子どもが好きということ

  「古在 ぼくも教師についてよくいうんですが、おそらく教育への関心には順序がある。第一には、子どもが好きだということ。そして子どもが好きだというのはつまり人間が好きだということだと思うんですよ。いろいろな可能性を未来にはらんだ人間、すなわち子どもが大好きだということ。第二には、子どもが好きだから、それを教育するのが好きだということ。そして第三に、この教育というものを正しくやってゆくためには教育理論もまた必要になるということです。これがきわめてノーマルな順序。 けれども、ぼくの目が狂っているのかもしれないけれど、教育学の大家などをみますと、どうも教育学が何よりも好きだというのが先にきて(笑)、教育活動とか子どもとかの順位はそのあとになることもあるような感じがする。・・・ 大家といえば、やはり大学の既成の先生などを思い出すのでしょうね。この人はほんとうに子どもが好きなのかな、という感じがすることがあります。少なくとも昔ほくらが教わった大学の教育学の先生たちには、そんな感じの人が多かった。 ・・・直接には昔の教育学の先生たちを思い出したのですよ、ぼくは。戦前に教育には興味がなかったと最初にいったけれども、それに加えて大学の教育学の先生をみても、またその講義をきいても興味は起こりませんでした。  
堀尾 そうだと思いますね、昔の教育学は。資料として読んでみても、ゆううつになることが多いですね(笑)。  
古在 一番つまらない学科のひとつじゃなかったかと思いますね、たとえば東京大学あたりの教育学の講義というのは。  
堀尾 それで戦後の教育の解放には、その一環として教育学の大手術と再生が必要であった。この仕事はまだ終わっていないどころか、はじまったばかりというべきなのでしょう。教育科学研究会も、そういう仕事を担わなければならないのだと思いますね。 ところで教科研の委員長であった亡くなった勝田守一先生は、戦後、哲学から教育学へ入られた方ですが、勝田さんは、教育こそは哲学が最後に責任を負う問題領域だと考えておられ、ご自分では方向転換をしたという気持ほまったくなかったといわれていたのですが、哲学者として嘱望されていた勝田さんが、教育などという泥沼に足を入れて気の毒だったというようにみていた哲学者もいるようで、そういう哲学と教育への意識そのものも問題だと思いますが・・・。哲学も教育学も変わらなければならないということだと思うのです。  
古在 その点についてはまったく同感です。広く今日の教育問題について無関心な哲学者こそは思弁の泥沼に身をひたしているというべきでしょう。 ・・・ 教育学や教育理論というのはたしかに一つのイデオロギーに支えられているでしょうけれど、一般に人間の教育活動そのものはイデオロギーだけではありません。その意味ではかなり広い意味をもっているし、また過去のいろいろな経験の伝達と展開ということを考えても、人間の生活上のその行動半径は非常に広く、多面的です。人生教育もあれば技術教育もあり、そのほかいろいろな専門分野での教育活動が生活の全面にわたっています。たしかに教育の内容や方法や理論はそれぞれのイデオロギーに支えられていますけれど。教育の基本が人間形成とか人格形成とかいわれるのは、このためでしょう」    古在由重、堀尾輝久1974.8『教育』
       
 子どもかが好きというとき、いったい誰がそれを言うのか。教師本人か、子どもか、子どもと教師が接している姿を見た第三者か。いつもハッキリしない。「いい教育やいい教師の資質」という形で漠然と話される。せいぜい「私は子どもが好きです」と大した証拠もなしに自己表明する。これを手懸かりにして議論をしてきたことに驚く。一般的な話としてではなく、私のこの場合という具体性が肝心なのだ。
  教育学の大家などが好きなのは教育学ではない。「教育学」学がお好みなのである。

