分証。
集団性を帯びれば「クールジャパン」風のうっとおしいまでの自己賛美・陶酔であり、南京大虐殺や強制連行も大震災時の朝鮮人虐殺もなかったのだとする歴史修正。
そして従属国としてしか扱われず他国からは見做されない日米関係を対等と言い募るための貢としての、武器の大人買い、国家的ヘイトスピーチなのではないか。われわれは、我々自身の中に価値を見出せないでいるのだ。この否定的現状況を、この国の労働状況に逆照射して見る必要がある。
我々に必要なのは、矜持である。世界のあらゆる国や民族と同じように独自の技術や風習・自然を持つ小さな国に過ぎず、先の戦争では取り返しのつかない犠牲をアジア諸国に強いた国でもあることを自ら認め反省したうえで、対等平等な関係を目指す必要がある。この国は近隣の国々との互恵関係なしには成り立ちえないのである。
それが出来ないで、上から目線の傲慢さと、強いものへの卑屈さに依存するというのは、「自分たちの価値の外的徴候」を必要とするほどまでに、我々の生活・労働環境が直視できないほど悲惨であることを自白している。
追記 シモーヌ・ヴェイユはスペイン市民戦争にも義勇兵として参加、自由フランス亡命政府では文書起草に励み、同時に「前線看護婦部隊」の創設参加を嘆願して却下されている。 対独勝利を知ることなく、英国で無名のまま客死した、34才であった。戦後、残されたノートが知人の手で出版されるやベストセラーに、その後も膨大な原稿・手紙・ノート類を知人たちが出版した。名利と言ういうものを知らないかのような、生涯であった。頭痛に苦しんだ。
「自由フランス」亡命政府でのシモーヌの身分証明書 combattante (戦闘員)とある |
1931年22歳のシモーヌ・ヴェイユは、高等師範学校で大学教授資格を得たが、リセで哲学を教えた。組合運動や独自の教科指導が校長を刺激し、短期間に転勤を繰り返している。その一時期、25歳のシモーヌは非熟練工として働く。本当の人間と人間関係を求めたその生活は、哲学者ヴェイユに重要な体験をもたらしている。「・・・不幸のニュアンスと原因を捉えるためには、自分自身の心を分析する必要があるが、普通そういうことは不幸な人々にはできない。分析の能力はあっても、その能力を働かせること、考えることが、不幸そのものによって妨げられるからである。・・・当人たちの歎きは、ほんとうの不幸を語らず、見当ちがいであることが多いし、大きな不幸がながくつづいているときには、一種の羞恥心から何もいわない場合が多い。不幸な生活環境は、かくして、沈黙の地帯をつくり出すのであり、そこには、島のなかのように、人間が閉じこめられているのである。島を出ると、彼をふり返る者はない」
冒頭の考察は、いま日本の教師たちの授業記録やessayに、教師自身の苦悩や生徒の生活分析が欠落している理由を良く説明している。彼女が工場で働いたのは、人民戦線内閣成立前。労働者階級が最も苦しんだ時期である。出来高払い女工の賃金は親方の恣意に左右された、病気が重なれば直ちに生活は破綻する。労働者は、解雇を恐れ卑屈になった。
「悲劇的なのは、仕事が余りに機械的で、考えの対象にならないということ、しかし他のことを考える余裕はないということです。考えれば、手の速さが落ちる、一方仕事の速さには無慈悲にきめられた要求があって要求をみたさかければ解雇か解雇されなくても、食べてゆけない、・・・」『ある女生徒への手紙』
「力尽きると、工場にいることの本当の理由を忘れ、この生活のなかでのいちばん強い誘惑に欺けそうになる。もはや考えないこと、苦しまないためのただ一つの手段。土曜日の午後と、日曜日にだけ、私もまた考える人間であったということを想出す。・・・もし週末の休みのない仕事をやらなければならなくなったら、それだけでも、私は従順な動物のようになるだろう。・・・ただ友情と、他人に対して加えられた不和に対する怒りとだけは、まだそのまま残っている。しかしそれも、長く時が経てば、結局どこまでもち耐えられるだろうか?一人の労働者の魂の救いは、何よりも、その肉体的な素質に係っている、と言いたいぐらいだ」『工場日記』
これらの生活からシモーヌ・ヴェイユが得たのは、自分自身がなにものに対しても何らの権利を持たぬという感情であった。尊厳は工場で脆くも破られるのである。容赦のない圧迫は、反抗を惹起するのではなく服従を生むのである。
そんな環境にあっても、彼女は、自由な仲間付合いの各々の瞬間が恰も永遠であるかのように、それをかみしめて味わう能力を得たことを喜びとして自覚している。
彼女は社会的不正義に対する抵抗としての革命の必要性は認めていた。しかし、物質的条件だけでは、仕事の単調さ、非人間性、不幸を打ち破ることはできないと結論付けた。そうしてたどり着いたのは、単調さに耐える一つの力、「美」であった。生活の中の光としての美または詩。シモーヌ・ヴェイユはその根源を神に求めた。
戦後、労働者の状態は、社会主義国でも資本主義国でも見違えるように改善される。特にビバリッジ報告がイギリス社会を根底から変えた。少なくとも工場外生活は快適に、工場生活もある程度快適になったが、文化的精神的無気力や官僚主義という新たな問題が現れたのである。
シモーヌ・ヴェイユの工場労働による考察から、80年が過ぎているというのに、我国の労働者の状況は少しも前進していないどころか悪化している。
『工場日記』に気になる一節がある。工場で尊厳を破られた人々は、これを新たに構築せずにはおれない。そのために「人々は自分たちの価値を示す外的徴候を必要とする」というのだ。自己を価値あるものとして知らしめる目に見えるしるし、それがなければ自信を取り戻せない。
