無政府主義は無秩序ではない。権力によらない秩序、すなわち自治である。何故、残留孤児は拾われたのか。

尊厳は自と他の間に生まれる。
 黒沢明の「羅生門」の終わりに、赤ん坊が登場する。鳴き声を聞きつけた下人が抱きかかえてくるが、
 「どっちみちこの着物は誰かが剥いでいくにきまっている。俺がもっていくのが、何が悪い。俺が鬼なら、こいつの親はなんだ。てめぇ勝手が何が悪い。人間が犬を羨ましがる世の中だ。てめぇ勝手じゃなきゃ、生きていけねぇ世の中だ」と言い捨てて、赤ん坊を包んでいた物を剥いで消え去る。
 雨の羅生門に、途方に暮れる僧侶と木こりと産着の赤ん坊が残る。しばらくして木こりが赤ん坊を抱き、
 「うちには6人子がある。6人も7人も苦労は同じじゃ」と目を細めて言う。それを聴いて僧侶は
 「ありがたいことだ。お主のおかげで、私は、人を信じていくことができそうだ」と手を合わせる。雨が上がり、木こりは宝を抱えるようにして家路につく。

 僕は、中国に残された孤児たちを引き取った中国人たちを考えるとき、志村喬が演じた子だくさんの
貧しい木こりを想う。下人のように身ぐるみ剥ぎ、扱き使った者もあったかも知れないとしても。
 方正県の松花江沿いの村に泊まったことがある。そこでも、孤児を巡る話は聞こえてきた。

 女と子どもだけで逃げ惑ったことに、悲劇の最大の要素がある。残留子女たちが共通して言うのは、「軍隊は国民を守らない」である。関東軍当局は、保護すべき満州開拓民を徴兵、ソ連に対する防壁として国境に動員して、自分たちはいち早く逃げ去ってしまった。悲劇は、戦争に伴う自然現象ではない。日本軍の作為の結果なのだ。

 実に様々の動機が、孤児を貰う側にも、預ける側にも、捨てる者にもあった。
 無一物の捨て子に木こりや満州の中国人が見たのは、人間の「尊厳」そのものだった。財産も家柄もない、放置すれば確実に死が襲いかかる。判断を促すのは、尊厳だけだ。

 中国革命には、無政府主義の影が濃い。毛沢東にそれがあると言うばかりではない。幾たびもの長い革命を経る度に、人々は権力によらない秩序を作り上げてきたのだ。無政府主義は無秩序ではない。自治である。
 江戸では孤児が出ると、長屋の大家が知恵を絞った。しかしこれは自治ではない。幕府の命令・指示が町年寄を通して降りてきたものである。指示を待ち伺いを立てる性癖からは、尊厳は導き出せない。

 西安を東西に貫く大通りの夏の昼下がり、年寄りたちが
突然座り込んだのに出くわしたことがある。30年も昔だ。瞬く間に交通は渋滞し、警察もやってくる。しかし、年寄りたちは動じる様子もない、小さな椅子を持ってその数は増える一方だ。僕は路線バスの真ん前でこれを見ていた。どうなるのかどうするのか、興味が湧いて暫くは高見の見物と決め込んだ。10分もしただろうか、頬杖をついて座り込みを眺めていたバス運転手が、意を決したように大型バスを歩道に乗り上げ、裏道に出て現場を大きく迂回した。驚いた。日本の路線バスは、停留所を僅かに移動させるにも数ヶ月前に申請して当局の許認可を得なければならないからだ。中国で路線バスが、迂回する場面にはよく出くわす。
 数時間後用を終えて、同じ現場を歩きながら通りかかると、座り込みは依然として続いていた。警察は話を聞いてはいるが、年寄りを排除はしなかった。TVカメラもやってきていた。夕方の番組と翌朝の新聞によれば、再開発に対する異議申し立てであった。市民も鉄道のストライキに出くわした日本人のように、「迷惑だ」などとは言わない。この点では、中国の方がヨーロッパに近い。


 この一件でこの国に対する僕の印象は大きく変わった。八路軍が階級を廃止した歴史的決断も、すんなりと理解できるようになった。「農民の物は針一本取ってはならない」と言う徹底した倫理性は、人間そのものへの尊厳の観念と一体である。

