1959年既に農村青年のファッショ化

「山脈」は最も学会とは離れたところに位置する。驚いたのは
みんながそれぞれ地酒を持ち寄って痛飲放談する習慣だった。
  不定期刊行に徹した同人誌『山脈』を主催した白鳥邦夫によれば、1959年既に農村の若者が秩序と技術を求めて自衛隊に憧れて、新しいファッショへの志向を有していたという。
 68年の学生体験、それ以降の組合・教研・地域・・・に於ける民主主義と平和の動きは、新しい時代への動きなどではなく、与えられた「民主化」の惰性に過ぎないのではないか。70年代に始まる青年の保守化傾向に僕が危惧を感じた時、絶対多数の活動家は「青年は依然として健全である、何も書かれていない白紙状態である」と反撃した。
 僕たち自身の60年安保観が、そもそもズレていた。 あれを遠くから疑い深く見ていた農村青年への共感能力を、我々は欠いていたのだ。疑い深く見ていた若者は都会にもいた。既に分断されていた。分断された若者を繋ぐ場はどこだったのか。連合赤軍事件が学生青年運動を退潮に追い込んだのではない。我々が場を明け渡していたのである。

    すぎゆく時代の群像/鶴見俊輔への質問と答え/記憶を予言に変える問題 
        白鳥邦夫  『日本読書新聞』一九五九年七月二七日号「読者の声」より
 「『戦後日本の思想』を拝見しました。そのなかで教えを仰ぎたい点があり筆をとりました。それは「戦争体験の思想的意味」の200頁に鶴見氏が「山脈」批判として出されている問題です。その要旨は「戦中派の世代は戦争体験を書き続けるが、若い世代からはあきられている。だから記憶であるものを予言に変えなければならない」ということでした。 この「記憶を予言に変える」ということは納得できるのですが、その方法がわからない。もちろんこれは、わたしたち自身が実践主体の行動の論理として自ら考えるべきことでしょうが、このテーゼを支え実践する階級(あるいは階層)・方法・方向などが、討論を重ねてもうまくヴィジョンにならないのです。 そして討論を重ね、記憶=実感を重視すればするほど仲間との連帯感を喪失し、がんこに断層に執着する結果になっていくのでした。 
 そしてあげくに、農村の年輩の人たちのなかに「昔はよかった。いまの青年=若い者は軍隊で鍛えられていないから惰弱だ」という戦争、兵隊、昔などの讃美が多いこと。他方に、若い人も現実の虚偽の情況に実感だけで屈伏しているゆえに頑として動かない、動くときは「規律を求め、 自由=放縦を抜けて、集団を求めて自衛隊や王将隊(最近発覚した当地秋田県の不良高校生集団)に入っていく」といった話になりました。 今日わたしたちの高校から自衛隊に入る生徒もけっして貧しくはない。むしろ農家の長男が技術習得と規律と、古い親の世代に抵抗できる能力(経済力・行動力・集団性など)を求めて志願していく。そこでは親たちの古い農本主義的なファシズムの非合理的なムードや、倫理観に対決する(と考える)近代主義、技術主義に仮装されたファシズムに憧れているといえます。 
 農村では今日、機械操作ができなければ発言力はない(農業高校の「道具」はコットウ品です)。そして、「自衛隊に入って水害地復興をおこなう」と希望する少年はおそらくこの土地の現場では思いも及ばない「隣人愛」さえ抱いています。 話がついにここまできたとき、わたしたちはみないら立ち沈黙するだけでした。 
 わたしたちは不幸にして、終始「戦争およびそれに連なるものにすべて反対する(たとえば安保条約反対)」人びととばかりいっしょに生きてきすぎたのかもしれない。そして今日現場では八方ふさがりに「賛成論」者にとりかこまれているのです。わたしたちは安易に「働きかけ・呼びかけ」を口にしすぎていたのでしょう。 わたしたちは最後まで「記憶を予言に変える」方法がつかめませんでした。 
 が、こんな結論になりました。働きかけ呼びかけをするのではなく、わたしたち記憶の世代が逆にすすんで、若い世代の無記憶に同化すること、若い人の現実の体験や実感を「追体験」すること、したがってわたしたちは前衛とともに中衛や後衛をむしろ重視して組織を組むべきではないか。わたしたちのすべきことは祖国を底辺で水平線と面で奪取、あるいは先取りすべきではないのか、等々の話がでました。 はなはだ未整理だし、いら立たしさばかり先行した話し合いでしたが、だいたいこのようなことでした。ところで、その「逆の追体験」にも問題があります。これだとせいぜいここ数年間ぐらいの歴史だけを切断し所有する利那主義・窒息した現実主義=目先の情況反応主義になる可能性があります(そのときこそ「三十年四十年生きた世代の歴史意識の背骨がものをいう」と楽観できるのでしょうか)。 とにかく、自衛隊万歳・マスコミ歓迎・中間文化讃美の若者たちに、一時内面的に同化するための自己否定が必要だ、というものでした。 どうか「記憶を予言に変える」というテーゼについて、も少しお教えください。お願いいたします。近く全会員の集会があります。そのときにもくりかえしみなで考えますから」

                               
   白鳥邦夫への問いかけ「記憶を予言に」は、「吉野源三郎が、戦後の平和教育は「啐啄の機」を見ることを怠ったと苦言を呈したことがある。(1972年『科学と思想』4号)」と共通点がある。
 沖縄返還後、沖縄修学旅行に取り組む学校が急激に増えた。僕の勤務校でも連続して沖縄を選んだ。事前学習にも事後学習にも積極的に取り組んだつもりではあったが、感想の中に「ひめゆりの女学生のように、国のため美しく死にたい」というものがあって、先ず担任が衝撃を受けた。そして同様な感想は年毎に増えたのである。生徒の感想は教師の意図を読み取って迎合的に書かれるものであるから、本音としてはかなりの数になると考えねばならない。広島平和学習でも同様の「本音」が隠されてあったに違いない。
 我々は「戦争体験の記憶」に安易に依存して、「若者が秩序と技術を求めて自衛隊に憧れて、新しいファッショへの志向を有していた」事に気付きさえしなかったのである。
 都会の高校生たちが

「ちく、ちく、針がもう一度うごき出してきた。中くらいの子供が、成績があがるのとちがって賢くなった」

「市長選挙目前に、立候補予定の高山義三氏に面談・・・選挙戦になると、生徒会役員らを動員して選挙演説を繰り返した」

「社会部、文芸部、音楽部も相当水準が高かった。・・・文化部主催で講演会をやるというと、檀一雄さんとか、松川事件に関連して広津和郎さんとか、かなり有名な作家や哲学者を生徒が呼んでくる」

「フランス革命ぐらいになるとみんな目がパーツと輝く。ロシア革命なんていうと必死になる。こっちがへたなことを言うと、生徒が食ってかかるんですよ」

  と目覚ましい成長を遂げているとき、その間に農村の青少年たちの間では何が起こっていたのか。総じてインテリは無関心であった。「民主主義科学者協会」は1946年1月創立。戦時中に学問の自由を奪われていた広範な研究者が参加した。研究者による自主組織としては世界最大であった。侵略戦争を阻止できなかったことを反省し、民衆の科学的欲求の結集などを目指したがあえなく解体した。これも敗戦後の痛恨事の一つである。
 僕は記憶を予言に変える機会はあったと思う。それを妨げたのは「指導」という教師や政治組織のやまいである。

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