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ピカピカに清掃された校舎に潜む構造的差別

70年以上経ったが、未だに戦争神経症で入院したまま患者がいる
 「かつて大阪・堺の金岡の陸軍病院、あそこの36番病棟、37番病棟は、精神科の患者を入れてあるところだった。そこは、・・・便所までピカピカだった。しかも、陸軍病院の中では36、37は差別されてるわけです。そして、そこは将校でも兵隊でもみんな一緒で、古いものが一番いばってる。36、37はそういう非常に不思議な病棟だったんですけど、そこは、内務検査のたびに必ず一番だった。 
 それは、ともかく暇さえあれば「びんこすり」っていって、牛乳ぴんで床を、かけ声かけてこすってるわけです。ぼくは部落の路地を見たとき、それを思い出した。 つまり、生活の意欲が非常に充実してるんです。だけど、それを向ける先がないもんだから、自分たちの周りをみがき抜くんじゃないか」安岡章太郎
 この患者たちは、徴兵検査には合格した心身共に健康だった人たちだ。戦場の惨状や内務班生活の不条理が、健康な若者の精神を破壊したのである。
 今も辛うじて残るカルテには患者の言葉が残っている。
 「12歳くらいの子どもを突き殺した。かわいそうだと思ったことがいまでも頭にこびりついている」 
 「部落民を殺したのが脳裏に残っていて、悪夢にうなされる」 
 「子どもを殺したが、自分にも同じような子どもがあった」・・・
 こんな経験を抱えて精神を病んだ傷病兵に、「びんこすり」は治療ではない。虐待であり、差別である。
 
 僕はこの陸軍病院の話を読んで、高等学校が暴力に荒れた80年代を思い出した。 荒れが一段落する頃、工業高校に校舎内を舐められる位ピカピカにするところが現れ、じわじわと広がったのだ。同じような問題を抱えている学校だけに広がったのがミソである。

 元々学校には、「服装の乱れは心の乱れ」などと言う因果関係を無視した、だが耳障りのいい標語が溢れやすい。戦中の「欲しがりません、勝つまでは」に乗せら欺された愚かさは惰性として続いているのだ。
  国民に「欲しがりません」と言わせて東条は、三菱から当時の1000万円を献金として受け取り、軍の酒保には甘い羊羹や酒が山積みになっていたように、軍と財閥は「欲しがります、どこまでも」だった。標語のわかりやすさは、批判精神をいとも容易く踏み砕くから危ない。

 舐められる位ピカピカの校舎を、僕は気持ち悪いと言った。だが同僚の多くは、綺麗なこと自体に問題は無いと肯定的であった。分厚い掃除のマニュアルを造り、教研に持ち込む若い教師も現れた。しかも賞賛の意見が相次いだ。
 好奇心旺盛な少年が、生活すれば汚れ散らかるのは当然。文化祭で、教室に角材が組み上げられ床や壁に釘が打ち込まれ、窓ガラスにガムテープが貼られるのを嫌い禁止するようになった。学校は生徒の創造的熱意より、建物を可愛がったのである。その傾向は工業高校から、新設や建て替えの高校に「感染」して広がった。その究極の姿が山手線に近いB高校の定時制課程である。この事は「高校に於ける暴力と自由の偏在」に書いた。 ←クリック

  90年代半ば、B高校定時制課程が荒れていた。生徒たちは建て替えたばかりの校舎や校庭にバイクを乗り入れ、教室や廊下で花火、校庭にもたばこの吸い殻や菓子袋が散らばった。切っ掛けは校舎改築だった。教師達は建物を可愛がった、壁にテープを貼るな、落書きをするな。建物が新しいから少しのゴミでも目立つ。口うるさくなる。生徒は俺たちと校舎どっちが大事なんだと荒れる。全日制課程や近所からの苦情は絶えず、教師は対策に追われて職員会議は週二回に増えたが、疲れ果て為す術がない。
 ところが思い掛けない事で事態は一変する。夜間中学を卒業したお年寄り数名が、勉強を続けるために入学したのである。彼女たちは、荒れる高校生に一瞬たじろぐが
「なにしてるの、学校は勉強するところでしょう」と言いながら、教室に入り教科書とノートを広げた。僅か数日の間に花火は姿を消し、静寂が訪れた。ツッパリ達がおとなしく鉛筆を握ったのである。教師達が束になって説得し脅しても駄目だったことが、あっさり解決した。何が違ったのだろうか。
 教師は、~するなと言う。命令である。お婆ちゃんたちは、~すると宣言し実行した。荒れるツッパリとその同調者だけで構成された均一の空間に、異質のお年寄りが加わることで突然起きる根底的変化、それは革命と言うに相応しい。

 偏差値の魔手に教師までが捕らわれて、偏差値が低ければ授業に関心は無いと決めつけていた、これが差別でなくて何を差別というのか。自分の職務が追考できない無能さを糊塗するのは「差別」の効用である。掃除やお辞儀の「行儀良さ」を基本的生活習慣と名付け、生徒に強制したのだ。

 学校であれば授業に精を出さねばならぬ。軍の精神科病棟が医療現場である以上、治療に全神経を注がねばならないように。それが目的合理性である。「びんこすり」の日常は、過酷な差別にすぎない。病院内外から精神科病棟に注がれる侮蔑の眼差しに、「びんこすり」でピカピカになった床は反証になるどころか「差別」を尚一層際立たせたのである。しかし病棟将校たちは、当局から与えられる内務検査成績「一位」の誉れに満足した。こうして差別は構造化し、目的の治療や教育は蔑ろにされる。
 B高校定時制課程にとって幸いだったのは、生徒が徹底的に荒れたことである。だが軍精神科病棟傷病兵は、文句も言わず「びんこすり」を続けたのである。

 ピカピカに清掃した校舎、部活が終わって体育館や校庭に頭を下げる生徒たちを見るたびに、僕はいやな気持ちになる。デパートやスーパーでも売り場への出入りの度にお辞儀が励行されていて、気持ちが暗くなる。管理職が点数表を持って眼を光らせて×や○を記入するからだ。労働者は芸を仕込まれた家畜ではない。
 教師も教室や学校に出入りするたびに「礼」をさせられるかも知れない。
 絶えず業績評価して職場をギスギスさせるより、自然な笑顔が出る労働条件を整えるべきなのだ。
 

焼酎と説教・説教は頼まれてするもの

 僕の大叔母は、よく頼まれて説教をした。頼んでくるのは、本人か家族であることが多かった。大叔母は、戦争で夫も子どもも無くして、姉である祖母の家で暮らしていた。そこに僕らも暮らした。
   説教がある日、僕は昼前から親戚にやられた。小学校三年生の早春の事だけは少し覚えている。水仙や梅が咲いていた。うろうろして出かけ遅れた僕は、門を出たところで、小さくうな垂れた母親に連れられた若者とすれ違った。硬い表情で、2人とも紋付きの羽織を着ていた。
 僕には、叱ってくれと頼む事そのものが不思議でならなかった。叔父たちに聞けば、大叔母は説教の名人で、遠くからわざわざ汽車でやってくる人もあると言っていた。「町誌」の編纂に加わったある叔父は、
 「お前のうちは代々、水路や城壁の工事を設計監督する下級の侍じゃった。だから皆数学をやる、仕事上計算することがたくさんあるからだ。川の水量や速さ、石や土の量、人夫の数、工期、費用の見積もり。技師としての仕事の他に、避けて通れぬ役目がついてきた。それが仲裁だ。工事をする人夫たちは、気が荒い。喧嘩が絶えない。喧嘩が起きれば仕事は進まない。だからお前の先祖は、人夫たちが喧嘩しないよう気を遣わなければならなかった。揉め事があれは、事情をよく調べ、双方の言い分も聞き、仲裁した。焼酎は欠かせない道具でもあった。
 そのうち、工事に関係の無い揉め事でも、仲裁を頼まれるようになったらしい。明治になつてからは、工事の機会も増え喧嘩も派手になって、仕事をする暇も無い位。あっちこっち仲裁をしていたようだ。中でもお前の爺さんは、仲直りさせるのが上手かった。大叔母さんもその血を引いてるんだ」と何度か話してくれた。 
 「お前の住んでいるあの家も、お前の爺さんが仲裁のために建てたんじゃなかろうか。座敷を開け放しても、周りの家に話し声は聞こえない、眺めはいい。いい景色を見ながら焼酎を飲めば心は穏やかになる。説教が終わる頃には、夕日が桜島の噴煙の中に沈むのが玄関に立てば見える。叱られに来た人も、帰る時には綺麗な景色で気持ちが和むように出来てる。
 お礼は焼酎の瓶一本だけ。食べ物の支度は婆さんたちが朝早くからやるんだ、一銭の得にもならないのに。残した料理は、折りに詰めて焼酎を包んできた風呂敷に戻して渡すのさ」
 「今日ちょっと早く帰ってごらん。叱られに来た親子がどんな顔して帰って行くか、見てごらん」そう言うのだった。
 何度も中を覗いては、入っちゃいかんと制止されたが、やがて客が玄関に出て、親子の顔を見ることが出来た。
 2人とも、昼前見たときとは別人のようだった。晴々と満面の笑みを浮かべながら、見えなくなるまで何度も何度も振り返ってお辞儀を繰り返すのだった。

 鹿児島の方言で、「叱る」を「がる」という。
  「なんごち(どうして)がられっせー(叱られて)嬉しかとやろかい(嬉しいんだろうか)」と大叔母に聞くと
  「ここに来る決心をしたときには、大抵どっちとも大体の反省は出来ているものだよ。ただどうして啀み合うようになったか、順序立てて話を聞く、揉め事には言いたいことが双方に山ほどある、それを全部聞くのさ。言いたいことを言い終わると重く胸を塞いでいたものが消えて体中が軽くなる。その頃、焼酎を飲みながらお膳をつつく。そうすると、啀み合っていた時には出来なかった話も出来る。あれもやろう、これもやろうと相談もする。
 だから、あたいゃ(わたしゃ)がりゃせんでんすんとじゃ(叱らないでも済むんだよ)」  そうか、だから暮れの大掃除や餅つきや薪割りには、説教された人たちが来て加勢してくれたのだろうと思う。

  学校の生活指導としての説教=訓戒は、こうした「とき」を待ち「頃合い」をはかる事が無い。学校の都合に合わせて、最悪の時に説教してしまう。立ち直りを台無しにしたり、拗らせてしまったりするのだ。そもそも「説教」は、分掌として引き受けたり、職員会議の決定でやるものでは無い。最大の欠点は、説教と罰を一体化させてしまったことにある。
 本人たちから頼まれるような関係を、「授業」や生活の中で自然に作り上げねばならない。それは面倒くさい回り道だが、結局は最も効果的なのだ。
 「バカの考え休むに似たり」これは大叔母の口癖であった。

安保闘争以前の高校生 1

 ここ二・三年、かなり顕着な変化が私たちの周辺の高校生にあらわれてきている。
文章の10年後の高校。セーラー服生徒のスクラムの
向こう側に、ヘルメットとセクト旗が見える。
 いわゆる「われらの時代」風の〝閉ざされた未来〃というような感覚がむしろあらわれず、生活態度が非常に端的になってきている。功利主義にわりきるものは受験勉強に集中する。デカダン主義のものはスケートリンクへ直行する等。だが大切なことは、生活をムード的に考えないで、かれらなりに相等高い社会的判断力をもって、社会問題をまっすぐに受ける生徒が多くでてきている。そしてそれが、勤評闘争等を見聞することによって一そうはっきりしてきている。
 こういう高校生は、原水爆禁止運動をすすめる高校生(仙台・東京)生徒会連合をすすめる高校生(高知・京都)だけでなく、すでにあちこちにその姿をあらわしている。

  しかも、そういう社会的・政治的問題に高い関心をしめす生徒の多くが、学業成績では概して上位であり、生活態度は誠実であり、友だちの支えがあり、かつ戦前の進歩的学生のような悲壮感にみちたエリート意識をもっておらず、むしろ外見は、朗らかで合理的で、淡々とした生活をしていることは特徴的であるし、それが、一、二の高校だけの現象でなくて、私たちの乏しい見聞によっても、どの学校にもでてきている。
 「勤評闘争、安保改悪反対いろいろ論争したけれど、みんな真剣に考えるようになった。少しずつ明るい未来が近づきつつあることを切実に感ずることが、最近ことに多い」
  と新潟の仲間から、三重の私のもとにいってきている。確かに、政治的無関心もある。「自衛戦争は正しい」という高校生もいる。「アメリカは民主主義国、ソ連は非民主主義国」と「中学校で習って」きた生徒もふえている。だが、
 「勤評は校長先生が行う。しかしどんな先生がよい先生であるかは私たちこそ知っている筈である。勤評を行い、文部省の狙いどおりになる教育が行われ、先生と私たち、将来の生徒との間にみぞができたら。…みぞならいい、もっと恐しいことがおこらないとはかぎらない。そんな所にカを入れるよりは、もっと日本の独立のためにカを入れてほしい。小林委員長が痛々しい姿で羽田へつかれたと聞いたとき私はふっと歌った。、わかものよ、からだをきたえて′おけ、美しい心がたくましい体にからくも…その日のために…」 (三年女)
 こういう生徒もまた、ふえてきているのである。そういえば、勤評闘争の時に、私たちもよく会議したし、生徒たちもよくよって話し合っていた。冷やかに両者をくらべてみると、教師の会議が、もたついているようなところを理解していくのに、むしろ生徒の方が早かった例もある。会議、採決、行動能力では、新教育で育ってきた生徒の方が、よほど手際よい場合が多い。

