寄り添ってくれる人はどこにいるのか |
主治医は皮膚科に行けと言ったのに…癌ってだけで差別されてる感じで悲しくなりました。
そして、医者って本当に患者の事なんかまるで考えてくれてないって感じました。…それにしても、どこにいけば患者に寄り添ってくれる医師に出逢えるのでしょうね?なので最近は「主治医は自分」と思うようにしてます」知り合いのmailである。
僕の妹が卵巣癌で死んだ。癌そのものによる死亡と言うより、度重なる検査とそのための車による移動に消耗・出血して衰弱し果てたような気がする。検査の度に血を抜かれ、様々な先進医療機器のために麻痺のある体に過酷な姿勢をとらされ、「いたい、いたい」と叫ぶ。医者は「他の患者に迷惑だ。声を出すな」と叱るばかり。妹はそのたびにすっかり疲れて戻った。一日に二往復したこともある。医療とは人間の尊厳を奪うことか。
多くのの友人に囲まれていたが、衰弱が始まるとともに、友達に会おうとしなくなった。尊厳を失った姿を見られたくなかったのだ。
医者による家族に対する説明は、真夜中でも丁寧だった。これでは医者も疲れるだろうとつくづく思う。知り合いが勤める大病院の医局のドアを開け、啞然としたことがある。僕は、医学関係の雑誌や論文が積まれているだろうと考えていたのだ。漫画と週刊誌が占領していた。友達は「どこもこんなもんだよ」と肩をすくめた。医者も患者も疲れ果てて、社会そのものが健康から遠ざかるばかり。医療費は増え、疾病保険だけが儲かる仕組みだ。この構造がある限り。医師の過労は、患者の苦難とともに放置され続けるに違いない。
冒頭と同じmailに「娘は…就職してません。何か差別を受けたようです。それから就活やめてしまいずっとバイト生活です」
娘さんは、誰もが羨ましがる大学に通っていた。あらゆるところにハラスメントが待ち受けている。学生も勉学の途中ですっかり消耗してしまうのだ。大学も高校も、教師自体が消耗し切ってまともに考えられない。生徒や学生に向き合うことすらままならないのだ。
妹の苦難の始まりも、高学歴者の非正規労働による過労であった。「そのうちに正式採用」と言いくるめられ、いいようにこき使われてきた。官庁、出版社、新聞社を転々とした挙げ句、いくつもの大学や研究機関を掛け持った。英語とフランス語を駆使、world watch 日本語版の編集を一人でこなした。頻繁に飛行機で日本中を飛び回り、大学や高校時代の友人からの相談もひっきりなしで、真夜中に飛び出すこともあった。ゆっくり論文を書く暇はなかった。少しでも暇が出来れば、出版社や学会の幹部を接待する始末。休めない体と心が出来上がってしまった。
彼女は利発で面倒見の良い子だった。僕が小三の時、妹は同じ小学校の一年生。朝礼があるたび、何か賞状を貰う。まるで学校中の賞状を独占していたかのようだった。一年生のくせに、司会の先生に呼ばれれば怖じもせず手を上げて「はい」と言いながら、堂々と登壇する姿を見て、僕は頭を抱えてしゃがみ込んだ。友達が僕の肩をたたいて「また、おまえの妹だ。見ろよ」と促すが、僕は壇上の栄光より、鶏の世話やや風呂焚きのほうが落ち着くのだった。妹の活躍は東京でも、大学院を出ても変わらなかった。倒れるまで。
妹は、人目を浴びるとそれを成長のエネルギーに変換する気質だったのか。逆に僕は、注目を浴びることを回避し続けてきた。妹にとって、外部から与えられる刺激は、殆ど無条件で取り込まねばならぬ課題であり続けた。能力の限界を察知してブレーキをかける機能が壊れていたのだ。
彼女は自分自身の中にdoctor stop をかける「主治医」を持たなかった。だから、入院しても点滴をしたまま病室を出て携帯で仕事の連絡をし続け、そのまま脳梗塞を起こしたのである。自分自身の中に「主治医」を持っていれば、最悪の事態に至らないための選択が出来たはずだ。「ショウジョウ」なんか一つで十分だったのだ、まして症状なんかいらない。たとえ最悪の事態になったとしても、自分の 「主治医」が心の中にあれば、リハビリを自ら工夫して病態を克服したはずである。