 
 中国のホテルも鉄道も食堂も、実に幅広く素早い臨機応変の対応をする。上の判断をいちいち仰ぐことがない、現場・個人の判断が明確で速い。夜行列車で暗いうちにホテルに着いても、部屋の様子を確かめるとすぐに入れてくれる。すぐに風呂を浴び一眠りして、街に出て朝飯を食べて近所を一巡りしてきても、午前中だ。始め僕はてっきり午前中の使用分は一泊として請求されるとていたが、「不要」と笑顔で言う。これはどの街に行っても、最近になっても変わらない。日本の宿は、何があろうと3時にならないと入れない。時間前に着いた客がロビーに溢れてもだ。

 人間そのものに尊厳を認めない。決まりが絶対であって、決定権は人間にないのだ。僕らのこの社会は、家柄や財産に、学歴に、組織に尊厳を見出す。だから茶髪を禁じるなどと言う理不尽が通るのだ。教科書をつくる権利や職員会議で採決する権利を奪われた我々は、生徒が服装や頭髪を決定する権利を奪い「憂さ」を晴らしているかのようだ。

   中国社会の深くに、自治を促す無政府性の秩序がある。違いを前提とした日常的揉めごとが多発してこそ、公=publicの概念は成立する。それなくして巨大な国土と人口を維持出来ないだろう。残留日本人孤児の引き取りも、その中では、自然な流れだった。何しろ多民族国家でもある。
 羅生門の木こりが生き生きとしているのは、赤ん坊と自身の尊厳を守る決定権を手放さないからである。尊厳は自と他の間に生まれる。

 
追記 1957年、積極的に日中国交正常化をはかる石橋湛山首相が僅か65日で退く。替わって日米安保成立を目指す岸信介が就任。日本の対中政策は一転。台湾国民政府の大陸回復支持を表明、日中関係は悪化する。1958年に集団引揚は打ち切られる。翌1959年、日本は戦時死亡宣告制度を導入。たとえ中国で生存している可能性が高い者であっても、在日親族の同意さえ得られれば、戸籍から抹消しても構わないことになった。悲劇が政府によって加速するのがこの国だ。
 

シモーヌ・ヴェーユもソクラテスもいた教室

 一年前、このブログに「私がビリでもいいでしょう」を書いた。部分を再録する。

 「二年生「現代社会」の自習課題に「欲しいものを一つ書きなさい」と出した。
 悦ちゃんのこたえ

     「トビキリ美人のお姉ちゃんが欲しい。私にはお兄ちゃんがいるけど、威張って命令ばかりしている。だからお兄ちゃんはいらない。お下がりをくれたりする優しいお姉ちゃんが欲しい。でも私には弟がいる、よく考えれば弟から見れば私はお姉ちゃんだ。トビキリ美人というのは無理だけど、それ以外で優等お姉ちゃんになれるように頑張ろう」

 悦ちゃんは成績会議の常連だった。
 「誰かがビリにならなきゃいけないんだったら、私がビリになってもいいでしょう」と微笑むさまは爽やかだった。頑張るという言葉が、彼女の前ではあっさりズレた響きを持つのだ。クラスの誰もが、彼女を悦ちゃんと呼んでしまうのも不思議だった。
 このこたえを、すべてのクラスで読んで一時間話した。・・・

 僕は美人とは彼女のことだと思う。素樸で何一つ付け加える必要がないが、妙な癖があった。緊張するとしゃっくりが始まるのだ


  シモーヌ・ヴェイユを再読して、僕は悦ちゃんを思い出した。 シモーヌ・ヴェイユについては、「不満が改革や革命ではなく「破局」に行きつくのはなぜか・2 」←クリックに書いた。

  直接の要点だけを抜き書きする。
 
シモーヌ・ヴェイユは「物質的条件だけでは、仕事の単調さ、非人間性、不幸を打ち破ることはできないと結論付けた。そうしてたどり着いたのは、単調さに耐える一つの力としての「美」。生活の中の光としての美または詩である。シモーヌ・ヴェイユはその根源を神に求めた」     

 夏目漱石は、シモーヌ・ヴェイユのように「神」を通してではないが、同じことを「草枕」の冒頭で言っていた。
・・・智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
 住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。
 人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣りにちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。
 越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするが故に尊とい