 そうだとすると、こういう、よい傾向を、確かにみつめ、それをのばしてやるのが、高校教育なのでないだろうか。
 それなのに、かれらが成長してくると、「生意気になってきた」と怒り、かれらが社会的関心をしめすと、教師の方が抑えてかかったりすることはないだろうか。昔、軍隊生活を経験した人は、一〇・五の軍靴をわりあてられた一〇・七の足の男が、それを訴えると、上等兵などから、「なんだと、足を削れ、足を」といわれたことを知っている。それでも靴はとりかえてくれた。教育の仕事は、このように具象的でないために、案外、それと同じことを、教師がしていることはないだろうか。まちがった教育愛や、必要な支援の不足が、かれらの生活に、靴ズレをつくり、しかも化膿するまで見おとしていることはないだろうか。おたがい高校数師は、生徒をみつめるのにもっともっと努力する必要がある。
     竹田友三 高校教師論 1960 三一書房

 「教師の会議が、もたついているようなところを理解していくのに、むしろ生徒の方が早かった例もある。会議、採決、行動能力では、新教育で育ってきた生徒の方が、よほど手際よい場合が多い
 同じことを、中野重治も書いている。他の論者たちも同様の指摘をしている。それが何時、どんな切っ掛けで、教師の「指導」が優位になってきたのだろうか。一つのヒントを、竹田は言っている。「・・・社会的・政治的問題に高い関心をしめす生徒の多くが、学業成績では概して上位であり、生活態度は誠実であり、友だちの支えがあり、かつ戦前の進歩的学生のような悲壮感にみちたエリート意識をもっておらず、むしろ外見は、朗らかで合理的で、淡々とした生活をしていることは特徴的である
         

打倒すべき相手、食パン

 「・・・「なんだ、お前のその恰好は」 食パンはいきなりそういうと、私の背中を指さした。母が綿布を筒状に縫ったものを私は斜めに背負い、前に回したその両端を胸の前で結んでいたのである。つまりはリュックサックの代わりで、その中には母が工面してつくってくれた握り飯が入っていた。 戦時中にニュース映画で、中国の兵士がこれと同じ恰好をしているのを観た。それが珍妙だといって嗤ったものである。思うに、食パンの脳裏にも、その残像があったのではなかったか。・・・ しかし、食パンは、そうした事情を表だにせず、切って捨てるようにいった。「みっともない恰好するなよ。田舎者みたいな」 私は明らかに侮辱されたのである。傷つくより怒が先に立った。みっともないとは何事だ。こちらにとって、見た目にいいかわるいかは、問題ではない。おれはもっと切実なところで生きている、という思いがあったからである。・・・食パンにはっきり敵意を抱いた。当時流行の言葉でいうと、「打倒」すべき相手として。
 私は戦後民主主義のまっただ中で育った。民主化を目指すGHQ占領政策の一環として中等教育の現場に持ち込んだのが生徒会活動である。毎週水曜日の授業は午前中で打ち切りとなり、午後は「アセンブリー」の時間に当てられていた。講堂兼用の体育館に全校生徒が集まって生徒会総会を開くのである。 教師たちはオブザーバーというかたちで脇の方に顔を連らねたが、発言することは一切なく、会は生徒たちの自主運営に任されていた。おそらく、GHQからその旨お達しが出ていたのであろう。 初めのころ教師たちの中に、民主主義を理解している者が何人いたかとなると、ゼロに近かったのではなかったかと思う。 ・・・民主義教育の-環として、生徒会活動が導入されたものの、生徒たちは何をどうすればよいのか、皆目、見当がつかなかった。私は千歳の七期生で、転入したとき下級生としては敗戦の翌年に入学した八期生がいるだけであった。生徒の大半は、つい昨日まで軍国少年だったのであるいきなり民主主義といわれても、理解のつくはずがない。 生徒会が初めて盛り上がりを見せたのは、長髪禁止の解除を学校側に求めたときである。稚い要求ではあるが、しゃれっ気の出はじめる年頃の生徒たちには、これ以上ない打ってつけのテーマになった。 生徒委員会の申し入れを学校側はあっさり却下、生徒会は生徒会総会にこの議案を持ち込むが、反対論もけっこうあって、結論が出るには到らなかった。生徒たちもまた、戦時色を払拭できずにいたのである。   総会は三度、四度と開かれ、論議が白熟して夜遅くまで続けられることがあった。その間、千二百人余の全校生徒は、かたい体育館の床に腰を下ろしてやりとりに耳を傾け、その場を去る者は一人もいなかった。 私たちは敗戦の混乱の中で、自分で考え、自分で行動することを始めたのである。それは、そうせざるを得ない状況に置かれたからであった。 敗戦直後の学校には、教師も教科書も不在だったといえよう。教師の多くは腑抜けの状態にあった。それでは、生徒を教育するどころではない。新しい教科書が間に合わないので、古い教科書を用いた。ただし、GHQが不適切と判断した箇所は、墨で塗り潰したうえでのことである。 教科の担当教師は、授業を始めるより先に、問題とされる箇所を指示し、翌週までに生徒自身の手で塗り潰してくるよう申し渡すのが新学年初頭の仕事になった。これでは、教師はいない教科書はないも同然であろう。 生徒総会は最終的に長髪の是非を全員投票にかけた。・・・票決の結果は「是」となって、それまで首をタテに振らなかった学校側が、あっけなくこれを呑んだ。執行部からの申し入れの段階では、戦時中から続く師弟関係がなんとなく物を言って、生徒側が押し切られていたが、生徒総会の決定を突きつけられると、学校側の腰がとたんに引けてしまったのである。 学校側は、GHQににらまれるのを、極度に恐れていた。いま考えると、こっけいなほどである。その超権力がうしろに控えていたせいではあったが、生徒たちは容易に屈した教師たちの姿を見て、勝ち誇った。何分にもかつてなかったことである。 生徒会の次なる要求は、腕時計をするのを認めろ、というものであった。私はその必要性があるとは思 っていなかったので、総会で反対票を投じた。だいたい学校に腕時計をしてくる生徒というのはまれであったから、この要求は現実離れしていた。それでも学校側は生徒会の前に屈したのである。 このあたりまでほ手探り状態だった生徒会活が、ようやくそれらしくなったのは、校歌はこのままでいいのか、という問題提起をしたときからであった。 ・・・その三番が新しい時代にそぐわないとされた。
          赤く清き 誠ひとすじ/友垣を かたく結びて/身と心 きたえ修めむ/大君のしこの御楯と
 「しこ」とは漢字で「醜」と書く。強いこと、頑丈なことを意味する。私たちは小学校のころから、身を鴻毛の軽きにに置いて、醜の御楯となるよう叩き込まれてきた。要するに、自分の身は鳥の羽毛ほど軽いものだと考え、天皇の前に生命を投げ出せ、というのである。 とんでもない思想だが、そのとんでもないことを、日本という国はついこのあいだまで大真面目にやっていた。過去においてそういう国であったことを、戦争を知らない世代は胸に刻みつけておいてもらいたい。これは、その時代を生きた人間の、切なるねがいである。 敗戦後もしばらくのあいだ、「健児の歌」がそっくりそのまま校歌として歌われていたということは教師たちの歴史認識がいかにお粗末であったかを如実に物語っている。 生徒たちのあいだでは、いっそ校歌を変えてしまおう、という意見が強かった。学校側は収拾策として、校歌から三番を削除する、という案を出してくる。
        はろばろと日路の限りを/武蔵野に陽は直射して/千歳なる学びの庭に/丈夫ののぞみあかるし
 これが一番の詞である。出来のよしあしは別として、変えなければならない理由はない。三番の削除 で、この問題に決着はついた。学校側は辛うじて面目を保った恰好だが、長髪、腕時計の場合と違って、純然たる思想の対決において敗れたのだから、これによって権威は完全に失墜した。 一方、生徒は、自分たちの力で物事が動くことを、肌身で感じ取った。それは、民主化運動の実感であった。私たちはこのようにして、絵空事でない民主主義を学んだのである。
 衣食住どれ一つをとってみても窮乏のどん底にいたにもかかわらず、私たちの少年期は輝いていたと思う。 いまは、すべてが満たされているのに、青少年の心はどんより曇っている。たとえば、いわゆる引きこもり状態の若い人たちが、全国で六十万人もいるというではないか。彼らには、若い血潮をたぎらせる理想がない。それどころか、生きている実感さえ持てずにいる。物賛的にいくら豊かでも、心は貧しい。これは、親がどうの学校がどうのといった段階をはるかに超えている。 古今の歴史が示すように、栄えた文明はかならず衰亡に向かう。要は、いかにゆっくり下って行くかだが、経済的成功で光芒を放ったわが日本は、それもまたたく間に終わって、いまや急坂を転げ落ちるばかりである。モノだとかカネだとかに心を奪われている場合ではない。私たちに何が欠けているのか。真剣に考えるときではないのか」
             本田靖春 『我、拗ね者として生涯を閉ず』 講談社    2005.2
                                                         
  「敗戦の混乱の中で、自分で考え、自分で行動することを始めたのである。それは、そうせざるを得ない状況に置かれたからであった。 敗戦直後の学校には、教師も教科書も不在だったといえよう。教師の多くは腑抜けの状態にあった。それでは、生徒を教育するどころではない」
 この部分は、敗戦直後に教育を受けた少年たちのほとんど全てに共通している。少年たちが自分で考え始めるための条件は、状況の混乱と物質的窮乏そして教師の不在または自信喪失にありそうだ。


追記  本田靖春氏はノンフィクション作家。陸軍士官学校や海軍兵学校へ卒業生を送り込むことで名門校化を図った世田谷の旧制都立千歳中学(十二中)の敗戦直後を描いている。 多くの教師が自信を失う中、たった一人皇国史観を守ろうと力んでいた食パンも、生徒たちの「絵空事でない民主主義」によって権威を失った。

  今、「自分たちの力で物事が動くことを、肌身で感じ取」る経験を、少年・青年・若者はどこでするんだろうか。 どこかで「決まったこと」を守り、すすんで活き活きとこなす「活動」を民主主義と叩き込まれ、うさん臭さに気付く頃には手遅れ。その「活動」民主主義を壊す反知性主義的潮流に溜飲を下げて「物事が動く」ことに替えているのではないか。