 引退した活動的教師たちに話を聞いていて合点のゆかないことがあった。授業中であれ放課後であれ学校外であれ具体的生徒についての記憶が引き出せてない。初めは、その教師の特性かとも思った。聞き方の問題かも知れないとも。しかし、古在の言うように大家になるほど生徒の話が出てこない。
 「子どもが好き、授業が好き」の教師であれば、記録を書く為にわざわざ生徒たちの作文や統計を集めたりしないだろう。座談会にのこのこと出かけたり、TVにでたりしないだろう。そんな暇があれば、生徒と一緒にいたり教材作りに忙しいはずだ。
 かつてある雑誌の編集委員をしていた頃、書いて欲しいと思う人ほど書いて貰えなかったのも尤もなことである。せめて書いて貰えなかったことの次第を、その先生の周辺を取材して書いておくべきだった。昔の名ルポルタージュに「廃帝カイザルに会わざるの記」がある。
 全生分教室の青山先生の書いたものを捜そうとすることがそもそも先生を見くびっていたことになる。たくさんの記録を残したS先生のものからは生徒たちのいきたすがたを見いだすのは難しい。解るのは彼女が困難な環境にあったということである。
 記録を殆ど残さなかった青山先生や患者教師の僅かな足跡からこそ実態と本質に迫ることができる。書きたい発表したいと、子どもが好きは一致しない。教育原論や青年心理学に、執筆者自身の経験特に教室で教えての経験が欠落しているのは当然と言うことになる。自らの学問分野に痛恨の反省をしなければならないのは、どうも原子力工学ばかりではなさそうだ。
 堀尾輝久が「戦後の教育の解放には、その一環として教育学の大手術と再生が必要であった。この仕事はまだ終わっていないどころか、はじまったばかり」と言っているが、見事失敗と言いたい。

1950年代・高校生の政治的力量 京都と高知の場合

 「京都公立高等学校生徒会違絡協議会」は1953年に結成されている。1950年に京都府立高校を卒業した学生は当時の高校生の政治意識を次のように証言している
  「・・・向かいの島津製作所には進駐軍が駐留し、夜になると、塀もなく、窓ガラスも破れ放題の教室に女を連れ込んで、狼藉を繰り返した。・・・市長選挙目前に、立候補予定の高山義三氏に面談・・・選挙戦になると、生徒会役員らを動員して選挙演説を繰り返した。・・・勝手連の走りである。予想通り彼は当選した。・・・アッという間に塀ができ、守衛が置かれ、学校の環境は一新された。・・・学校側にも明確な指導方針が打ち立てられない混乱期だからこそ、自由にクラブや生徒会活動を行うことができた

 京都生徒会連絡協議会は、結成準備会の段階で、授業料値上げを、府知事に撤回させる成果をあげている。昭和25年(1950)には蜷川虎三が知事に就任している。市長選で果たした高校生の役割を考えれば、府知事選には更に広範な高校生の参加を想像することが出来る。
 生徒会連絡協議会は、授業料や市電・市バス値上げ反対運動を展開、1954年の授業料値上げ反対運動には多数生徒が参加し、府庁陳情や議員への決議文送付を行ない、府議会での修正案可決の成果を得ている。高校生が無視できない政治的勢力になっていたことが解る。
 1953年には憲法擁護高校生弁論大会(のちに憲法記念高校生討論集会に発展〉を支援、高校生の集いや新入生歓迎会などの行事を主催している。
 更に、原水爆禁止運動、勤評問題の討論、国鉄学割改定反対運動、伊勢湾台風被害救済活動、全国高校生徒会連合準備会センターの設置、高知の生徒会連合への活動調査団派遣など、多彩な社会的活動を行なっている。こうしてみると日本の高校生もフランスや南米に引けを取らない高校生運動を展開していたことが解る。