 我々はこれを理解しているとは言いがたいが、なんとなく口ずさむことが出来る。

  シモーヌ・ヴェイユも夏目漱石も、生きにくさに耐える手掛かりを、「美 」に求めている。

 悦ちゃんは、逃れられぬ日常に「美」を見出している。彼女はシモーヌ・ヴェイユが、高等師範で得た教授資格を放棄して工場に女工として飛び込み、思索を重ねてようやく辿り着いた結論にいとも簡単に立っていたのだ。
 あの時悦ちゃんは、高二だった。高校二年生は、少年が青年になる。知的に飛躍を遂げる一瞬を内包した、かけがえのない時期だ。

 まだ30代だった僕は、悦ちゃんの決意を美しいとは思った。だがその深い思想性までは至らなかった。
 「誰かがビリにならなきゃいけないんだったら、私がビリになってもいいでしょう」と屈託なく微笑むさまを、今もありありと思い浮かべることが出来る。観音菩薩が笑えば、こんな風だろうと思える穏やかな雰囲気があった。

 僕らは高校生に教えることに意識をとられ、彼らから学ぶ力を捨てている。一体何人の
シモーヌ・ヴェイユやソクラテスを捉え損なったのだろうか。悔やみきれない。

追記 シモーヌ・ヴェイユが女工となったのは、職業選択の自由の行使の結果だろうか。彼女は職業選択の自由を放棄して、自由を得たのではないだろうか。

IT革命賛美と市場原理一辺倒の新教科「公共」指導要領を嗤う

「市場理論で人間関係は解けない」
 自由主義経済理論の開祖・ハイエクに求められ今西錦司が対談したことがある。この対談でハイエクは、今西錦司に全く歯が立たなかったのだが、対談そのものは長い記録となって残っている(自然・人類・文明NHKブックス)それを受けて中沢新一と山極寿一が『現代思想』2018年9月号で議論している。テーマは「生きられた世界を復元できるか」。
 
 新教科「公共」指導要領を批判するのに、教育や社会科学以外の論客を引用するのは、所詮教養というものは、「事柄をずらす」ところからしか始まらないからである。教育も経済も、競争と効率から抜け出そうとしない。

中沢新一 ・・・現在のわれわれの世界は、ITとマーケットでもって決定されています。政治家の決定などは、二次的・三次的な茶番みたいなものです。実際はマーケット上での覇権をどう調整していくかということをもとに動いていて、政治家の言語はその上で一種の茶番のようにして展開しています。そしてその根幹にあるマーケット原理でこの地球をすべて運営していこうとしているのです。それを円滑に動かそうとしているのがAIという技術です。そういう地球に対して、ハイエク的な市場世界に対して、今西さんはノーと言っているわけです。
山極寿一 よくわかります。今西さんの考えの根幹になるのは、実体あるものはすべて界面を持っている、つまり個体性を持っている、ということです。そして、界面のないものは言語がつくり出した幻想だと。そうなると、コミュニティもマーケットもすべて幻想です。
かたや、生物にしろ石にしろ、実体のあるものはすべて界面を介して関係性が生じる。人間あるいは生物の社会も、そういう個体性を介して成り立っているわけであって、それを計算できるわけがないということになりますね。それはおそらくレンマとも通じると思います。
 ハイエク的経済の思想は、個の決定権が外から見える、あるいは操作できるというものです。マーケットとはそういう話ですよね。
だからこそAIが登場できるわけです。AIは自律的なものではなく、外から操作可能なものですから。人間個体あるいは生物個体それぞれの、ある政治的な決定の瞬間を見れば、票として数えることができる。あるいは、ゼロサムとして、分布として、考えることができる。そういうふうに落とし込んでいかないと、計算できないからです。あるいは、分布を政治空間のなかに固定してしまって、それが別の空間にどう移り変わっていくかという微分積分の話をしてもよいのですが、とにかくそういうふうに数式化しないと、経済として予測ができない。
 しかし、個がゼロサムでもなければ独立しているものでもなく、なおかつ価値を中心に捉えることもできないものだとすればどうでしょう。今の幸福論によれば、お金を持っているから幸せというわけではなく、あるいは物質的なものたちに囲まれているから裕福と感じるわけではなく、人間自身がどういう条件が幸福であると考えるかはそれぞれで違っています。いわば、いろいろなコミュニケーションを経て人間が決定した結果は揺れ動いているのです。ですから、マーケット理論では人間関係は解けないのです。AIでも解けない。そこに思いを馳せないと、人間の社会がどうなっていくかとか、個人個人がどういうふうになっていくかということは予想できないのではないでしょうか。
 今よく言われているのは、かつて人間は社会に生きていた、今は経済に生きている、ということですが、それは経済が社会を豊かにする、経済こそが社会の根底に座っていて、社会は経済によってよくも悪くもなる、と思っているからです。しかし、そもそもは逆だったはずです。経済は社会を豊かにする方法の一つにすぎなかったはずなのに、経済指標を目標に掲げ、「右肩上がりの経済」とどこの国でも言っている。そして政治家はみんな経済を気にする。それはまさに資本主義と現代科学が手を取りあった結果です。そういう社会の見方は根本から改めないといけない。
もう限界に来ているのですから。