リハビリは、医師や療法士の指示通りにやっても効果は薄く限定的である。これは、僕自身のいくつもの経験から自信を持って言える。自分自身の体の中でどんなことが起こっているのかを自ら冷静に感知し、不具合の出た箇所の正しい機能と動きや反応と比べ、どのような食い違いが出たのか探らねばならない。機能している部分と、ままならない部分を様々に動かしながら探り、その箇所の正しい動きを、妻に手伝って貰って繰り返し動かす。どの筋肉とどの関節がどのように動くのか試した。横になって目を瞑りイメージトレーニングを数回すると、疲れてしばらく眠る。うまくいった時は、目が覚めると動かなかった部分が動いた。自転車も強く禁じられたが、サポーターをはめ、サドルを下げ跨がり、緩やかな坂を下った。頭の中では失敗のイメージだけが繰り返されるのだが、それを体が裏切るのである。数日のうちに、自転車で病院へ出かけた。医者も療法士も半ばあきれ半ば怒った。
僕がリハビリ病院で見たのは、お喋りに時間を浪費する老人と療法士であった。専門書を読んでも参考にはならなかった。ただ一つ尤もだと思えたのは、脳梗塞を起こした療法士が自ら多くの仲間と討論と実技を繰り返しながら奮闘した記録である。
僕は、ある意味で頑張ることを蔑視してきた。避けてもきた。しかしリハビリだけは、異常に頑張った。半身が麻痺した時、はじめ本が持てて読めればいいと思っていた。まっすぐ歩くことも、本を左手で持つことも出来なかった。季節が変わる頃には、自転車を漕ぎ車も運転した。車のハンドルさえ握れなかったし、一度握ったら離せなかったから回すこともままならず、変速機に至ってはどうすればいいのかさえ分からなかった。頭は事故のイメージを造り執拗に繰り返し、僕の動きを止めようとしたが、実体験が気持ちよくそれを裏切った。動きが脳を説得しているなと思った。
耳が聞こえなくなったときも、歯が痛くて困ったときも、リハビリで克服できる部分があるはずだと考えて、実行した。人間の体はそうできていると思う。専門家に依存する前に、自分で考え実行する、実行しながら修正を加える。それが理論の形成される道筋である。科学でも運動でも、まずは指導者の厄介にならず自分でやってみる。僕は山スキーをやるが、人に教わったことは一度も無い。自転車も泳ぎもパソコンも教わったことは無い。自転車やパソコンは、分解し改造を施すごとに理解することが出来た。体も故障して、漸く仕組みが分かると思う。海外旅行も、一から手探りした。だから僕は、学校の部活にイライラする。丁寧な板書を自慢されるとイライラする。教委の講習会にも余計なお世話だという気持ちを抑えられない。学校にあふれる「予行」など事前指導には怒りさえ感じる。自立と自立をお節介が妨げているのだ。
オリンピックに出るような者たちまでが、大勢のコーチや専門家に依存している様にもあきれている。金銭的精神的ドーピングだと僕は思う。すべてを自分でやれない者は、大会に出る資格は無い。食事や会場の設営ゃ運営も他人に任せてはならない。だから何から何までおんぶにだっこのオリンピックもワールドカップも嫌いだし、あらゆるプロスポーツに反対する。個人の健康と精神の自立が妨げられるからだ。
三度の食事まで自炊させた科挙は、その点素晴らしい。
病院の医局に専門書が無いように、学校の職員室からも専門書が消え、クラブのルールの説明書や文化祭のアイディアブックの類いが行政からの通達を分厚く挟んだバインダーとともに並んでいる。 学びの自律性は瀕死の状態だ。行政と受験産業が結託して、教育を殺している。医療もスポーツも教育も企業も政府も、人が人の幸福のために作った仕組みだが、それが人を苦しめ殺している。
魯迅は『狂人日記』を次のように締めくくった。
「四千年間、人食いの歴史があるとは、初めわたしは知らなかったが、今わかった。真の人間は見出し難い。…人を食わずにいる子供は、あるいはあるかもしれない。救えよ救え。子供…」
『狂人日記』は、 100年前の1918年書かれた。人食いの歴史とは、戦争と搾取の4000年のことだ。我々は、寄り添ってくれる人をどこに求めればいいのか。