旧制中学が新制高校に切り替わるときに中等教育を受けた作家の証言 2

                                                                                                                                   承前
  旧制中学から新制高校への過渡期の山中恒の経験を、前回引用したが、その前後を紹介する。
 「・・・十五年にわたる戦争が敗北で終結したのは一九四五年で、当時私は一四歳一か月で北海道庁立小樽中学の二年生であった。その間、天皇制イデオロギーの狂信的軍国主義教育を受けてきた私は、この<敗戦>という想像もしなかった(いや、心の片隅では「ことによると…」と若干の危惧は抱いていたが、建前的にはそれを否定し続けてきた)ことが現実となったとき、どうしてよいやら途方にくれでしまった。 
 いままで受けてきた教育の精神からすれば、これは当然、死して天皇に詫びねばならぬ事態と観なければならなかった。だから私は本気で自決することを考えたりもした。しかし途方にくれているうちに、ひるむ心がでてきて、一まず私たちをそのように訓育し錬成してきた教師たちが自決してからでも遅くないと日和見始めた。私たちや教師は誰ひとり自決などしなかった。そのとき、だまされたと思った。それからというもの、私は教師を初めとして私たちをそのように訓育したおとなを疑いの目で見るようになった。 
 私たちは学校へ戻ったが、ほとんど授業らしいこともなく、教師たちは職員会議ばかりで、教室へ出てくるともっぱら雑談し、そのなかで自分たちも為政者にあざむかれていたと言いだし、いつのまにか被害者の席へにじりよってしまった。その教師が権威をもって指示したのが、教科書の墨塗り作業であった。 それまで私は両親と離れて暮していたが、それを機に両親のところへ戻り、学校も庁立岩見沢中学へ転校した。ただし私にとって学習は魅力のあるものではなかった。 
 けれども授業は教科書がないので、教師たちが各自に自主教材のプリントを配布し、極めて個性的で、それが面白かった。 そのあたりから、予科練や特幹など軍隊へ志瞬していた上級生たちが復学を始めた。彼らは学校に対して軍国主義一掃、学園民主化を要求したが、下級生に対しては旧態然とした態度で相変らず暴力的に服従を求めていた。その時期、まだ欠礼したといって下級生を殴る上級生がいたし、態度がでかいといって呼び出されて私刑された下級生がいた。それに対して教師たちは、自分たちが果たしていつまで教職にとどまっていられるだろうかといった不安(この時期、占領軍は戦争犯罪人の追及を始めていた)やら、明日の食糧を入手する算段に日常的に追われていて、そうしたことにかかわりを持たぬよう、見て見ぬふりをした。私はこの上級生たちが在校しているうちは学園の民主化などできるわけがないと思っていた。同級生のなかには、これらの上級生の言動に同調するものもいたが、多くは私とおなじようにさめていた。 その後、私は更に転校し、もといた神奈川県立秦野中学に戻り、一九四七年春には中学四年生になった。この学校の所在地は、いまでこそ首都圏にはいり、東京への通勤圏内としてかなり開発されたが、当時はまだ、「いなか」であった。なにしろ、近くの農家の老人が敗戦を認めず「なに東條さんにかわって松川さん(マッカーサーのこと)が総理大臣になっただけだ」などとうそぶいていたのである。 ここでも相変らず上級生が猛威をふるっていたし、学校も北海道の中学にくらべて、東京に近いにもかかわらず、戦時下とあまり差のない教育をしていた。やはり教師の体罰は日常的であったし、生徒自治会とは名ばかりで、戦時下の学友会と質的にはかわらない学校の意向を伝達するだけの機関だった。年輩の社会科の教師が歴史を教えるのに、彼が師範学校時代に使ったノートで授業し、私がそれは皇国史観によるもので、おかしいのではないかと抗議しても、「歴史というものは、古い世代が新しい世代に伝えていくもので、自分たちが習った歴史を教えて、なにがいけないのですか?」と大まじめに反問し、「もし、なんだったら、きみが私のかわりに講義しますか? 講義を受けてもよろしいですよ」という始末であった。それからまもなく、私は上級生の呼び出しを受けて「授業中でかい面をしないほうがいい」とおどされた。私のことを聴いて自発的におどしをかけたものやら、件の教師に頼まれたものやら、その辺は不明であったが、以後、私はその教師に侮蔑感しか持たなくなった。 
 そして翌一九四八年新制高校制度が実施され、私たちは高校二年に編入された。上級生の過半数が旧制の中学制度で卒業していったし、残って高校三年生に編入されたものは、以前のような横暴な上級生ではなかった。むしろ私たちと組んで学友会の新しいクラブの創設やら、校内誌の創刊やらを計画するようになり、私たちも彼等とニックネームで呼び合うようになった。それでも学校当局は生徒自治会の役員には最上級生の成績優秀、品行方正と目される生徒を揃え、管理をおさおさ怠らなかった。私たちの学校以外のあちこちの高校では生徒自治会と学校当局が対立し、いろいろトラブルをひき起こしていたが、私たちの学校は無風状態であった。たまたま弁当箱を〝赤旗〃に包んできたといって、例の歴史の教師にこっひどくお説教された上級生もいたが、これも教師がどんな顔をするか反応を見るための茶目つ気でやったもので、やられたほうもあまり問題にしていなかった。 
 一九四九年、私たちは高三生になった。私にとっては、ようやく我が世の春が巡ってきた感じであった。そのころ、私はすでに占領軍命令で体練科の武道が廃止されたのを期に古手の教師たちが柔道場のたたみを勝手に処分したことを聞きこんだ。なにしろ物のない時代であった。私はそれを材料に、わざと学校側のスパイといわれていた教師の耳にはいるように、「問題にしてやろうか」とゆきぶりをかけた。たちまち私は応接室へ連れこまれ、教頭からしつこくその事情を説明された。そして「よその学校では、いろいろ生徒との間にトラブルがあるようだが、本校はそれがないということでうらやましがられているのだから、無用の騒ぎを起こしてくれるな」と懇願された。 そのことは却って私に自信をつけさせた。いろいろな情報がはいってきた。私はそれを武器に学校蔵書の閲覧許可や、楽器など備品の生徒使用の緩和などを要求し、同時に生徒自治会の自主運営を主張、立候補にょる選挙制を要求した。学校は私が当然立候補するであろうと危惧していたので、私は立候補の意志のないことを表明した。そして私と行動を共にしていた親友に立候補をすすめた。彼もその意志があり、選挙のふたをあけると圧倒的な得票で当選した。彼には親分肌のところがあり、面構えとは逆に下級生の面倒見もよかったし、ときどき奇行をやらかして人気を集めていたこともあって、あいつを自治会長にしたら、なにか面白いことでも起こるのではないかという期待が票につながったのである。 彼が自治会長に就任してからの活動は目ざましかった。立候補しなかった私は役員でもなんでもなかったが、彼の相談役として、さまざまな助言をした。暴力教師を自治会の名で追及し、謝罪させたこともあった。個人名で学校をアドレスにして送られて来る信書を学校が検閲していたことも追及し、以後それをやめさせた。いま思い出しても呆れることは、学校に自治会活動の専従を認めさせ、しばしば授業中に会議を招集したりしたことである。 私たちほ下級生からの苦情相談も引き受けた。暴力教師の言動は細かくチェックし、緊急総会で学校に釈明を求めたり、学校図書の購入の選択権も生徒側のものとした。校内誌・紙の編集に関しての学校の干渉も拒否した。開校以来、男子生徒禁制を誇っていた隣接の女子高校へ押しかけ合同クラブ活動の許可をとりつけたり、共同機関紙の発行を認めさせたりした。 それまで恣意的に暴力を振っていた教師は戦戟恐恐として、行動をつつしむようになった。生徒の読書傾向に干渉していた教師も余計なことをいわなくなった。共同募金活動も緊急総会にかけ、学校の要請を拒否した。私たちは一度もストライキなどしなかったが、学校側は自治会に一目置くようになった。学校に初めて戦後が来たという感じであった。尤も私たちはなにも法外な要求を出したわけではなかった。もちろん学校の主催する行事に協力してこれも盛りあげた。 
 教師たちのなかにも年齢的に私たちに近い人がいて、彼らも秘かに私たちを支援してくれた。 授業の面でも面白いことがあった。英語の教師が足らず、社会科の若い教師が英作、英文法を教えることになり、「はっきり言っとくが、俺は専門家じゃないから、なにを教えるかわからない。お前たちが責任をもって監視してくれないと間違ったことを教えるかもしれない。おかしいと思ったら、どんどん異議を唱えろ」と物騒な発言をし、私たちも「まかせてくれ」というわけで、教師と生徒が一体となった研究会のような授業になった。みんなでひとつの例題に悩み、にっちもさっちもいかなくなった。「しょうがない、専門家に聞いてこよう」などと彼が教室をとびだし、先輩の英語教師に質問に行ったりした。そして戻って来ると「こんなことがわからないのかとばかにされたぞ。お前ら、俺に恥をかかせないように知恵を絞って勉強してきてくれよなあ」と大まじめにいって私たちを爆笑させたりした。いま、高校でこんな教師がいたら大問題にされるだろう。しかし、いま考えてみるとこの授業がー番張りがあり、実力がついたような気がする。いまは県立高校の校長をしている彼が「あのときほど楽しいことはなかった。あれは青春だったなあ」と語ってくれたことがある。 
 そのころレッド・バージの旋風が吹き起こり始めていたが、私たちが格別、政党色を出さなかったことや、戦時下の中学教育を一年以上受けた最後の学年ということもあって、学校は私たちに当らずさわらずであった。あとで聞くと「どうせあいつらは、あと半年で学校へ来なくなり、卒業して行くのだから、少しの辛棒だ」とおさえていたということである。 事実、私たちが卒業したあとの学校側のしめつけは厳しく、後に後輩たちから、先輩たちのやり過ぎのつけを廻わされてえらく迷惑したといわれてしまった。そのつけは私個人にも廻わってきた。教師たちが連名で、内定していた私の就職先へ投書を送り、そのために私の就職は取りけされてしまった。 いま思い返してみると、文部省は占領軍との折衝にあけくれ、学校はつぎつぎ送られて来る通達に追いまわされていたし、教師たちも生活苦が前面にあって、生徒たちを本気で管理するところまで手が届かなかったのではないかと思う。それはほんの僅かな期間であったが、私たちは輝くばかりの自由を謳歌することができた・・・」                                     『戦後日本教育史料集成 第二巻 新学制の発足』  月報 2  山中 恒 「そのときエア・ポケットのように輝くばかりの自由があった」 

                 

 敗戦で生徒は「・・・教師たちが自決してからでも遅くないと日和見始めた。私たちや教師は誰ひとり自決などしなかった。そのとき、だまされたと思った」そして教師たちまでが「自分たちも為政者にあざむかれていたと言いだし、いつのまにか被害者の席へにじりよってしまった」
  あれだけ傲慢を極めた首相や官房長官が急に国会でしおらしくなった。二つの選挙で負けて、漸く国民と自分たちが対等なのかも知れないと悟り始めたからである。自由な自治に欠かせないのは、この対等な関係である。関係が対等に近づいただけで教師たちは脅え自信を失い、その結果「張り」が出て「実力」がついたのである。類似の証言は内外にあふれている。
   しかし 山中恒の証言にあるように、関係性に緊張が欠けるや「学校側のしめつけは厳しく」なり「就職は取りけされてしま」うのである。

旧制中学が新制高校に切り替わるときに中等教育を受けた作家の証言 1

  作家の山中恒は、旧制中学が新制高校に切り替わるときに中等教育を受けている。
 「・・・授業の面でも面白いことがあった。英語の教師が足らず、社会科の若い教師が英作、英文法を教えることになり、「はっきり言っとくが、俺は専門家じゃないから、なにを教えるかわからない。お前たちが責任をもって監視してくれないと間違ったことを教えるかもしれない。おかしいと思ったら、どんどん異議を唱えろ」と物騒な発言をし、私たちも「まかせてくれ」というわけで、教師と生徒が一体となった研究会のような授業になった。みんなでひとつの例題に悩み、にっちもさっちもいかなくなった。「しょうがない、専門家に聞いてこよう」などと彼が教室をとびだし、先輩の英語教師に質問に行ったりした。そして戻って来ると「こんなことがわからないのかとばかにされたぞ。お前ら、俺に恥をかかせないように知恵を絞って勉強してきてくれよなあ」と大まじめにいって私たちを爆笑させたりした。いま、高校でこんな教師がいたら大問題にされるだろう。しかし、いま考えてみるとこの授業がー番張りがあり、実力がついたような気がする。いまは県立高校の校長をしている彼が「あのときほど楽しいことはなかった。あれは青春だったなあ」と語ってくれたことがある。 そのころレッド・バージの旋風が吹き起こり始めていたが、私たちが格別、政党色を出さなかったことや、戦時下の中学教育を一年以上受けた最後の学年ということもあって、学校は私たちに当らずさわらずであった。あとで聞くと「どうせあいつらは、あと半年で学校へ来なくなり、卒業して行くのだから、少しの辛棒だ」とおさえていたということである。 事実、私たちが卒業したあとの学校側のしめつけは厳しく、後に後輩たちから、先輩たちのやり過ぎのつけを廻わされてえらく迷惑したといわれてしまった。そのつけは私個人にも廻わってきた。教師たちが連名で、内定していた私の就職先へ投書を送り、そのために私の就職は取りけされてしまった・・・
 『戦後日本教育史料集成 第二巻 新学制の発足・月報 2』    「そのときエア・ポケットのように輝くばかりの自由があった」     

   山中恒たちは、素人から教育を受けるという滅多にない幸福に恵まれたのである。お陰で、「この授業がー番張りがあり、実力がついた」。教師らしい説明を一切省いて、自ら学ぶ経験をすることが出来た。ジョゼフ・ジャコトが体験したことがここでも確かめられる。
                                                                                                             つづく

日本の大学院生ができない発言をウクライナでは高校生がする

 ウクライナ原発を視察に行った友人(東北大学医学部臨床教授 岡山博)のblog
 「(ウクライナの)義務教育は6歳から16歳まで11年間。教育は幼稚園から大学、大学院まで無料。さらに奨学金がある。(※北風:旧ソ連圏各国はほとんどが同様。)教育程度は高い。日本の大学院生ができないようなしっかりした発言を高校生がする。「アメリカの一流大学から、優秀な学生を探しにウクライナに来る。そのようにしてアメリカに渡ったウクライナの科学者がすでに5人ノーベル賞をとっている。その時国籍はウクライナではなくアメリカになっている」と、今回訪問のリーダーであるプシュパラール先生が言っていた。今回高校生を含む多くの人と会話して、なるほどそうだろうと了解した

とある。「ここでは高校生が日本の大学院生並みの会話をする」。この一言に打ちのめされる。人類史的重さを感じるからである。ウクライナが特殊なのではない。日本の青年の状況が特殊なのだ。日本の高校生も、ウクライナの高校生と同じ賢明さを持った時期がある。それは敗戦直後の高校生から容易に推測出来る。聡明さと引き替えに日本の青少年が手に入れたのは、何なのか。
 石神井高校の卒業生からのmailが興味ぶかい。いま彼は私立女子校で国語を受け持っている。

                                            部活は生徒の労働か
  「(大学の)授業のつまらなさについては先生のおっしゃる通りで(一分間の)深い話的な側面が強いと思います。それは言い換えれば、現実問題に対する意識と結び付かない、酷く奇を衒ったようなものになりがちです。これは自分への戒めでもあるのですが、やはり体験にむすびついたり、行動に移せないような授業ではいけないと思います。  部活の弊害は強く、部活が学生の免罪符になってしまっている面があります。それはどこか労働にも似ています。部活という労働を行うことで、学内や家庭で社会的な承認を得る。本当は学生に社会的な承認など必要なく、現行の組織の批判者であることが学生のアイデンティティーなはずです。しかし、若いうちから、社会的な承認を得るように仕組まれている学校や組織ではそのような余裕が与えられていない。ある者は塾に、ある者は部活に、それぞれ教員や親が歓迎するような労働を通して自尊心を養ってきてしまった。だから、どこかで現在の社会に対しては批判的でありにくい面がある。本当は現在の社会を変えていくべき世代が、早いうちからその現行の社会に取り込まれているため批判的でありにくい。その傾向から脱するためには、自分の育ってきた社会をもう一度見直す必要がある。そして、それには部活やバイト、塾などの時間に追われることがないことが大切。ふとした、疑問や不満を時間をかけて醸成していく必要があるから。・・・ 現在の学生(自分のような大学生も含めて)は本質的な社会的人間であることを構造的に避けられているような気がします。学校を初めとした、社会組織の構成員は一部の特権的な大人だけとなり、学生はその方針の体現者となる。・・・大人と学生には寛容さが欠けてしまっていると思うのです。今、百年後の国を憂うような人間はごく少数になってしまっている気がします。高度情報化、高度資本主義が進み、多くの人がそれに取り込まれてしまっている。視野がすごく狭く、現在しか見ていない。こうありたいという国の姿や社会のあり方を想像しにくい。だから、しょうがないと言うのではなく、僕も自分自身に対する批判者でなくてはならないと思います」 勝見