   1949年高知県公選制教育委員会は新制高校発足に際し、諮問機関として審議会を設置、県民の声を反映させるべく各層代表から構成した審議会の委員60名の中に、高校生代表5名を正式メンバーとして加えていた。(委員の構成は次のとおり。①地域審議会代表10人、②小中高校長団代表28人、③教組代表4人、④県会代表2入、⑤報道関係・婦人団体・労働団体(各1人)4人、⑥学校組合代表2人、⑦高知市代表2人、⑧学識経験者3人、⑨高校生代表5人 各地域1人合計60人。)
 実は初めは高校生代表は含まれていなかった。そのため、第1回審議会で「高知市内校の自治会委員が審議会に生徒代表を加えることを要望している。審議会委員は一致して生徒の要望を受け入れるべきだとして、即刻教育委員に申し入れた。県教委は合議のうえ、『高校生代表1名を加えること』を決定した」
 高校3原則と全員入学制を答申した高校再編成審議会に生徒会代表が参加し、その意見を反映させたということは、日本の教育史上特筆すべきことで、高校生徒会は県民諸階層の一員として教育政策の決定に加わっている。
 1950年代高校生徒会活動は平和運動とともに発展、全県的な高校生の交流活動が生まれ、生徒会連合を結成しようとする動きが現れた
 1954年結成された高知県高校生徒会連合は、校長会や県教委の積極的な援助も得て、1年以内に全県立高校が加盟し一万九千名を擁する組織となり、①教育施設問題(講堂・練習船など教育設備の拡充)②平和問題(ビキニ水爆実験に抗議、原水爆実験・製造反対、公海自由原則の要求、憲法改悪・再軍備・安保体制反対〉③教育問題(高校全入維持、学テ・勤評反対、被処分校長を守る運動、学園民主化闘争)④経済問題(授業料・父母負担教育費軽減運動〉など多岐にわたる活動を行ない、高校生の立場から様々な社会問題にも積極的に発言した。
 1956年度の授業料値上げに際しては、生徒会連合は10万人署名で反対運動に取り組み、臨時大会での値上げ反対決議文を県教育長と県知事に提出、一万九千名の同盟休校も辞さず、県教委・知事との深夜3時にまで及ぶ直接交渉を行っている。その結果、①授業料減免枠の拡大、②需要費の大幅増額、③来年は値上げせずとの確認を取り付け、早朝6時の同盟休校指令30分前に妥結した。
 
 こうしてみると、日本の高校生もフランスや南米の高校生たちに少しも引けを取っていなかった事が解る。本物の政治交渉を、知事や教育長と行って目覚ましい成果を勝ち取っている。
 僕が、模擬投票を「ごっこ」と呼ぶのはこうした事実を踏まえている。模擬投票には中身がない、政治主体としての自覚もない。我々が考えねばならぬのは「ごっこ」のレベルまで切り下げられた高校生の政治意識・能力についてである。何故ここまでの切り下げを許してしまったのか、嘗められているのか検討しなければならない。
  「ごっこ」に終始して嘗められ切っているのは、高校生だけではない。政府自体が、外交政策・経済政策に於いては米大使館年次要望書に従属、労組は資本との交渉では無視され、日銀政策委員会が政府に従属、新聞は政府の記者会見で質問を控える始末。教員は学校内の事柄を自力で解決する能力を奪われ、抵抗すら出来ない、自らの命さえ守れないでいる。この列島のどこにまともな対話や交渉が行われている場があるのだろうか。