それが入れ墨やマッチョな風体、自らを「非正規」から分離するリクルートスーツに首からぶら下げる身分証。
集団性を帯びれば「クールジャパン」風のうっとおしいまでの自己賛美・陶酔であり、南京大虐殺や強制連行も大震災時の朝鮮人虐殺もなかったのだとする歴史修正。
そして従属国としてしか扱われず他国からは見做されない日米関係を対等と言い募るための貢としての、武器の大人買い、国家的ヘイトスピーチなのではないか。われわれは、我々自身の中に価値を見出せないでいるのだ。この否定的現状況を、この国の労働状況に逆照射して見る必要がある。
我々に必要なのは、矜持である。世界のあらゆる国や民族と同じように独自の技術や風習・自然を持つ小さな国に過ぎず、先の戦争では取り返しのつかない犠牲をアジア諸国に強いた国でもあることを自ら認め反省したうえで、対等平等な関係を目指す必要がある。この国は近隣の国々との互恵関係なしには成り立ちえないのである。
それが出来ないで、上から目線の傲慢さと、強いものへの卑屈さに依存するというのは、「自分たちの価値の外的徴候」を必要とするほどまでに、我々の生活・労働環境が直視できないほど悲惨であることを自白している。
追記 シモーヌ・ヴェイユはスペイン市民戦争にも義勇兵として参加、自由フランス亡命政府では文書起草に励み、同時に「前線看護婦部隊」の創設参加を嘆願して却下されている。 対独勝利を知ることなく、英国で無名のまま客死した、34才であった。戦後、残されたノートが知人の手で出版されるやベストセラーに、その後も膨大な原稿・手紙・ノート類を知人たちが出版した。名利と言ういうものを知らないかのような、生涯であった。頭痛に苦しんだ。
不満が改革や革命ではなく「破局」に行きつくのはなぜか・1
超現実主義を取り上げた時の 答案の落書き |
ある教師は夜遅くまで準備室に灯りをつけ、近所の高層住宅の生徒から「昨日は10時過ぎたね」と言われ誇らしげであった。そうした言葉が、聖者をつくってしまう。
仕事をきちんとやり残して、明るいだらしなさを示したい。あいつが怠けるから、俺たちに迷惑がかかると毒づく者がでるに違いない。それに平然と耐えることが闘うことだと思う、確かにそれでは多数派にはなれない。
でなければ、原爆二発落落とされなければ戦争を止めなかったこの国の数十年前と変わらない。日本の教師は、同僚から「出来ない奴」と見なされるのを異様に恐れる、無能と言われるより過労死を選ぶ狂気。出来そうもないことすら、命を引き替えにやってしまうのだ。
Max Weberが闘い続けた俗論、「善意からは良いことしか生まれない、良いことの集積は良いことである」とする考えの先頭に教師はいつもいる。
もしこの理科の先生が倒れたら、次の先生も倒れる。はじめの理科の先生の頑張りようが次の教師の仕事の標準になるからだ。新設されたばかりの高校でそんなことが実際あって、同じ教科で次々と四人が倒れ死者もでた。公務災害にはなったが、それで済んでしまう理不尽が残る。
駄目な奴になる勇気を持たねばならない。
少なくとも夕方六時以降の仕事は、副校長の机に積み上げておくべきだと思う。「其れで良いのだ」とバカボンパパに赤塚は言わせた。N高ではそういうことが何度もあった。O高では、生徒部のなり手が無くなるほど生徒部が忙しくなったが、使命感と聖職意識が誤魔化していた。僕は、生徒部の仕事を減らすことを主張した。下らない「指導」がいっぱいあった。例えば リーダー合宿、四人も顧問をつけて二泊三日でわざわざ伊豆や大島に行く。止めて何の差し支えも無かった。旅費も研修に回せた。
ついでに教務の仕事も減らした。かつては「名人」が、春休み前から秘密の部屋に籠って、何日もかけて時間割編成作業していた。それを四月始業式後、誰でも覗ける部屋で注文や苦情を聞きながら、手を出させながら作業、残業せず次の日にちゃんと持ち越した。当面は臨時時間割でしのいだ。そうすることで、公平な時間割をつくれた。
やってみれば時間割編成は、誰にでもできる作業であった。行事予定も無理に決定せず、表の欄外に出すか、予定表そのものから削除するかして、行事予定作成の職員会議を減らした。生徒部や学年の会議もやめたり減らしたりした。
会議好きで聖職意識の強い人達はムッとしていた。
頑張りすぎて薬が手放せなくなった担任たちを、サボる先生に変えもした。お陰でクラスが見違えるように良くなった。
これは過去を懐かしがっているのではない。ある時を境に都立高校教師の意識体質が変わったことを記憶しておかなければ、状況を変えることも出来ないだろうからだ。その境目は主任制度化とかぶさっている。それは偶然ではなく、内的関連性を持っている。
教師の労働強化は、既に限度を突破して悲痛な聖職意識と命で補っている。一億総玉砕と同じ匂いがする。
政権はその空気に悪乗りして教師が死ぬのを放置して自己管理・自己責任と言う気だ。
個人の断乎とした意志で「残業・休日労働」を中止する必要がある。その意志を支えるのが仲間であり職場。作戦本部が分会職場会だった。其れが教育を守ることだというのは誰もが百も承知の筈。しかし承知だけが何十年続いてどれだけの教師殺すのか。教師聖職論に反対して聖者を量産している。フランスやスペインの教師が百万単位でデモを組織して闘うところを、日本の「民主的」教師は命をかけて強化労働をこなし、現状を追認する。ここに深刻な難問がある。シモーヌ・ヴェイユが投げかけた問題である。 つづく
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