 部活を「学生生徒の労働」と捉えた分析は面白くも悲しい。子どもを労働する小さな大人とみていた「子どもの発見」以前に我々を引き戻すからだ。子どもが存在自体として尊重されるのではなく、学歴を稼ぎ、大会入賞歴を稼ぐ者としてのみ承認されるのだ。
 会社員の労働環境や人間関係を部活と同一視する雰囲気は、若い業界に著しい。過労死からの救出を求める女性に「あまい」と放言する大学教員が出る背景でもある。
 「働かざる者喰うべからず」は教師好みの標語であり、掃除の強制もこれで完璧だと思っている。しかも労働であれば神聖なものであり、神聖ならば義務である。このとんちんかんな感覚は、思想の左右を問わない。権利であるという意識がこの国では希薄なわけである、違法な働かせ方も罰せられない。働かない人間は評価の埒外、認めて貰うための最低条件が労働としての部活である。過労は仕事熱心と賞賛される始末。無報酬で働けば更に讃えられる。

 労働としての部活なら、大会入賞は義務であり、教師は生徒に負けろ怠けろなどとも言えない。日本の教師と学生生徒は、奇妙な迷宮に自ら求めて嵌り込んでいる。その先には、賃金や労働条件に拘ることをよしとせず、過労死に自らを導く世界観が待ちかまえている。
 今勝見君が持つ批判的洞察力が、学生生徒である間は一見自由で自主的部活に圧迫凍結される、今は我慢やりたいことは卒業してからというわけである。やがてそのまま枯れて「社会人」となる。「社会人」をそう定義すると、我が社会の不可思議に合点がゆく。クラブ活動をClub Activities と訳すことがあるが、検索しても日本絡みのことしか出てこない。 

 「部活という労働を行うことで、学内や家庭で社会的な承認を得る。本当は学生に社会的な承認など必要なく、現行の組織の批判者であることが学生のアイデンティティーなはずです」
 学生は既に社会人なのだ、従って改めて承認を求められるいわれはない。承認の要求は、身分差強制であることを知らねばならぬ。既定の観念への全面降伏を迫っているのだ。「嫌なら、受験しなければよいのだ、他に学校はいくらでもある」という知能ある者とは思えない教員お得意の言葉がそれを示している。「社会」に都合に合わせて意のままに操作される対象としての、子ども・青年。操作される訓練として部活は使われている。だから面接では部活歴は、有利な得点源となる。
 「承認の要求」それは婚活・就活・終活・・・という造語の気持ち悪さも同時に説明する。

追記 パラリンピック競技が異様に注目を浴びている。人は誰であろうと存在自体が尊重されねばならぬのに、メダル稼ぎに縁のある障害者、活躍する女性、働き続ける老人だけに目を向け、それ以外の障害者・女性・老人は綺麗に忘れられる。閣僚が「早く死んで頂きたい」と公言する始末、世も末。

1950年代・高校生の政治的力量 京都と高知の場合

 「京都公立高等学校生徒会違絡協議会」は1953年に結成されている。1950年に京都府立高校を卒業した学生は当時の高校生の政治意識を次のように証言している
  「・・・向かいの島津製作所には進駐軍が駐留し、夜になると、塀もなく、窓ガラスも破れ放題の教室に女を連れ込んで、狼藉を繰り返した。・・・市長選挙目前に、立候補予定の高山義三氏に面談・・・選挙戦になると、生徒会役員らを動員して選挙演説を繰り返した。・・・勝手連の走りである。予想通り彼は当選した。・・・アッという間に塀ができ、守衛が置かれ、学校の環境は一新された。・・・学校側にも明確な指導方針が打ち立てられない混乱期だからこそ、自由にクラブや生徒会活動を行うことができた

 京都生徒会連絡協議会は、結成準備会の段階で、授業料値上げを、府知事に撤回させる成果をあげている。昭和25年(1950)には蜷川虎三が知事に就任している。市長選で果たした高校生の役割を考えれば、府知事選には更に広範な高校生の参加を想像することが出来る。
 生徒会連絡協議会は、授業料や市電・市バス値上げ反対運動を展開、1954年の授業料値上げ反対運動には多数生徒が参加し、府庁陳情や議員への決議文送付を行ない、府議会での修正案可決の成果を得ている。高校生が無視できない政治的勢力になっていたことが解る。
 1953年には憲法擁護高校生弁論大会(のちに憲法記念高校生討論集会に発展〉を支援、高校生の集いや新入生歓迎会などの行事を主催している。
 更に、原水爆禁止運動、勤評問題の討論、国鉄学割改定反対運動、伊勢湾台風被害救済活動、全国高校生徒会連合準備会センターの設置、高知の生徒会連合への活動調査団派遣など、多彩な社会的活動を行なっている。こうしてみると日本の高校生もフランスや南米に引けを取らない高校生運動を展開していたことが解る。

   1949年高知県公選制教育委員会は新制高校発足に際し、諮問機関として審議会を設置、県民の声を反映させるべく各層代表から構成した審議会の委員60名の中に、高校生代表5名を正式メンバーとして加えていた。(委員の構成は次のとおり。①地域審議会代表10人、②小中高校長団代表28人、③教組代表4人、④県会代表2入、⑤報道関係・婦人団体・労働団体(各1人)4人、⑥学校組合代表2人、⑦高知市代表2人、⑧学識経験者3人、⑨高校生代表5人 各地域1人合計60人。)
 実は初めは高校生代表は含まれていなかった。そのため、第1回審議会で「高知市内校の自治会委員が審議会に生徒代表を加えることを要望している。審議会委員は一致して生徒の要望を受け入れるべきだとして、即刻教育委員に申し入れた。県教委は合議のうえ、『高校生代表1名を加えること』を決定した」
 高校3原則と全員入学制を答申した高校再編成審議会に生徒会代表が参加し、その意見を反映させたということは、日本の教育史上特筆すべきことで、高校生徒会は県民諸階層の一員として教育政策の決定に加わっている。
 1950年代高校生徒会活動は平和運動とともに発展、全県的な高校生の交流活動が生まれ、生徒会連合を結成しようとする動きが現れた
 1954年結成された高知県高校生徒会連合は、校長会や県教委の積極的な援助も得て、1年以内に全県立高校が加盟し一万九千名を擁する組織となり、①教育施設問題(講堂・練習船など教育設備の拡充)②平和問題(ビキニ水爆実験に抗議、原水爆実験・製造反対、公海自由原則の要求、憲法改悪・再軍備・安保体制反対〉③教育問題(高校全入維持、学テ・勤評反対、被処分校長を守る運動、学園民主化闘争)④経済問題(授業料・父母負担教育費軽減運動〉など多岐にわたる活動を行ない、高校生の立場から様々な社会問題にも積極的に発言した。
 1956年度の授業料値上げに際しては、生徒会連合は10万人署名で反対運動に取り組み、臨時大会での値上げ反対決議文を県教育長と県知事に提出、一万九千名の同盟休校も辞さず、県教委・知事との深夜3時にまで及ぶ直接交渉を行っている。その結果、①授業料減免枠の拡大、②需要費の大幅増額、③来年は値上げせずとの確認を取り付け、早朝6時の同盟休校指令30分前に妥結した。
 
 こうしてみると、日本の高校生もフランスや南米の高校生たちに少しも引けを取っていなかった事が解る。本物の政治交渉を、知事や教育長と行って目覚ましい成果を勝ち取っている。
 僕が、模擬投票を「ごっこ」と呼ぶのはこうした事実を踏まえている。模擬投票には中身がない、政治主体としての自覚もない。我々が考えねばならぬのは「ごっこ」のレベルまで切り下げられた高校生の政治意識・能力についてである。何故ここまでの切り下げを許してしまったのか、嘗められているのか検討しなければならない。
  「ごっこ」に終始して嘗められ切っているのは、高校生だけではない。政府自体が、外交政策・経済政策に於いては米大使館年次要望書に従属、労組は資本との交渉では無視され、日銀政策委員会が政府に従属、新聞は政府の記者会見で質問を控える始末。教員は学校内の事柄を自力で解決する能力を奪われ、抵抗すら出来ない、自らの命さえ守れないでいる。この列島のどこにまともな対話や交渉が行われている場があるのだろうか。


1959年既に農村青年のファッショ化

「山脈」は最も学会とは離れたところに位置する。驚いたのは
みんながそれぞれ地酒を持ち寄って痛飲放談する習慣だった。
  不定期刊行に徹した同人誌『山脈』を主催した白鳥邦夫によれば、1959年既に農村の若者が秩序と技術を求めて自衛隊に憧れて、新しいファッショへの志向を有していたという。
 68年の学生体験、それ以降の組合・教研・地域・・・に於ける民主主義と平和の動きは、新しい時代への動きなどではなく、与えられた「民主化」の惰性に過ぎないのではないか。70年代に始まる青年の保守化傾向に僕が危惧を感じた時、絶対多数の活動家は「青年は依然として健全である、何も書かれていない白紙状態である」と反撃した。
 僕たち自身の60年安保観が、そもそもズレていた。 あれを遠くから疑い深く見ていた農村青年への共感能力を、我々は欠いていたのだ。疑い深く見ていた若者は都会にもいた。既に分断されていた。分断された若者を繋ぐ場はどこだったのか。連合赤軍事件が学生青年運動を退潮に追い込んだのではない。我々が場を明け渡していたのである。

    すぎゆく時代の群像/鶴見俊輔への質問と答え/記憶を予言に変える問題 
        白鳥邦夫  『日本読書新聞』一九五九年七月二七日号「読者の声」より
 「『戦後日本の思想』を拝見しました。そのなかで教えを仰ぎたい点があり筆をとりました。それは「戦争体験の思想的意味」の200頁に鶴見氏が「山脈」批判として出されている問題です。その要旨は「戦中派の世代は戦争体験を書き続けるが、若い世代からはあきられている。だから記憶であるものを予言に変えなければならない」ということでした。 この「記憶を予言に変える」ということは納得できるのですが、その方法がわからない。もちろんこれは、わたしたち自身が実践主体の行動の論理として自ら考えるべきことでしょうが、このテーゼを支え実践する階級(あるいは階層)・方法・方向などが、討論を重ねてもうまくヴィジョンにならないのです。 そして討論を重ね、記憶=実感を重視すればするほど仲間との連帯感を喪失し、がんこに断層に執着する結果になっていくのでした。 
 そしてあげくに、農村の年輩の人たちのなかに「昔はよかった。いまの青年=若い者は軍隊で鍛えられていないから惰弱だ」という戦争、兵隊、昔などの讃美が多いこと。他方に、若い人も現実の虚偽の情況に実感だけで屈伏しているゆえに頑として動かない、動くときは「規律を求め、 自由=放縦を抜けて、集団を求めて自衛隊や王将隊(最近発覚した当地秋田県の不良高校生集団)に入っていく」といった話になりました。 今日わたしたちの高校から自衛隊に入る生徒もけっして貧しくはない。むしろ農家の長男が技術習得と規律と、古い親の世代に抵抗できる能力(経済力・行動力・集団性など)を求めて志願していく。そこでは親たちの古い農本主義的なファシズムの非合理的なムードや、倫理観に対決する(と考える)近代主義、技術主義に仮装されたファシズムに憧れているといえます。 
 農村では今日、機械操作ができなければ発言力はない(農業高校の「道具」はコットウ品です)。そして、「自衛隊に入って水害地復興をおこなう」と希望する少年はおそらくこの土地の現場では思いも及ばない「隣人愛」さえ抱いています。 話がついにここまできたとき、わたしたちはみないら立ち沈黙するだけでした。 
 わたしたちは不幸にして、終始「戦争およびそれに連なるものにすべて反対する(たとえば安保条約反対)」人びととばかりいっしょに生きてきすぎたのかもしれない。そして今日現場では八方ふさがりに「賛成論」者にとりかこまれているのです。わたしたちは安易に「働きかけ・呼びかけ」を口にしすぎていたのでしょう。 わたしたちは最後まで「記憶を予言に変える」方法がつかめませんでした。 
 が、こんな結論になりました。働きかけ呼びかけをするのではなく、わたしたち記憶の世代が逆にすすんで、若い世代の無記憶に同化すること、若い人の現実の体験や実感を「追体験」すること、したがってわたしたちは前衛とともに中衛や後衛をむしろ重視して組織を組むべきではないか。わたしたちのすべきことは祖国を底辺で水平線と面で奪取、あるいは先取りすべきではないのか、等々の話がでました。 はなはだ未整理だし、いら立たしさばかり先行した話し合いでしたが、だいたいこのようなことでした。ところで、その「逆の追体験」にも問題があります。これだとせいぜいここ数年間ぐらいの歴史だけを切断し所有する利那主義・窒息した現実主義=目先の情況反応主義になる可能性があります(そのときこそ「三十年四十年生きた世代の歴史意識の背骨がものをいう」と楽観できるのでしょうか)。 とにかく、自衛隊万歳・マスコミ歓迎・中間文化讃美の若者たちに、一時内面的に同化するための自己否定が必要だ、というものでした。 どうか「記憶を予言に変える」というテーゼについて、も少しお教えください。お願いいたします。近く全会員の集会があります。そのときにもくりかえしみなで考えますから」