引き揚げの生徒たち

   いじめを自分一人で「何とかした」引き揚げの生徒Kさんが見せたのは、少年が青年になる過程の一齣である。既に自立した逞しさと優しさがある。政治屋のようにすぐ集団と集団の対立に持ってゆく愚かさとは無縁である。しかし同じ Kさん達が「叱って」とべそをかいたことがある。
 ある日教室に入ってもなかなかお喋りが止まない、(引き揚げ生徒は六人、国語・現社以外の授業はあちこちのクラスに分散している) しばらく待つことにして窓際に立った、しかしなかなか止まない。次もなかなか止まない。その次の日は更に止まない。
 「どうしたんだ、君たちらしくないぞ」と少し怒った。急にシーンとなった。 
 「・・・だって先生、怒ってくれないんだもの。見捨てられたと思って」と男も女も、しゃくり上げて泣き出した。
 この学校で僕は、たった一人人名と地名や大事な用語を中国語の発音で繰り返す教員で、彼らが頼りにしているのは、よくわかっていた。
 「いけないのはわかってる。でも不安になったの、喋ってないと気が紛れない。先生から見放されると考えると怖くて怖くて」
 「ごめんなさい、先生に無視されたら僕たちどうすればいいのか、・・・」 なるほど、愛情の反対は憎しみではない、無関心である。Kさんがいじめに対峙した時の青年らしさとはうってかわって子どもである。こうした二律背反する光景が高校の教室にはある。少年から青年へ凄まじい勢いで成長する時期である。この相反する二面のうち片方、子ども期の残存性だけに教員は目を奪われる。      
 「よくわかった、今度から叱るよ、いいかい」と言ったが自信は無い。上手い叱り方なんて柄ではない。
 「有り難う、先生」と立ち上がって教卓に集まってしばらく泣いていた。
 こうした場面をとらえて、「叱る」ことを肯定したがる傾向があるが、勘違いしちゃいけない。
 叱られなければならないのは、歴代日本政府である。引き揚げ家族の大きく長い不安が影を落としている。政府の歴史的無策に無性に腹が立ってならなかった。彼らの祖父母の時代に解決しなければならない問題を、ここまで引き延ばしているのである。
 それからは帰国生達の家庭を遠慮なく訪問した、剥き出しの貧しさと孤立がそこにあった。生徒達も僕のうちを尋ねるようになった。
 三年生になり僕の授業がなくなる。久しぶりに彼らと出会うと、女子がところ構わず「先生、元気だったー」と抱きつき、周りの教師や生徒達が思わず退く場面もあった。親愛の情が剥き出しで自然なのだ。実際に叱ったことはない。

  引き揚げの生徒たちは、何につけてもよく頑張った。学校が自慢したがる進学実績のいい部分は彼らに依るところが大きい。

1959年既に農村青年のファッショ化

「山脈」は最も学会とは離れたところに位置する。驚いたのは
みんながそれぞれ地酒を持ち寄って痛飲放談する習慣だった。
  不定期刊行に徹した同人誌『山脈』を主催した白鳥邦夫によれば、1959年既に農村の若者が秩序と技術を求めて自衛隊に憧れて、新しいファッショへの志向を有していたという。
 68年の学生体験、それ以降の組合・教研・地域・・・に於ける民主主義と平和の動きは、新しい時代への動きなどではなく、与えられた「民主化」の惰性に過ぎないのではないか。70年代に始まる青年の保守化傾向に僕が危惧を感じた時、絶対多数の活動家は「青年は依然として健全である、何も書かれていない白紙状態である」と反撃した。
 僕たち自身の60年安保観が、そもそもズレていた。 あれを遠くから疑い深く見ていた農村青年への共感能力を、我々は欠いていたのだ。疑い深く見ていた若者は都会にもいた。既に分断されていた。分断された若者を繋ぐ場はどこだったのか。連合赤軍事件が学生青年運動を退潮に追い込んだのではない。我々が場を明け渡していたのである。