  「政治家の決定などは、二次的・三次的な茶番」であれば、新教科「公共」の論旨は五番煎じの後の出がらしにもならない。
 文部科学省による「高等学校学習指導要領解説 公民編」2018 を見て驚くのは、その量だ。pdfファイルにして173ページもあることだけだ。
 その中で「労働基本権」はたった一カ所、次のように触れられるのみ。
 「このような現状を踏まえて、それぞれの事情に応じた多様な働き方・生き方を選択できる社会の在り方について、労働保護立法の策定や労働組合の果たす役割、労使協調などにより雇用の安定を確保するという考え方と、規制緩和による就業形態の更なる多様化、成果主義に基づく賃金体系、労使の新しい関係などにより労働力を効率的に活用するという考え方とを対照させ、年齢で区分せずに能力や意思があれば働き続けられる雇用環境の整備、さらに仕事と生活の調和の観点などから探究できるようにする。
その際、例えば、勤労の権利と義務、労働基本権の保障、労働組合の役割などを基に、正規・非正規雇用の不合理な処遇の差や長時間労働などの問題、派遣労働者やパートタイマーなど非正規労働者、女性や若年者、高齢者、障害者などの雇用・労働問題、失業問題、外国人労働者問題など具体的な事例を取り上げて自分の考えを説明、論述できるようにすることが考えられる」
 「ILO」「カルテル」「談合」「不当労働行為」に至っては全く言及がない。このことだけでも「公民」「公共」の正体は知れる。

 経済分野について解説は次のように書いている。

 職業選択、雇用と労働問題、財政及び租税の役割、少子高齢社会における社会保障の充実・安定化、市場経済の機能と限界、金融の働き、経済のグローバル化と相互依存関係の深まりなどに関わる現実社会の事柄や課題を基に、公正かつ自由な経済活動を行うことを通して資源の効率的な配分が図られること、市場経済システムを機能させたり国民福祉の向上に寄与したりする役割を政府などが担っていること及びより活発な経済活動と個人の尊重とを共に成り立たせることが必要であることについて理解すること。

 「職業選択」については、産業構造の変化やその中での起業についての理解を深めることができるようにすること。「雇用と労働問題」については、仕事と生活の調和という観点から労働保護立法についても扱うこと。「財政及び租税の役割、少子高齢社会における社会保障の充実・安定化」については関連させて取り扱い、国際比較の観点から、我が国の財政の現状や少子高齢社会など、現代社会の特色を踏まえて財政の持続可能性と関連付けて扱うこと。「金融の働き」については、金融とは経済主体間の資金の融通であることの理解を基に、金融を通した経済活動の活性化についても触れること。「経済のグローバル化と相互依存関係の深まり」については、文化や宗教の多様性についても触れ、自他の文化などを尊重する相互理解と寛容の態度を養うことができるよう留意して指導すること。

 公正で自由な経済活動を通して市場が効率的な資源配分を実現できるのはなぜか、市場経済において政府はどのような経済的役割を果たしているか、活発な経済活動と個人の尊重をともに成り立たせるにはどうしたらよいかなどの問いを設け、他者と協働して主題を追究したり解決したりする活動を通して、「公正かつ自由な経済活動を行うことを通して資源の効率的な配分が図られること、市場経済システムを機能させたり国民福祉の向上に寄与したりする役割を政府などが担っていること及びより活発な経済活動と個人の尊重とを共に成り立たせることが必要であることについて理解」できるようにすることを主なねらいとしている