                               
   白鳥邦夫への問いかけ「記憶を予言に」は、「吉野源三郎が、戦後の平和教育は「啐啄の機」を見ることを怠ったと苦言を呈したことがある。(1972年『科学と思想』4号)」と共通点がある。
 沖縄返還後、沖縄修学旅行に取り組む学校が急激に増えた。僕の勤務校でも連続して沖縄を選んだ。事前学習にも事後学習にも積極的に取り組んだつもりではあったが、感想の中に「ひめゆりの女学生のように、国のため美しく死にたい」というものがあって、先ず担任が衝撃を受けた。そして同様な感想は年毎に増えたのである。生徒の感想は教師の意図を読み取って迎合的に書かれるものであるから、本音としてはかなりの数になると考えねばならない。広島平和学習でも同様の「本音」が隠されてあったに違いない。
 我々は「戦争体験の記憶」に安易に依存して、「若者が秩序と技術を求めて自衛隊に憧れて、新しいファッショへの志向を有していた」事に気付きさえしなかったのである。
 都会の高校生たちが

「ちく、ちく、針がもう一度うごき出してきた。中くらいの子供が、成績があがるのとちがって賢くなった」

「市長選挙目前に、立候補予定の高山義三氏に面談・・・選挙戦になると、生徒会役員らを動員して選挙演説を繰り返した」

「社会部、文芸部、音楽部も相当水準が高かった。・・・文化部主催で講演会をやるというと、檀一雄さんとか、松川事件に関連して広津和郎さんとか、かなり有名な作家や哲学者を生徒が呼んでくる」

「フランス革命ぐらいになるとみんな目がパーツと輝く。ロシア革命なんていうと必死になる。こっちがへたなことを言うと、生徒が食ってかかるんですよ」

  と目覚ましい成長を遂げているとき、その間に農村の青少年たちの間では何が起こっていたのか。総じてインテリは無関心であった。「民主主義科学者協会」は1946年1月創立。戦時中に学問の自由を奪われていた広範な研究者が参加した。研究者による自主組織としては世界最大であった。侵略戦争を阻止できなかったことを反省し、民衆の科学的欲求の結集などを目指したがあえなく解体した。これも敗戦後の痛恨事の一つである。
 僕は記憶を予言に変える機会はあったと思う。それを妨げたのは「指導」という教師や政治組織のやまいである。

『五勺の酒』に描かれた少年たち

  中野重治の『五勺の酒』に、旧制中学校で自治会が形成される過程が描写があり、興味深い。
 旧制中学校長から作家への手紙が、この作品の前半である。五勺の酒とは新憲法発布を祝っての特別配給の残りである。校長は一合の半分の酒を飲み酔いながら、党員の友人に手紙を書いている。
 「・・・そこで聞きたいが、僕の学校にも青年共産同盟が出来た。大分まえに出来た。見ていて僕が気がもめてならぬ。まずこんなことがあった。共産党が合法になり、天皇制議論がはじまると、中学生がいきなり賢くなった。頭のわるくない質朴な生徒、それが戦争中頭がわるかった。それがよくなってきた。ちく、ちく、針がもう一度うごき出してきた。中くらいの子供が、成績があがるのとちがって賢くなった。ある日クラス自治会をつくることで教師、生徒議論になったことがあった。そして衝突した。生徒は自治会は自治的につくらねばならぬ、先生は入れぬ形にせねばならぬと言いはった。教師は、それはいかぬ、監督の責任上入れてもらわねばならぬと言いはった。生徒は、それは教師が各クラス自治会の常任議長になることだ、教師聯合が自治会を指導しようというのだという。教師は、自治会を圧迫する気は毛頭ない、しかし指導・監督の責任はどこまでも負わねばならぬという。とど教師側でおこってしまった。それは責任を負うことの拒香だ。責任を放棄するのがどこが民主主義だといわれて生徒側がへこんだ。教師側に圧迫する気がなかったことは事実だ。ただ判断は僕にできなかった。僕に気づいたのは、腹を立てたのが教師側だったこと、腹を立てなかったのが生徒側だった新しい事実だ。教師側は立腹して、生徒を言いまくり、やりつけた。この点になると教師側は一致していた。生徒側はばらばらだった。ただ彼らは、腹を立てずに、監督の責任が別の形で負えることを教師たちに説明した。特に非秀才型の生徒が、どうしたら教師側にうまくのみこませられるか手さぐりで話して行ったのが目立った。教師側が大声になるほど、彼らが、それはそうじゃない、先生が圧迫しょうとしているとは取っていない、そうじゃない、そうじゃなくてと、子供は頭をふりふり、全体として受け身で攻撃を受けとめていたのが目立った。敦師団が駄々っ子になって、教師・生徒がすっかり位置を顛倒してしまっていた。僕はヌエ的司会者として、もっぱら教師たちのために生徒側をなだめた。教師側をなだめたというのがいっそう正しいだろう。教師もはいれる折衷案が出来てけりはついた。 ただ僕はこんなことではじまった生徒の活動が、その後停滞してきたように見えるのが気になるのだ。停滞しているように僕に見える。生徒たちが、賢くなりかけたまま中途半端な形になってきたというのが僕の気のもめる観察だ。僕は圧迫ということも考えてみた。適度に圧迫することでかえって彼らが伸びるだろう。むろん僕は、あまりに教師・校長くさいのに気づいて苦笑したがやっと原因がわかってきた。とかく共産党がわるいのだ。先へ先へと指導せぬのがわるい

 興味深いことの一つは、敗戦後の少年たちの著しい成長が、ロゴスを巡って展開していることである。中野重治が母校福井中学を訪ねて講演したのは、文芸部の招きによるものであった。三戸先生が初めて赴任した都立高校でも、文化系のクラブが盛んで、文学書の読書会や文化人の講演会がよく開かれていた。中野重治が文中で「頭のわるくない質朴な生徒、それが戦争中頭がわるかった。それがよくなってきた。ちく、ちく、針がもう一度うごき出してきた。中くらいの子供が、成績があがるのとちがって賢くなった」と言っているのは、抑圧されていたロゴスが一気に解放されたことを表している。一日中を歩き回ってもはかばかしくない稼ぎのヤミ屋青年が、「文学講演会」の文字に吸い込まれるように会場に入る光景が街角に溢れていた。
  にもかかわらず、「メーデーは五十万人召集した。食糧メーデーは二十五万人召集した。憲法は、天皇、皇后、総理大臣、警察、学校、鳩まで動員してやっと十万人かき集めてl分で忘れた」と、中野重治は『五勺の酒』にしっかり書き込んでいる。我々は新憲法を歴史に関わるロゴスの問題とする感覚に余りにも乏しかった。

 最も興味を惹かれるのは、「生徒の活動が、その後停滞してきたように見えるのが気になる・・・生徒たちが、賢くなりかけたまま中途半端な形になってきたというのが僕の気のもめる観察だ」という指摘である。教育関係者たちが揃って、新制高校生たちの目覚ましい成長ぶりに圧倒されている最中に、「停滞」の兆しを見ている。さすがに作家にして国会議員である。
 校長を司会として、生徒自治を論じていることに根本的無理がある。それが「賢くなりかけたまま中途半端な形になってきた」ことの根っ子にあることも指摘している。そしてそれが21世紀をとうに超えたいまだに続いている。生徒会のトップは、名誉会長としてあいも変わらず校長なのである。
 指導という名目の介入が、折角賢くなりかけた少年たちを、永の停滞に凍結するであろうことを作家は見通していたのではないか。四谷二中の生徒が舌鋒鋭く、生徒会中央委員会から顧問を追放したことの意義を感じずにはおれない。 我々が目指すのは、権威主義的秩序の体系ではなく、溌剌とした民主主義の担い手である。そのやりきれなさが、『五勺の酒』の後半部分、党員から校長宛の手紙を未完成のままにしている。

 例えばここに教員の労組があれば、あるいは地域に農民組合があれば、自治の概念は前進し事態を切り開くことが出来たはずである。農民組合に地主は加盟出来ず、労働組合に資本家は参加できない。しかし、所有の問題を超えて「入れて」貰わねばならぬとするならば、工場評議会、経営評議会の段階へ進まねばならない。学校で言えば、学校評議会である。


 「フランスでは、中学校や高等学校の最高議決機関である管理評議会(法律によって、すべての中学・高校に設置が義務づけられている)には、生徒たちから正式に選ばれた代表が同数の教職員代表と共に参加します。管理評議会では、学校予算・取算、行事計画、校則、カリキュラム、教科書・教具選択の原則などを決定します。学校の教員は、生徒代表も加わった評議会の決定に従うわけです。さらに、日本の中央教育審議会に当たる教育高等評議会にも、高校生代表三名が加えられています」  樋渡直哉『子どもの権利条約とコルチャック先生』ほるぷ出版


高校生が市長選に繰り出し演説した頃

  1998年11月~1999年2月にかけて実施された 「戦後学制改革期における新制高校卒業生の意識調査」 がある。 調査は京都と静岡の1950年度公立高校卒業生を対象に行われた。当時の高校生自身の回想証言である。京都の例を幾つか抜き出した。
敗戦直後の雰囲気を伝えている。県立飯田高社会科学班。
  「生徒大会での白熱の討議、クラス誌・クラス新聞の発行、活発なクラス行事などを通じてピカピカの「民主主義」を身につけていったとおもう。クラブ活動も花盛りであった。今もってありがたく思うのは、その運営が生徒の自主性にまかせてもらえたという事である。・・・新聞部においても、企画・編集の段階からすべてを生徒の手で行えたし、およそ検閲に類する事は、いっさい受けた覚えはない。・・・おかげで三年間、思うさま青春の醍醐味を満喫することができ、出会うべき友と出会い、持つべき志を抱くことができた」      加藤豊

  「「ここには素晴らしい本がある」・・・と、何人かの先生たちが・・・冷えきった書庫の中で、長い時間、まるで真剣勝負のような厳しい表情で本と対峙しておられる姿に・・・深い感銘を受け、いつしか、私の人生の中にも、本が大きな位置を占めることになっていった。・・・図書部は完全なクラブ制で・・・毎日毎日遅くまで新しい分類法を学んで取り組んだ。この作業は、時を惜しんで夏休みも続けられた。・・・時には書庫の窓明かりで長時間読み耽っていた記憶が、すうっと体全体に甦ってくる」 川口則子 

  「・・・向かいの島津製作所には進駐軍が駐留し、夜になると、塀もなく、窓ガラスも破れ放題の教室に女を連れ込んで、狼藉を繰り返した。・・・市長選挙目前に、立候補予定の高山義三氏に面談・・・選挙戦になると、生徒会役員らを動員して選挙演説を繰り返した。・・・勝手連の走りである。予想通り彼は当選した。・・・アッという間に塀ができ、守衛が置かれ、学校の環境は一新された。・・・学校側にも明確な指導方針が打ち立てられない混乱期だからこそ、自由にクラブや生徒会活動を行うことができた」                 仙元隆一郎  
  まさしく新制高校発足の日々、この高校は京都市内。一学級は50人を超え、一学年10 学級以上、教室さえ足りず午前と午後に分けて二部授業、便所も足りず仮設のベニヤ作り、物質的には無いものだらけの新制高校であった。

 当時の高校生たちは、「高校の印象」を聞かれて、非常によかった 23.0%、 まあよかった 62.7%、 あまりよくなかった 13.4%、 非常に良くなかった 0.6%と回答している。
  続いて「高校が良くなかった」と答えた14%(13.4%+0.6%)に対して、複数回答でその理由を聞いているが、多い順に授業、設備、教師が挙げられている。教師に対する不満が非常に小さい。
 「先生に相談できたか」を「新制意識調査」で聞いている。非常によく出来た 7.2%、よくできた 39.9%、あまりできなかった 36.3%、全くできなかった 4.2%と約半数が肯定的に回答している。

 教師、高校生、共々充実した日常がよく分かる。ここで回想の中に登場している教師たちは、旧制の高等教育を経験している筈である。軍隊と特高による苛烈な弾圧は、反面教師でもあった。京都の新制高校一期生たちの、教師に対する不満が極めて少ないのは、そこに何も無かったからであり、自主性に任せる以外になかった。あらゆることが、造り上げる自由に満ちていたからである。  
ひとつの橋の建設がもしそこに働く人びとの意識を豊かにしないものならば、橋は建設されぬがよい、市民は従前どおり、泳ぐか渡し船に乗るかして、川を渡っていればよい。橋は空から降って湧くものであってはならない、社会の全景にデウス・エクス・マキーナ〔救いの神〕によって押しつけられるものであってはならない。そうではなくて、市民の筋肉と頭脳とから生まれるべきものだ。・・・市民は橋をわがものにせねばならない。このときはじめて、いっさいが可能となるのである」 
フランツ・ファノンが言ったことがここに示されている。
 敗戦直後の高校生たちは、「泳ぐか渡し船に乗るかして、川を渡」らねばならず、自らの「筋肉と頭脳」によって事態を打開する力を得たのである。それが「このときはじめて、いっさいが可能となる」と言うことである。高校生が主権者として現れる。正しい指導方針としての「デウス・エクス・マキーナ〔救いの神〕」を予め示さないことが、教師に対する生徒の信頼を形成したのである。