    すぎゆく時代の群像/鶴見俊輔への質問と答え/記憶を予言に変える問題 
        白鳥邦夫  『日本読書新聞』一九五九年七月二七日号「読者の声」より
 「『戦後日本の思想』を拝見しました。そのなかで教えを仰ぎたい点があり筆をとりました。それは「戦争体験の思想的意味」の200頁に鶴見氏が「山脈」批判として出されている問題です。その要旨は「戦中派の世代は戦争体験を書き続けるが、若い世代からはあきられている。だから記憶であるものを予言に変えなければならない」ということでした。 この「記憶を予言に変える」ということは納得できるのですが、その方法がわからない。もちろんこれは、わたしたち自身が実践主体の行動の論理として自ら考えるべきことでしょうが、このテーゼを支え実践する階級(あるいは階層)・方法・方向などが、討論を重ねてもうまくヴィジョンにならないのです。 そして討論を重ね、記憶=実感を重視すればするほど仲間との連帯感を喪失し、がんこに断層に執着する結果になっていくのでした。 
 そしてあげくに、農村の年輩の人たちのなかに「昔はよかった。いまの青年=若い者は軍隊で鍛えられていないから惰弱だ」という戦争、兵隊、昔などの讃美が多いこと。他方に、若い人も現実の虚偽の情況に実感だけで屈伏しているゆえに頑として動かない、動くときは「規律を求め、 自由=放縦を抜けて、集団を求めて自衛隊や王将隊(最近発覚した当地秋田県の不良高校生集団)に入っていく」といった話になりました。 今日わたしたちの高校から自衛隊に入る生徒もけっして貧しくはない。むしろ農家の長男が技術習得と規律と、古い親の世代に抵抗できる能力(経済力・行動力・集団性など)を求めて志願していく。そこでは親たちの古い農本主義的なファシズムの非合理的なムードや、倫理観に対決する(と考える)近代主義、技術主義に仮装されたファシズムに憧れているといえます。 
 農村では今日、機械操作ができなければ発言力はない(農業高校の「道具」はコットウ品です)。そして、「自衛隊に入って水害地復興をおこなう」と希望する少年はおそらくこの土地の現場では思いも及ばない「隣人愛」さえ抱いています。 話がついにここまできたとき、わたしたちはみないら立ち沈黙するだけでした。 
 わたしたちは不幸にして、終始「戦争およびそれに連なるものにすべて反対する(たとえば安保条約反対)」人びととばかりいっしょに生きてきすぎたのかもしれない。そして今日現場では八方ふさがりに「賛成論」者にとりかこまれているのです。わたしたちは安易に「働きかけ・呼びかけ」を口にしすぎていたのでしょう。 わたしたちは最後まで「記憶を予言に変える」方法がつかめませんでした。 
 が、こんな結論になりました。働きかけ呼びかけをするのではなく、わたしたち記憶の世代が逆にすすんで、若い世代の無記憶に同化すること、若い人の現実の体験や実感を「追体験」すること、したがってわたしたちは前衛とともに中衛や後衛をむしろ重視して組織を組むべきではないか。わたしたちのすべきことは祖国を底辺で水平線と面で奪取、あるいは先取りすべきではないのか、等々の話がでました。 はなはだ未整理だし、いら立たしさばかり先行した話し合いでしたが、だいたいこのようなことでした。ところで、その「逆の追体験」にも問題があります。これだとせいぜいここ数年間ぐらいの歴史だけを切断し所有する利那主義・窒息した現実主義=目先の情況反応主義になる可能性があります(そのときこそ「三十年四十年生きた世代の歴史意識の背骨がものをいう」と楽観できるのでしょうか)。 とにかく、自衛隊万歳・マスコミ歓迎・中間文化讃美の若者たちに、一時内面的に同化するための自己否定が必要だ、というものでした。 どうか「記憶を予言に変える」というテーゼについて、も少しお教えください。お願いいたします。近く全会員の集会があります。そのときにもくりかえしみなで考えますから」

                               
   白鳥邦夫への問いかけ「記憶を予言に」は、「吉野源三郎が、戦後の平和教育は「啐啄の機」を見ることを怠ったと苦言を呈したことがある。(1972年『科学と思想』4号)」と共通点がある。
 沖縄返還後、沖縄修学旅行に取り組む学校が急激に増えた。僕の勤務校でも連続して沖縄を選んだ。事前学習にも事後学習にも積極的に取り組んだつもりではあったが、感想の中に「ひめゆりの女学生のように、国のため美しく死にたい」というものがあって、先ず担任が衝撃を受けた。そして同様な感想は年毎に増えたのである。生徒の感想は教師の意図を読み取って迎合的に書かれるものであるから、本音としてはかなりの数になると考えねばならない。広島平和学習でも同様の「本音」が隠されてあったに違いない。
 我々は「戦争体験の記憶」に安易に依存して、「若者が秩序と技術を求めて自衛隊に憧れて、新しいファッショへの志向を有していた」事に気付きさえしなかったのである。
 都会の高校生たちが