 職業選択については、現代社会の特質や社会生活の変化との関わりの中で職業生活を捉え、望ましい勤労観・職業観や勤労を尊ぶ精神を身に付けるとともに、今後新たな発想や構想に基づいて財やサービスを創造することの必要性が一層生じることが予想される中で、自己の個性を発揮しながら新たな価値を創造しようとする精神を大切にし、自らの幸福の実現と人生の充実という観点から、職業選択の意義について理解できるようにする。
その際、「産業構造の変化やその中での起業についての理解を深めることができるようにすること」(内容の取扱い)が必要であり、グローバル化や人工知能の進化などの社会の急速な変化が職業選択に及ぼす影響を理解できるようにするとともに、新たな発想に基づいて財やサービスを創造する必要が予想される中で、社会に必要な起業によって、革新的な技術などが市場に持ち込まれ経済成長が促進されるとともに、新たな雇用を創出するなど経済的に大きな役割を果たしている企業もあることを理解できるようにすることが考えられる。
なお、実際に職業を選択する前には、特別活動などにおいてインターンシップに参加することなどによって働くことの意義について「具体的な体験を伴う学習」を通して考察することが考えられる。その際、「この科目においては、教科目標の実現を見通した上で、キャリア教育の充実の観点から、特別活動などと連携し、自立した主体として社会に参画する力を育む中核的機能を担うことが求められることに留意すること」が必要であり、企業についての情報を十分に集めるなどの事前の準備が大切であること、また、インターンシップへの参加によってどのように職業観が変わったかなどについて振り返る活動が必要であることに留意する必要がある。
 職業選択...に関わる具体的な主題とは、例えば、人工知能の進化によって、労働市場にはどのような影響があるか、技術革新や産業構造の変化によって、働き手に求められる能力はどのように変わるか、といった、具体的な問いを設け主題を追究したり解決したりするための題材となるものである。
その際、例えば、働くことには賃金を得るだけではなく、自己の能力を発揮し、社会に参加するなどの意義があること、職業を選択するには各自の興味や適性、能力を知る必要があるが、これらは経験を積み、学習を深めることにより変化すること、などの観点から多面的・多角的に考察、構想し、表現できるようにすることが考えられる。

 
 文体そのものが、人に読んで貰うことを前提としていない、一方的に周知させたいことのみを、だらだらと羅列する。「指導要領」の「指導」が戦前の「戦争指導大綱」や「戦争指導要領」で使用した「指導」の範疇を一歩も出ていない。この言葉を唾棄しなかったことも、敗戦に伴う痛恨の極みとしなければならない。

  「労働基本権」の代わりに多用される言葉が「職業選択」であることが分かる。あたかも選択が自由を保障しているかのような気分にさせる狙いが潜んでいる。選択が「自由」の範疇であれば、死刑囚にも無限の自由があることになる。なぜならば、刑執行前の何時舌を噛み切って死のうが、絶食して死のうが無限の選択肢があることになるからだ。
 労働者はここでは、「グローバル化や人工知能の進化による労働市場や技術革新や産業構造の変化」に応じて「選択」迫られる受け身の存在になる。それをあたかも自然現象であるかのように、「公正で自由な経済活動を通して市場が効率的な資源配分を実現できる自由な市場経済」を説明し理解させようとしている。


追記 対談の中で「レンマ」という用語が使われている。言葉だけではとらえきれない多次元的で複雑な世界を、直感的に把握する「とる」「受け取る」というギリシャ哲学や仏教の方法をさす。
 分析的手法で読み込めば、そのたびに欠落するものがある。迎合する者や忖度する者がやれば尚更のことだ。要素に分解して分析したものから全体を再生させることは出来ない。分解して再構成したものからは、技術しか出てこない。戦後、膨大な教育技術がこれ見よがしに提唱されたが、その殆どは消えた。それは分析によって、人間と教育の全体性を見失ったからである。   

若者を貧困と無知から解放すべし

    「病気の原因は社会の貧困と無知からくる。」「だがこれまで政治が貧困と無知に対してなにかしたことがあるか。人間を貧困と無知のままにしては置いてはならないという法令が出たことがあるか」   黒澤明は『赤ひげ』で新出去定に怒りを込めてこう言わせている。             ...