自由闊達な気風 1

 ・・・1950年代の初頭から、日本は再軍備への道を歩み始めていた。当時の言葉で言えば「逆コース」をたどりつつあった。その逆コースの途上には軍隊の再組織化が構想されていた。自衛隊の前身である警察予備隊なるものはすでに存在していたが、これでは金がかかりすぎ、愛国心も育たない、憲法を改正して徴兵制を復活させねばならない、こういった議論が公然と湧きあがってきた。そしてこのプログラムが実現する可能性がかなりあるように思われた。「徴兵されたらどうするのか。行くのか行かないのか」。こう心に問いかけていたのは、私ひとりではなかったはずだ。いま六十歳をこえる当時の若者たちの多くが、少なくとも一度はこの問いを抱いたであろうと私は考えている。 私の結論は決まっていた。徴兵制度が復活しても自分は拒否する、と。そういう心の決め方がどういうところから来ていたのか、その道筋は定かではない。ただ十七歳のとき、私はすでに反戦少年になっていた。小学生のときの疎開体験、その疎開先で見た敗北軍人の集団泥棒、戦後の新橋での闇市商売、新憲法施行の日を創立記念日とする新制中学の第一回生であること、こういったことが下地となっていて、そこから反戦少年が誕生するにはわずかなきっかけで十分だったのである。
 一つはっきりと思いあたるのは、私が入学した東京都立小山台高校の雰囲気である。共産党の細胞もあったようだが、それ以上に、各学期に生徒大会があり、これが刺激的だった。生徒が好きな議案を提出し、賛否の討論が行なわれ、多数決で採択されるのだが、そのテーマが身近なところから、たとえば校内での下駄はきを許可せよという要求から、再軍備の是非といった政治的テーマにいたるまで幅が広く、また上級生の中には弁の立つ人気役者が何人かいて、丸一日を費やす討論にもあきることがなかった。なにしろ、ルイセンコ学説の是非まで論じられていたのである。あれは、旧制中学の自由闊達な気風がまだ残っていたということなのか、それとも戦争直後の言論の百花斉放の精神が十代の若者たちにも乗り移っていたということなのか。いずれにせよこうした上級生たちの激しく知的な議論をとおして私は、反戦、反再軍備への意志を固めていったのだろう  海老坂 武 『倫理とアイデンティティ』
  ここ都立小山台高校では、「校内での下駄ばきの自由を巡る議論」と「再軍備の是非といった政治的テーマ」が同居している。前者は自由嫌い謂うところの自由のはき違えである。それと後者、政治的言論表現の自由が同一の場で議論される。それが青少年の闊達な気風を生んでいるのである。三戸先生が初めて高校生に接した都立大泉高校の雰囲気も闊達だが、更に学校を超えた文化的広がりを見せている。
 「文化部がすごく活発だったですね。社会部、文芸部、音楽部も相当水準が高かった。文化祭にかぎらず、音楽部主催でオペラなんかどんどんやるんだから。文化部主催で講演会をやるというと、檀一雄さんとか、松川事件に関連して広津和郎さんとか、かなり有名な作家や哲学者を生徒が呼んでくる。檀一雄さんは家が近かったし、親戚の子もきていたし、よくきてくれましたよ。読書会もやっていて、これは教師も自由に参加できるし、ぼくは若かったからあちこち呼ばれたけど、ゾラとかツルゲーネフとか、ヨーロッパの翻訳ものが多かったわ。ロマン主義のもあったけど、自然主義文学を当時の生徒はよくやりました。ゾラの『居酒屋』 とか 『ナナ』 とか、ああいう類いのものを。みんなすごく読んでくるから、こっちも読んでいさないと教師のほうがやられちゃうんだ。 文化祭の前は二、三日徹夜して展示をやる。ぼくが顧問をしていた社会部では、当時の生徒は政治意識も発達してきたから、安保条約の内容はけしからん、なぜ単独講和をしたんだと、それをどんどん発表するわけですね。 その背景には、教科内容が伴っていたわけ。当時社会科では一年で 「一般社会」というのがあって、全員が週五時間やるんです。憲法、民主主義の制度、資本主義と社会主義の問題、農村問題、労働問題・・・。 いまと違うのは、労働問題などにすごくページ数をさいているものだから、大学時代の知識だけではやれないんだ。相当勉強しないと全部はこなせない。いまの倫社部分はほとんどなかったですね。ほとんど政治・経済だった。それを五時間、全員がやる。 二年生になると世界史・日本史・地理に入っていく。とりわけ世界史が充実してきたかな。生徒も、近・現代史にいちばん興味をもちましたね。フランス革命ぐらいになるとみんな目がパーツと輝く。ロシア革命なんていうと必死になる。こっちがへたなことを言うと、生徒が食ってかかるんですよ。たとえば 「ここで平等と言っているのは機会均等なんだ、経済的にも何も全部平等ということじゃないんだ」というようなことを言うと、少し社会主義の勉強をしたような生徒がパッと立って「おかしいじゃないか、そんな平等があるか、平等というのは経済的にも平等じゃなきゃだめなんだ」と。それにたいして教員も反論する。だから、授業のなかで自然に教師と生徒の討論になるということもずいぶんありましたよ。 「君が代」・日の丸問題でも、「君が代」を歌うか歌わないかということが生徒のなかで論争になるわけね。 当時の都立高校・・・は、一般的にそういう雰囲気があったわけですよ。ぼくが大学のときに味わってきた自由な雰囲気と似たものが、都立高校にあった」            三戸孝  「ある都立高校教師の戦後教育四十年 1



  三戸先生が「フランス革命ぐらいになるとみんな目がパーツと輝く。ロシア革命なんていうと必死になる」場面があったと証言しているのは、単なる形容としての「輝く」や「必死」ではなく、文字通り「期待に満ちた」「必至」なのである。日本がどういう国になろうとしているのか、謂わば剥き出しの理想を片手に日本の現実に切り込もうとする眼差しである。 盗人に転じた旧軍人など、反面教師が日常に溢れていた。

ある都立高校教師の戦後教育四十年 5 受験体制と自主編成

                                                                                                       承前

                                          (紛争への姿勢と民主化)
 ただ、紛争が起こったか起こらないかということは、大学入試の成績なんかには関係なかったですよ。つまり、一部の生徒からワーツと起こってきて、それにどう対処しようかと教師も真剣になってとりくんだでしょう。その意味ではよかったんです。教師が初めて真剣になった。最初は〝あいつらは自民党に反対してるんだから、生徒の前ではおれも自民党は嫌いだと言ってりゃいいんだ〟と呑気なことを言っている教師が、みんなやられたわけですよ。〝おれたちはそんなことを言ってきるんじゃない、そういう無気力な教師が嫌なんだ″とか〝おまえは受験のことしか言わないじゃないか〟とか〝おまえは体育祭を、ただ子どもを連れて見ているだけじゃないか″とか、バーッとやってきた。
樋渡 教師にとってほ、戦後二十数年続いてきた教室における平和が初めて破られ、やっと現実に目覚めさせられたという側面もあったわけですね。
三戸 そう。生徒のことを考えない管理主義的な教師もやっつけられたし、面倒くさいから生徒にはいい面して、自由放任で過ごした教師もやられたし、みんなやっつけられたわけですよ。そのなかから、そのどっちでもいけないんだということを考える教師が育ってきた。そうしないとどうにもならないわけでしょう。
 なぜ紛争が起こったかということをとらえないで、とにかく押さえなきゃいけないというので管理主義的にパッと能率的に押さえた学校と、警官隊を呼んじゃった学校はなかなかうまくいかないですね。少々手間どったけれども、役所や親たちに、なんであの先生たちはモタモタやってるんだ、あんなことをやるやつは早く押さえりゃいいじゃないかと言われながらも、じっくり教師全体で討議して、その結論を出したうえで生徒とじっくり話し合って、そのうえで暴力などの問題についてはきちんと押さえよう、同時に、どう再建していくきということを生徒と一緒に考えようというふうに、民主的に職場を運営して解決していった学校は、いまはいいんじゃないですか。
 あとあと学校行事もよくなっているし、学校自体が活気をもってきているし、ほんとうの意味で民主化された、明るい、生徒にとっても楽しい学校になっているような気がします。あの紛争の押さえ方が、すごく学校を左右しましたね。
樋渡 ぱくは高校紛争の直前に浪人して、紛争真っ只中の大学に入りました。だから両方とも、気分はわかる。安保闘争のころまで続いた学校の雰囲気が、だんだん閉塞してくる。現実的な問題として、ヴェトナム戦争、日韓問題と政治的な重圧がジワジワッとやってくる。それから、人間が偏差値だけで評価されることに慣らされてはいるけど、他方でその分反発を感じる。能検テストが始まる。自分の生き方にあまり希望がもてない、社会をつくっていくといぅ感じがだんだんなくなってきて、せいぜい、いい成績をとっていいところに〝はまる″という、ただそれだけになりそうな不安が膨れあがる、・・・自分が自分になれないことの苛いら、それらを大人に投げかけていったんだと思うんです。〝なんで生きるのか〟〝こういうことについて先生はどう思うんだ、親はどう思うんだ″と、ぼくたちは教師だけでなく親もつるしあげた。そのとき、親も教師も答えてくれないというイライラもあった。〝とにかく成績がよくなければ大学に入れないじゃないか、いい大学に入れなければいいところに就職できないじゃないか〟というのが、すでに親のにあったし、社会もそっちのほうに曲りつつあったわけです。自治会活動も低迷してきていた、行きどころのない不安、あるいは少しずつ迫ってくる管理社会に敏感に反応して、たまらず自己防衛をしたという側面が、高校紛争のなかにはあったんじゃないかと思います。
 それから、ぼくが大学にいて高校紛争の始末のつけ方は総体的に暴力的だと感じた。これじゃ高校生はすぐ黙っちゃうだろうなぁと、当時からそういう気がしていました。思ったとおり、高校生はアッという問に静かになった。一連の大学管理法案以来、大学もだんだん静かになっていく。そういう嫌な雰囲気を、ぼくは高校から大学までずっと経験した。
                                                 
                                                (受験体制)
樋渡 紛争で、高校の服装の規制がゆるやかになって、制服はなくなる、学帽もなくなる、規制が大幅に取っ払われたんだけれども、小・中学校ではかえって規制を強めたところもあったんですね。
三戸 学園紛争のあと、カリキュラムまでおおかた生徒の意見でつくりあげた学校もある。どっちにしても、教師が生徒のことを考えながら、生徒の要求も聞きながら主体的に自主編成をした学校はいいけど、そこのところがいい加減でズッコケていたところは、より強く規制した場合も、まったく自由にした場合も、全部失敗しているんですね。自由にした場合は言いなりになっているわけで、教員の側に主体制がないんだから。規制したほうも、教員側に主体制があって規制したんじゃなくて、教育長や親や警察からワイワイ言われて規制しちゃった場合には、やはり教師の側に主体性がないわけだ。
 教師の側が教師集団としての民主的な討議と主体性をもっていなかった場合は、紛争はハシカみたいなもので、あ、終わった、というので、その前と後と比べる、と学校はなにもよくなっていない、生徒の無気力状態も全然変わっていない、そういう学校はずいぶんある。
樋渡 無気力は、三無主義が四無主義・五無主義になっちゃった。

(自主編成)
三戸 あれを機会に、教師がみんなで教育問題を考えるという形がつくられていったところは、うまくいっているんじゃないかなぁ。
樋渡 そうすると、五九年に提起された自主編成運動というのは、高校紛争を境に活発化したところもある。
三戸 自主編成運動というのは日教組でやったわけだけど、実際に効果をあげているところはそんなに多くないんです。現実の問題としてむずかしい問題がいろいろ出てきちゃう。どこまで指導要領などと関連させて自分たちがつくったものが生かされるのかという問題もあるし。よほど職場が民主化されていて、職員会議なり職場会なりで絶えず教育問題が議論されているような職場じゃないと、ほんとうの意味の自主編成はできなんですよ。そうじゃないと勝手編成になっちゃう。
 たとえば福岡県の伝習館高校の問題は、ぼくも執行委員のときに調査に行かされたけど、あれは権力にたいする闘争として立派だったと言う人もいるんですが、日教組もそういう評価はしていないわけですよ。あれは誤りだったとしている。ということは、あれはごく一部の教員の勝手編成なんですね。たとえは、地理の授業で毎日安保反対という調子の講義をした、真実を伝えようとしているんだからそれでいいじゃないか、なぜ干渉するんだというふうに、バラバラになっていっちゃうわけですね。地理の授業ではどういう授業がいちばんいいのか、それを少なくとも社会科なら社会科の教員のなかで討議してやっていかなきゃいけないわけでしょう。教科書だけでは子どもはよくならないと思ったら、教科書以外にどういう内容のことを教えたらいいか、地理の授業のなかで毎時間政府を叩く話をするのがいいのか、地理の授業で帝国主義反対を言うことが果たしていいのかどうか。そこのところで、本人がやりたいというのだったらいいじゃないか、言論の自由だ、干渉するなという勝手編成に走った学校もあるわけです。そういう意味では伝習館高校は、非常に大きな間違いを一部の先生がしちゃったんじゃないかと思うんです。

樋渡 1972年、僕は憧れの京都で教員採用試験を受けました。高校政経の合格者は三人、三人で集団討議をさせられた。テーマは杉本判決をどうとらえるか。大胆にしゃべったつもりですが、面接をした人がさらにすごかった。つまり、判決が出ただけではまったく不十分なんだ、杉本判決を現場で現実に生かしていくのは教師になった君たちなんだ、そこのところをしっかり自覚してほしいと、かえってハッパをかけられた。そのことをいま思い出した。
 京都では教育委員会も民主的であって、高校三原則が長い間続いた、。それと東京の教育の変遷を考えてみると、制度をつくり守ることがいかに重要か、日々の授業までまったく変えてしまう重大なことなんだなと思います。
 高校の教員になってから、高校生の集いなどにもときどき関与していて、それがだんだん小さくなって情けない思いをしていたんですが、京都では、憲法記念日に高校生たちが討論集会をやると何千人も集まる、しかもその前に地区あるいは学校ごとに討論会をやって積み上げていくという形が、つい最近まで保たれていたというのを聞来ました。もし戦後教育の理念が続いていれば、かなりいい教育がまだ残っていたんじゃないか。比べてみて唖然とするところがあります。