「ちく、ちく、針がもう一度うごき出してきた。中くらいの子供が、成績があがるのとちがって賢くなった」

「市長選挙目前に、立候補予定の高山義三氏に面談・・・選挙戦になると、生徒会役員らを動員して選挙演説を繰り返した」

「社会部、文芸部、音楽部も相当水準が高かった。・・・文化部主催で講演会をやるというと、檀一雄さんとか、松川事件に関連して広津和郎さんとか、かなり有名な作家や哲学者を生徒が呼んでくる」

「フランス革命ぐらいになるとみんな目がパーツと輝く。ロシア革命なんていうと必死になる。こっちがへたなことを言うと、生徒が食ってかかるんですよ」

  と目覚ましい成長を遂げているとき、その間に農村の青少年たちの間では何が起こっていたのか。総じてインテリは無関心であった。「民主主義科学者協会」は1946年1月創立。戦時中に学問の自由を奪われていた広範な研究者が参加した。研究者による自主組織としては世界最大であった。侵略戦争を阻止できなかったことを反省し、民衆の科学的欲求の結集などを目指したがあえなく解体した。これも敗戦後の痛恨事の一つである。
 僕は記憶を予言に変える機会はあったと思う。それを妨げたのは「指導」という教師や政治組織のやまいである。

少年の日の感激と授業

   大塚金之助にとって生涯最も感銘深い思い出は、図書館で部厚い本を受け取った少年の日のことであったという。ずっしり重い本を司書から受取ったときの感激は、長く大塚博士の胸の中に殘った。大塚少年が感じた重みは、人類の文化的遺産の重みである。その後の少年と日本経済史学の行く末を定めた瞬間と言える。
 我々の日々の授業も又そうあるべく、明日の、来学期の、来年の授業準備に励まねばならない。ただ念頭に置くべきは、未来の偉人だけであっては詰まらない。博学のおばあちゃん、不正を憎み弱きを助けずにはおれない交番の巡査さん、不愛想だが腕のいい正直者の包丁屋・・・。我々はそういう人々と共にあること、共にあったことを誇ることができる。
   孤絶した独房で少年時代の授業の一コマを噛み締め膝を抱く政治犯の脳裏に浮かぶ者でありたいと僕は心から願う。
 大工になった卒業生が
「屋根を組み上げながら、梁に置いたラジオの国際ニュースに耳が傾いて、教室や先生の授業を思い出すそうですよ」
とその父親から聞いたことがある。
 「板場に立っても、ネタの捕れた国とそこの生活や政治が気になるなるんですよ」
と言ったのは、寿司屋の見習いになって半年の卒業生だった。彼は、平和の定義を巡って略章だらけの偉い自衛官と宣誓式で対立、即日退職した。屋根の上や板場で国際情勢を想う若い職人が、少なくともノーベル賞やオリンピックメダル受賞者と同じ様に我々の希望でなければならない。

『五勺の酒』に描かれた少年たち

  中野重治の『五勺の酒』に、旧制中学校で自治会が形成される過程が描写があり、興味深い。
 旧制中学校長から作家への手紙が、この作品の前半である。五勺の酒とは新憲法発布を祝っての特別配給の残りである。校長は一合の半分の酒を飲み酔いながら、党員の友人に手紙を書いている。
 「・・・そこで聞きたいが、僕の学校にも青年共産同盟が出来た。大分まえに出来た。見ていて僕が気がもめてならぬ。まずこんなことがあった。共産党が合法になり、天皇制議論がはじまると、中学生がいきなり賢くなった。頭のわるくない質朴な生徒、それが戦争中頭がわるかった。それがよくなってきた。ちく、ちく、針がもう一度うごき出してきた。中くらいの子供が、成績があがるのとちがって賢くなった。ある日クラス自治会をつくることで教師、生徒議論になったことがあった。そして衝突した。生徒は自治会は自治的につくらねばならぬ、先生は入れぬ形にせねばならぬと言いはった。教師は、それはいかぬ、監督の責任上入れてもらわねばならぬと言いはった。生徒は、それは教師が各クラス自治会の常任議長になることだ、教師聯合が自治会を指導しようというのだという。教師は、自治会を圧迫する気は毛頭ない、しかし指導・監督の責任はどこまでも負わねばならぬという。とど教師側でおこってしまった。それは責任を負うことの拒香だ。責任を放棄するのがどこが民主主義だといわれて生徒側がへこんだ。教師側に圧迫する気がなかったことは事実だ。ただ判断は僕にできなかった。僕に気づいたのは、腹を立てたのが教師側だったこと、腹を立てなかったのが生徒側だった新しい事実だ。教師側は立腹して、生徒を言いまくり、やりつけた。この点になると教師側は一致していた。生徒側はばらばらだった。ただ彼らは、腹を立てずに、監督の責任が別の形で負えることを教師たちに説明した。特に非秀才型の生徒が、どうしたら教師側にうまくのみこませられるか手さぐりで話して行ったのが目立った。教師側が大声になるほど、彼らが、それはそうじゃない、先生が圧迫しょうとしているとは取っていない、そうじゃない、そうじゃなくてと、子供は頭をふりふり、全体として受け身で攻撃を受けとめていたのが目立った。敦師団が駄々っ子になって、教師・生徒がすっかり位置を顛倒してしまっていた。僕はヌエ的司会者として、もっぱら教師たちのために生徒側をなだめた。教師側をなだめたというのがいっそう正しいだろう。教師もはいれる折衷案が出来てけりはついた。 ただ僕はこんなことではじまった生徒の活動が、その後停滞してきたように見えるのが気になるのだ。停滞しているように僕に見える。生徒たちが、賢くなりかけたまま中途半端な形になってきたというのが僕の気のもめる観察だ。僕は圧迫ということも考えてみた。適度に圧迫することでかえって彼らが伸びるだろう。むろん僕は、あまりに教師・校長くさいのに気づいて苦笑したがやっと原因がわかってきた。とかく共産党がわるいのだ。先へ先へと指導せぬのがわるい

 興味深いことの一つは、敗戦後の少年たちの著しい成長が、ロゴスを巡って展開していることである。中野重治が母校福井中学を訪ねて講演したのは、文芸部の招きによるものであった。三戸先生が初めて赴任した都立高校でも、文化系のクラブが盛んで、文学書の読書会や文化人の講演会がよく開かれていた。中野重治が文中で「頭のわるくない質朴な生徒、それが戦争中頭がわるかった。それがよくなってきた。ちく、ちく、針がもう一度うごき出してきた。中くらいの子供が、成績があがるのとちがって賢くなった」と言っているのは、抑圧されていたロゴスが一気に解放されたことを表している。一日中を歩き回ってもはかばかしくない稼ぎのヤミ屋青年が、「文学講演会」の文字に吸い込まれるように会場に入る光景が街角に溢れていた。
  にもかかわらず、「メーデーは五十万人召集した。食糧メーデーは二十五万人召集した。憲法は、天皇、皇后、総理大臣、警察、学校、鳩まで動員してやっと十万人かき集めてl分で忘れた」と、中野重治は『五勺の酒』にしっかり書き込んでいる。我々は新憲法を歴史に関わるロゴスの問題とする感覚に余りにも乏しかった。

 最も興味を惹かれるのは、「生徒の活動が、その後停滞してきたように見えるのが気になる・・・生徒たちが、賢くなりかけたまま中途半端な形になってきたというのが僕の気のもめる観察だ」という指摘である。教育関係者たちが揃って、新制高校生たちの目覚ましい成長ぶりに圧倒されている最中に、「停滞」の兆しを見ている。さすがに作家にして国会議員である。
 校長を司会として、生徒自治を論じていることに根本的無理がある。それが「賢くなりかけたまま中途半端な形になってきた」ことの根っ子にあることも指摘している。そしてそれが21世紀をとうに超えたいまだに続いている。生徒会のトップは、名誉会長としてあいも変わらず校長なのである。
 指導という名目の介入が、折角賢くなりかけた少年たちを、永の停滞に凍結するであろうことを作家は見通していたのではないか。四谷二中の生徒が舌鋒鋭く、生徒会中央委員会から顧問を追放したことの意義を感じずにはおれない。 我々が目指すのは、権威主義的秩序の体系ではなく、溌剌とした民主主義の担い手である。そのやりきれなさが、『五勺の酒』の後半部分、党員から校長宛の手紙を未完成のままにしている。