  もう一つ、七〇年以降の大きい問題として、共通一次が学校を変えるのに拍車をかけたんじゃないかと思うんですが。
                                               
                                              (大学輪切り)
三戸 一般に言われているように、中学生が高等学校を受験するときに偏差値で輪切りにされて受験するというのと同じ現象が、高等学校と大学の間にもできてしまったということが、いちばん問題でしょうね。
 共通一次をやるときには、あまり墳末な問題が出たのでは高校生もたいへんだから、ごく基礎的なことを勉強していればいいんだということで、共通一次というのを考えた。もう一つには、国立大学の格差をなくそうじゃないかというので、国立の二期校だったところから非常に強い要求が出て、一期・二期というのをやめて同時に試験を受けるようにしようというところから出てきたと思うんですが、結果的には、七百何十点ならどこの大学、八百何十点ならどこの大学の何学部へ入れる、医学部へ行くためには九百何十点とってこなきゃいけないということになったものだから、ほんとうは医学部へ行って医者になりたかった子が、七二〇点しかとれなかったから経済学部に入るというふうに、学部志望なんかそっちのけで、共通一次でとった点によって業者のデータを見て大学を決めるということが、共通一次が残したいちばん悪い点でしょうね。現実にそうなってきちゃっている。これが大問題ですね。
       
                                            (期待にこたえる)
三戸 生徒の心のなかには、いいことを学びたいんだというのは非常に強くありますね。・・・教員にたいする期待感、きょうは何を教えてくれるだろうというものは、すごくあるんじゃないか。
 ぼくも、この年になるとつい惰性でいっちゃうからいけないんだけど、教員になりたてのころは、きょうは何を教えてやろうかという願望はすごくあったし、教員にはそれがなきゃいけないわけでしょう。自分はこういう勉強をした、これはどうしても生徒に教えてやらなきゃいけないというのでつい夢中になって、翌日一時間まるまるそのことだけを話すということがあってもいいわけ。そういう教師の情熱があるから、授業にも迫力が出てくる。生徒は必ずそれに吸いつけられていくんですね。教師がその基本を忘れたらたいへんなんじゃないか。だから、たえず教師は勉強すること、勉強したらそれを生徒に伝えてやりたいという情熱をもつということが、すごく大事じゃないか。それがわれわれにいま欠けているんじゃないですか。〝そんな事言ったって、生徒はどうせ大学へ行きたいんだから、受験に合わせなきゃ闇いちゃくれない〟というふうに簡単に諦めちゃう傾向がありますね。それは間違いだ。
 これだけ受験がたいへんで、生徒が大学へ、自分の進路に適う大学へ行きたいとすれば、それを助けてやるのはあたりまえのことだけど、基本的に自分の教科について、豊かな内容で、生徒がクッと食いついてくるものをつくっておかないといけないんじゃないか。それがなくて、これは大学の試験に出るから勉強しなさいと言ったって、しないと思う。
それがしっかりしていれば、学校は当てにならんからと塾や予備校に逃げて行くということはないんじゃないか。その情熱がなくて、内容もなくて、ただ表面だけ受験に合わせたような授業をやっている場合は、よけい予備校や塾に生徒が流れていくと思いますね。一見、直接受験に関係ないようで、非常にいい内容の授業をやってきる先生を、ぼくもよく見ます、それは生徒は一生懸命聞いていて、その教科がおもしろくなって、受験については授業だけじゃ足りないから、自分はその教科がおもしろくなったから、あとは自分でこの参考書を使ってやろうという生徒がたくさんいるわけです。そこがすごく大事なんじゃないかな。
樋渡 高校紛争で教師が目覚め緊張したものの、60年代以来自主編成運動でつくりあげてきたものが、受験競争の激化のなかで崩れ去ろうとしている状況は、ないと言えないわけですね。
 去年国民教育研究所がやった「中・高校生の学習と生活、進路選択に関する基本調査」を見ると、「学校生活の充実のためにもっと力を入れたいこと」という質問にたいして 「友だちとの付き合い」が高校生で四八%、「授業や勉強」 が三二%です。そのほか「とくにない」が九・九%、「学校行事」が二一・八%ですから、学校生活は授業で充実させたいと考えてはいます。
三戸 状況はどうあれ、授業で勝負をすることで高校生は学校生活に希望をもっていく、そういう基礎が高校生にある。

                                              (理性と自由と)
 制度改革というのはすごく大事だけど、これは、絶えず理性的に教育内容を追求して、生徒にたいして情熱をもってぶつかっていく教師がたくさんいて、しかもその人たちが職場で自由に疑問を出し、お互いに討議していける民主的な戦場づくりをやっていかないとでしないですね。
 最近残念なことに、自分の権利はやたら主張するけど生徒の権利は簡単に奪っちゃう教師が、目に見えてふえてきているでしょう。これこそ教育臨調でものすごく攻撃される、われわれのほうの弱点ですね。
 日教組を一方的に悪く言う傾向が最近地域にもずいぶんあるけど、われわれのほうも言われるだけの弱点をもっているんだよ。
そういう人は、これだけ押えられているんだから余計なことはしたくない、学校からも早く帰っちゃおう、世の中を変えなきゃしょうがないんだから、と言う。その類いの人間がふえていったら、世の中は変わるどころか、ますます悪くなっていくだろう。ここのところを教師がきちんと押えていかないといけないんじゃないかという感じがしますね。
 それから、これだけ厳しい情勢になっていると息抜きが必要でしょう。教員が窒息しないように、ときには一緒に酒飲んでうさを晴らすとか、みんなの気分がゆったりするようなことを職場のなかで考えていく人がいないといけないんじゃないかな。みんなが深刻になっちゃうと病人が出るばかりだよ。
樋渡 そうです。発狂します。死人も出るでしょうね。
三戸 そのへんも考えなきゃいけない。教師に明るさがなくなったら、生徒は救われないよ。自殺するんじゃないかというような顔をして教室へ入ってこられたんじゃ、生徒はたまったものじゃない。
樋渡 教師に政治的・市民的自由なくしてなんの生徒の市民的自由だということにもなってくる。勤評以来生徒の自治活動の停滞に拍車がかかったという話が出ました、自分たちの市民的自由を守ることと生徒の教育条件を守るのは、一体のことです。
 お話で気がついたんですが、東京で、高校三原則が完全な形で実施されたことは一度もない、それどころかどんどん歪められてきた。しかも学校規模は一挙に巨大化している。必要なのは、高校三原則という戦後教育の原点へ戻ることです。 
 米軍基地のアメリカン・スクールでは日本政府の費用で、以前はクラス定員三〇名だったのを二五名に減らしている。ところが都立高校では四八名へ増やしている。教師の笑顔が消えるわけです。少人数であれば解決できる問題は多い。 (1985・5・19) 
 
追記
 生徒たちの自治が活発な時期、教師は生徒を放任して自治指導を放棄していたのではないかと三戸先生が発言している。重要な指摘だと思う。だが、当時の教師たちの多くは、戦前戦中の教育を受けている。彼らにとって自治指導は簡単ではないし、実態としては、指導が介入となっている。60年安保の時、生徒たちがデモに参加しようとするのを、署名活動に止めようと考えたりしている。放任は放って任せると書く。何を任せたのか、問うべきだと思う。
 生徒自治会連合に職員会議が圧力を掛け、解体を促したのが「放任」と「指導」の内容ではないか。正しく放任しきっているとはとても言えたものではない。当時教師たちは、マル民という符号で活動的生徒を嫌悪していた。僕は生徒としてその言葉を方々で聞いた。僕が教師となった1970年代初めも、その言葉は職員会議で飛び交っていた。言葉の主は敗戦直後の混乱に乗じて教員になった人たちで、その言葉を強く戒めるのも同じ世代の教師であった。                                  

ある都立高校教師の戦後教育四十年 4 紛争と学校群

                                承前

                                      (おこるペくしておこった ″紛争″)
 それをなんとかしなきゃいけないと思って一部の教師は熱心にいろいろテコ入れしたし、それに応じてくる生徒も一部分いたんだけど、結局は学校側も受験のほうに流れちゃって、生活指導の面でほんとうにとりくんでいく教師は非常に少なかったから、これがやがて紛争のときに爆発してくるんですよ。高校生の場合は、政治問題については大学生から焚きつけられたということはあっても、彼ら自身のなかで何かモヤモヤしたものがある、大学生の兄ちゃんたちが騒いでいる、じゃおれたちもやれ、体制的なものは全部反対すればいいんだという傾向も出てきて、六九年ごろから騒ぎになったんですね。三学区のある高等学校では、六九年の三月に卒業式が紛砕された。
 だから、むしろ七〇年の前年ですね。東大闘争の年にあちこちの高等学校で紛争が起こった。自治会活動が非常に不活発になったということも紛争が広がっていく大きな原因になった、これは押さえておかなきゃいけないんじゃないかと思いますね。
樋渡 そう。生徒の要求実現の場である生徒自治会が崩壊した時期に、高度成長や能力主義や偏差値、いろいろな問題が高校生のうえにふりかかってきて、まさしく起こるべくして高校紛争が起こった。ある意味では正常な拒否反応とも言えるかもしれない。高校生のところへ直接やってきた最初の管理的な傾向だったわけですから。
 戻りますが、勤評闘争以降、学校の分掌がだんだん細かくなってくると思うんですけど、それまで、たとえば生徒会指導というのは分掌としてやっていたんですか。

                                              (分掌の細分化)
三戸 戦後初期の段階は、ぼくが教員になってしばらくの間もそうだけど、分掌というのはそんなに分かれてなかった。分掌をたくさん分けるというのは、役所の側のひとつの管理なんです。ぼくの記憶では、教員の属する部は教務部と生活指導部の二つしかなかったです。進路指導なんてなかった。図書は確か、教務部のなかに入っていた。清掃などは生活指導部のなかで扱う。教務はいま教務がやっている仕事、時間割とか卒業式をどうやるかとか、そういうものが主ですね。生活指導は、体育祭とか文化祭などの学校行事、日ごろの生徒の自治活動の指導、夏休みの校外合宿、そういうことをやっていました。みんなが教務か生活指導かいずれかに入るというわけでもない。教務が七、八人、生活指導が七、八人でやっていたのかな。あとは部なんか属していないわけですよ。
樋渡 暇な先生がおおぜいいたということ? 
三戸 そうそう。担任をやるのも、何もやっていないのもいるという状況。六〇年代、管理体制が強まってくると、いろいろな専門の部を設けないと学校が能率的に運営できないということになってきたわけですよ。アメリカ式能率主義の管理方式だと言われていて、組合も、それは警戒しろ、たくさん部をつくったりするなという指示を出したんです。だけどどんどんつくられていっちゃって、気がついたときには六つも七つも存在していた。そして、教務部長をやると次は教頭、校長というコースが出てきた。
 戦後しばらくの間、校長にもかなり貫禄のある人が多かった。それは、教頭に相当する人を職場で選んでいたことが大きい。民主化の度合いによって多少違いますけど、だれにしたらいいかと校長がいろいろ聞くところもあったし、選挙で決めたところもあったし。その教頭があとで校長試験を受けるわけでしょう。だから、校長試験がいい加減なものであってもそんなにひどい人は校長に出てこない。へんな言い方だけど、そのこ、ろほだれがなっても床の間に置物にはなったんですよ。
樋渡 たとえば生徒部に属して生徒会指導をやる人は、ほとんど自分たちで発想して、やりたいようにやっていたわけですね。いまみたいにマニュアルができていて、一覧表を見れば四月から三月までやる仕事が全部書いてあるという状況じゃなく。
三戸 そうじゃなかった。二、三人の教師が対応してやっていましたね。大きな問題になると、その二、三人の教師が職員会議に提案してくる。場合によっては、生徒会長が直接校長室へ行って談判するということもずいぶんありましたよ。学校の売店のパンが高い、値段のわりには中のアンコやジャムが少ない、どういうわけだ、ピソハネしているんじゃないかとか、そういうことを言ってきたりする。校長もなかなか大もので、じゃ、練馬中のパンをみんな買ってこいと用務員さんに買ってこさせて、その日だけ、いつもとっているパン屋に中身を多くさせておいて、生徒の前で「どうだ」とやる。(笑い)

                                               
                                          (学校群制度で荒れる)
樋渡 六八年から学校群制度が始まったわけですが、何がどう変化しましたか。
三戸 ひとつには学校差をなくすという目的で群制度をつくったんだけど、群制度になってから余計ひどくなった。群にょる輪切りというやつで。群以前はまだ、あの高等学校はクラブが盛んだとか、ブラスバンドが盛んだとか、近いとか、そういぅことを狙って行く子どもがかなりいたでしょぅ。群制度になったらどこへ飛ばされるかわからないし、成績によって何群に行けということになっちゃったから、輪切りはいっそう・・・。
樋渡 選択の基準が点数だけになった、超薄切り体制になってきたということですね。
三戸 そうそう。一つの群に合格した生徒が順番で回ってくるわけだから、クジみたいなものでしょう。いままでよりは学力のある生徒が来るようになった学校もあるわけ。大学入試の成績もそれなりに上がったし、そういう学校はちょっと喜んだわけね。
 しかし生徒にしてみれば、群のなかでどこへ回されるかわからない。自分の行きたいと思っていた高等学校に行けなくて、行きたいないところへ回された子どもが、多いんですよ。最初から学校そのものを信頼していないわけだから。入るときも中学の教師から「「おまえの点数ならこの群しかない。この群を受けろ」と言われてくるわけだ。しかもその群のなかでも行きたくない学校へ行かされるということだと、最初からおもしろくないわけ。合格発表のとしに、たとえばわれわれの群だと大泉は「大」、石神井は「石」井草は「井」と、合格者の下に書いてあるわけね。そこへ行きなさいということでしょう。自分が行きたかった学校じゃない場合は、受付で合格証をもらったとたんに「チェッ、くそっ」とやる。そうするとわれわれもアタマへきて、「文句があるなら来るな」(笑い)。そういぅ意味では、三分の一ぐらいの生徒は最初さら教師との人間関係がうまくいかないわけですよ。
樋渡 そういえば、学校群制度最初の生徒が学園紛争を起こした生徒たちでしょ。
三戸 うん、そうね。学校群第一号が三年生のときに紛争を起こしたわけ。
 石神井高校では、大泉高校がいちばん大学に多く入る学校だから大泉に行きたかった、それなのに石神井に回されたという生徒が、ずいぶん紛争に参加した。最初からおもしろくねぇと思っているわけだから。
                                   つづく