 例えばここに教員の労組があれば、あるいは地域に農民組合があれば、自治の概念は前進し事態を切り開くことが出来たはずである。農民組合に地主は加盟出来ず、労働組合に資本家は参加できない。しかし、所有の問題を超えて「入れて」貰わねばならぬとするならば、工場評議会、経営評議会の段階へ進まねばならない。学校で言えば、学校評議会である。


 「フランスでは、中学校や高等学校の最高議決機関である管理評議会(法律によって、すべての中学・高校に設置が義務づけられている)には、生徒たちから正式に選ばれた代表が同数の教職員代表と共に参加します。管理評議会では、学校予算・取算、行事計画、校則、カリキュラム、教科書・教具選択の原則などを決定します。学校の教員は、生徒代表も加わった評議会の決定に従うわけです。さらに、日本の中央教育審議会に当たる教育高等評議会にも、高校生代表三名が加えられています」  樋渡直哉『子どもの権利条約とコルチャック先生』ほるぷ出版


負ける楽しみ

 C君は群馬の陸上競技の盛んな高校を、些細な諍いで飛び出して東京の定時制課程に来ていた。僕が赴任した時、既に四年生、二十歳であった。根っから走ることが好きで真っ暗な、放課後の校庭を一人で走っていた。
 あの頃(1970年代初め)定時制は、全日制に入れない者のたまり場ではなかった。様々な能力、生き様の少年・青年が学んでいた。共通するのは貧しさ。中学の成績が殆どオール「五」の生徒会長経験者も、技能オリンピックメダル保持者も、零細工場労働組合活動家も机を並べた。
 初秋の日曜日、定時制通信制高校の陸上競技大会が開かれる。引率がいないので競技場近くに住む僕が引き受けた。C君は走る種目には何でも出た。尽く勝って決勝に残り、優勝もしてしまう。メダルに関心のない僕は、彼の疲れが気になって仕方がない。今日は日曜日である、休ませるべきだと思った。日差しが傾くと共に出場の間隔が短くなり、C君の表情も一層苦しそうに見える。もう少しだ頑張れと言うところだが、僕は1000m走決勝の直前彼を呼び寄せて
 「おい、そろそろ負けろ、ビール飲むぞ。みんなに電話しておけ」と言った。あの時の嬉しそうな顔は今も忘れられない。「アイアイサー」と手を挙げて、途端に走りが軽くなった。お陰で1000m走決勝も二位以下を大きく引き離した。またもや優勝かと思っていると、彼は笑いながらゴールを間違えてしまった。一位でもビリでもC君の価値は変わらない。彼は卒業と共に大学に進学し、同時に都立高校の実習助手になった。

  僕の友人の一人は夫婦揃って医者である。出身大学も旧帝大。娘は女優のよう美しく、県下一の名門高校に通っていた。小学校から高校まで「5」以外の成績を取ったことがないという。
 「僕は1と2しか取ったことのない生徒たちを相手にしているんだ。そんな生徒に、少し5を分けてあげないかい」と言ってみた。友達も奥さんも娘さんも呆れた。木賃宿に住む「1」だらけの洟を垂らした親友を思い浮かべた。神がいるとしたら余りにも不公平である。
 偶には「5」を忘れた青春を送るほうがいいと思う。出来れば永遠に、そうすればもっと巾広い魅力的な若者になれると思うのだ。

もし、君の庭が貴金属だらけになったら

   夢のような幸運、たった一掴みでどんな贅沢も思いのままだ。ひとかけらの土も糞や汚物もない。大リーグ「大谷」の幸運は、さしずめプラチナか巨大なルビー相当だろうか。プロゴルフも競艇も競馬も囲碁将棋gamerもオリンピックplayerもその稼ぎ高が、画面や紙面を賑わす。それにつられ...