ある都立高校教師の戦後教育四十年 3 勤評と能力主義

                                   承前

                                              (六〇年安保)
 六〇年、新安保条約を締結するときに例の国会闘争が起こって、岸内閣が倒れて池田内閣になった。あの安保闘争は非常に高まりましたから、生徒もすごく関心をもったんです。都高教は勤評闘争でスト指令は出したけど、ストはとてもできないだろぅというので執行部がスト中止指令を出した。都教組はやったけど。スト指令を引っ込めたのがよかったかどうかは別問題として、それを契機に都高校の組合運動はすごく停滞したんです。いままでやったことのない一日ストを四月二三日にやるんだというので、徹夜して職場会を開いた学校もあって、ぼくの学校でも徹夜して、校長と大喧嘩しながら職場会をやったわけ。やっと全員参加することになったところへスト中止指令がおりたでしょう。組合執行部は信頼できないと、執行部が不信任になったり、大騒ぎになった。都教組もたいへんだったんですよ。四・二三で突っ込んじゃって大弾圧をくらって、次つぎに逮補される、組合を脱退する人がふえたりして、組合運動が停滞したんですね。それが、六〇年安保で共闘組織ができあがってワーツと盛りあがってきた。放課後、みんなデモに行く。フランス・デモなんかやるとほんとうに闘っている感じがして、教師もよみがえってきた。
 生徒のなかにも、われわれも国会に行こぅというのが出てきた。職員会議で討議して、高校生が行ったら危険だから、国会へみんなで行くのほやめさせよう、署名運動ぐらいにさせようということになったんだけど、なかなか言うことをきかない。教師は、大事なことは安保についてみんなで勉強することだ、その是非について討論してみろ、と言う。それをやるわけね。ホームルーム討議が連日続くわけですよ。六〇年安保のときにはそれができたというのは、だいたいこの時期までは高校性の自治活動がかなり健全な形で続いていた、高等学校自体が活気があったということですね。そういうことが、この時期までは言えるんじゃないかと思います。

樋渡 私は六四年に高校に入りましたが、H・Rに担任を入れなかった経験があります。まわりの同年代の教師にもそんな人が多いようです。原水禁、ベトナム戦争、日韓条約、能研テストなどを、社研が訴えて議論し、高校の旗を立ててデモに参加、試験のボイコットをしていました。ホームルームは?
三戸 ホームルームは、あのころは水曜日の六時間目にあったんです。そのあと職員会議。生徒のほうで判断して、かなりやっていましたね。安保の問題が起こったときは臨時に毎日やるとか。そうでなくても何か議題を提供する生徒が何人かいて、それが、きょうはこういうことをやると担任のところに言いにきて、教師が行く場合もあるし、先生はこないはうがいいと言う場合もあるし。
 教師としてほ、そこに反省すべき点があるんですね。いまと違って生徒にかなり主体性があったものだから、放ったらかしにしておいた。それがだんだん崩れてくる徴侯があったわけでしょう。政策的には逆コースがどんどん進んでくるし、受験体制も徐々に強まりつつあった時期だから。
 そういう過渡期にホームルームをいい方向に発展させ、生徒会を民主的に発展させていくためには、そこで教師が何か手を打たなければならない時期だったと思うんです。なかには立派にやった人もいるんだけど、状況が比較的よかったものだから、教師集団としてはそれほど情勢の変化を自覚していなかったんでしょう、〝なんとかやってるワ″ということで終わらせちゃったきらいはある。生徒は、何か議題をみつけてはやっていましたよ。

                                              (自治の低迷)
樋渡 どんな議題だったですか。
三戸 それがだんだん幼稚になっていくんだ、そのころから。どうして掃除しねぇんだよ、というような。
 その前は、掃除の問題についてホームルームでやるということは、あまりなかったね。たとえば、二七年にはメーデー事件が起きて、宮城前で大騒ぎになった。教師もずいぶん参加していましたから、学校へ帰って、ホームルームなどでその話をするわけですよ。そうすると生徒のなかから討論が起こるわけ。「どうしてアメリカのMPはあんなひどいことをやったんだ」とか「使っちゃいけないことになっているのに宮城前に突っ込んだやつが悪い」とか。
 ところが六〇年ごろから、学校の中の小さなできごと、というと語弊があるけど、当時としてほコップのなかの嵐みたいなことがホームルームの話題になっていった。それでもやったんだから、いまから見れば立派なものだけど。
 あの時期、みんながホームルーム討議をきちんとやって、ホームルームを充実させることが大事だったんじゃないかという気がする。一部熱心な先生はいたけど、教員側が後手後手に回っていたというきらいはありますね。
樋渡 高校生のホームルーム討議の内容がそういうふうに幼稚になったのは、なんででしょう。
三戸 小・中学校からずっと教科書も変わってきたし、世間の風潮が変わったから親の教育観も変わってきたし、社会の問題にあまり目を向けないような方向の教育がどんどん進んでいたし、〝余計なことを考えないで勉強して、現役で大学へ入りなさい〟という雰囲気が、大人の問にどんどんつくられてきていた、それも大きいと思いますね。それから、安保が通っちゃうと安保体制ができあがって、そろそろ高度成長の段階に入っていくでしょう。教員自身にもずいぶん変化が出てきたと思いますよ、あのころ。

樋渡 ぼくが高校生になったのは六〇年安保が終わって四年目、安保闘争をきっかけにつくられた高校生徒会の横の組織がまだ残っていましたし、能検テストでは、生徒会の呼びかけで一斉にホームルーム討論が行なわれて、中庭でボイコット集会をしたり、担任がどうしてもホームルームへ出ようとすると、出入口のところで学級委員と担任がもみ合って教師を追い帰すという場面がしょっちゅうありました。それでも、教師から圧力をかけられて生徒会の横のつながりから抜けていく学校が多かったように思います。ぼくは、一気に民主的組織がなくなっていく不安を感ました。
 世の中では逆コースが始まっても、学校のなかでは自由と民主主義の精神が比較的貫かれていた。でも、五七年の勤評闘争から少しずつ学校の中の体制も変わって来たんじゃないかと。

                                            (勤評と能力主義)
三戸 そうですね。勤評問題というのは日教組の戦後いちばん大きな闘いだったでしょう。あのときは、地域の親たちと手を握って教育闘争をやっていくという成果も、あちこちで出ましたね。郡高教だってストライキはしなかったにしても、四月二三日に一斉休暇闘争をやろうということを夜通し職場会で討議する、そのぐらいの高まりが当時はあったわけです。だけど、結局勤評は通っちゃう。
 組合としてほ、それを骨抜きにする努力をずいぶんしたわけですよ。たとえは勤評昇給を事実上骨抜きにして、いまやっているような特別昇給という方向へもっていったりはしたけれども、全体として勤評が通ったあと、学校のなかの管理体制はどんどん強化されていきますね。校長にたいする管理職手当七%とか。一方政府は財界と一緒になって、能力主義・多様化路線をどんどん進めてくる。そして、教育現場に偏差値というやつが霹骨にもち込まれてくるわけです。高等学校のなかでも、とれぐらいの点をとっていれば○○大学に入れるというデータをどんどん整えていく。整えること自体悪くはないけれども、生徒がそれにふり回され、教員もそれにふり回される。よその学校に負けないように、夏休みに二〇日ぐらい補習をやっていい大学へ入れようとか。
 それから、六〇年前後に能力別学級編成が行なわれて、とくに英語・数学については、できる子・中ぐらいの子・できない子と三段階ぐらいに分けてクラスをつくったんです。これは結果的によくなかったものだから、自然につぶれていく学校が多かったけど、能力別学級編成をやるという動きがかなりあったんです。
 そういう受験体制のなかでも生徒自身の自治活動が、一部ではかなり続いていたところもあるけど、一般的に停滞してきましたね。教師のなかにはそれを心配して、なんとか生徒会活動をもう一べん活発にしよう、ホームルームも自主的にやれるようにしようと努力した人もいるんだけど、それはよほど教師に熱意があって、しかも指導力をもっていないとできないんですね。勉強にたいする主体的などりくみもどんどん失せてきて、受験に役立つと言われたことだけをやるようになるし、大学の志望についても現在に近い状況がそろそろ出てきたわけ。自分が希望する大学というよりも、何点とればどこに入れるという形が。
 体育祭などにも危機的状況が出てきたな。体育祭のとき、女の子がダンスをやるでしょう。七、八人の輪に分かれてやるんだけど、あちこち歯抜けになって四、五人ぐらいしかいないんだ。「どうしたんだ?」「駿台予備校に行ってます」(笑い)
 本人たちがやろうという意欲をもっていないから全然揃ってもいないし、見ていてもきれいじゃない。おもしろくないわけよ。文化祭のときは出席をとったら帰っちゃう。文化部自体が不活発になってきたから、文化祭の展示なんて字を書くだけで、見る人もあまりなくなる、そういう傾向が出てきていたわけ。
                                  つづく

ある都立高校教師の戦後教育四十年 2 逆コースと抵抗

                                 承前
 ところが、政治のほうはもう逆コースに入っているわけですよ。二七年にはメーデー事件が起きてすごい弾圧がきているし、二八年には池田・ロバートソソ会談が行なわれて、愛国心を植えつけなきゃいかんと小うことを言い出している。一九五四年(昭和4二九年) には旭丘中学事件が起こっていますね。旭丘中学の教師が教育方針として掲げたことは、よく見ると立派なことばかりなんです。平和と民主主義の問題がずっと貫かれている。それにたいして、旭丘中学の先生がソ連を賛美したとか 『アカハタ』を材料にしたとか、いろいろ細かいことを突っついてほ弾圧を加えてきたわけです。
 五六年には教育委員の任命制が施行されるし、教科書調査官が設置されて教科書の検定が強化される。五七、五八年(昭和三二、三三年) ごろが勤評闘争で、ぼくはそのころ、二八歳で都高教の執行委員になって、職場を出て組合活動をやったわけだけど。
一連の逆コースのなかでも、まだ高等学校の内部は崩れていなかったですね。教員はもう動揺していました。というのは、年配の教員は戦前の教育をずっとやってきて、天皇陛下のために立派に死ねる人間になりなさいと教えてきたわけでしょう。それが急転直下戦争に負けて、GHQが出てきて、マッカーサーの指令で、民主主義と平和の教育をしなければいけない、日本史の教科書は使ってはいけないとなってきた。そういうなかで、親分が替わったんだ、今度はアメリカに逆らっちゃいけないんだ、というふうな人たちも少なくなかったから。校長も教育長もアメリカにたいして恐れをなしているわけですから。

                                            (逆コースと抵抗)
 政治が逆コースになれば当然役所にも校長にもその指示が流れてきますから、生徒の運動が社会主義的な方向に走った場合は早目に抑えなければいけないとか、もうそろそろ「君が代」を歌わせ、日の丸を揚げさせたほうが教育長や文部省の覚えがいいという動きが、校長や、それにおべっかを使う教員の間からは当然出てきた。だから当然圧力はかかってきた。
 だけど、ばくらみたいに戦後教員になった連中は、二度と昔のような軍国主義にしちゃいけない、言論の自由は守らなければいけないということは痛切に感じているし、大学でも徹底的に叩き込まれているから、そういう若手の教師が抵抗するわけです。だから職員会議が猛烈長引くわけ。毎週のように夜一〇時ぐらいまで、教育の根本的な問題を論争する。たとえば体育祭のときに日の丸を揚げるか、「君が代」を歌わせるかで大論争になって、社会科の教師なんか興奮しちゃって、「そんなにわからないなら、フランス革命の精神を教えてやる」なんて絶叫するのも出てくる(笑い)。
 夜一〇時ぐらいまで論争したあと飲んで、どこかへ泊まって、翌日そこから学校へ行くということもしょっちゅうあったわけです。その論争が楽しくてしょうがないという教師もいた。
 生徒のほうも、そういう圧力がかかってきたときに結構しっかりしているんですよ。たとえば、アメリカの占領軍が日本人を車ではね飛ばして、救おうとしない、その写真を社会部の生徒が貼るでしょう。そうすると、「その写真はちょっと偏っている、はずせ」とやられる。教師は間に入って、貼らせてやりたいけど校長は絶対にはがせと言うし、PTAの役員からもうるさいことを言ってきている、どうしようかと動揺するんですね。生徒は、わかりましたと言ってその写真を裏返しにて、裏に校長から貼るなと言われました」と書いて貼っておくわけ。お客さんはみんな、どうして押さえられたんだろうと、おもしろがって全部見ていく(笑い)。効果満点なわけです。そういう気のきいた生徒が多かったですね。自覚していたんでしょう。
 「君が代」についても、職員の半分ぐらいは反対しているんだけど、わずか一票か二票差で、体育祭で「君が代」を歌おうという結論が出たんです。こういう点ではいまよりもかえってやられちゃう場合があるのね。いまは昔と比べると反動化しているとはいえ、行事で 「君が代」を歌うかどうか、どこの学校でもそう簡単には職員会議で決まらないでしょう。ところが当時は、さっき言ったように半分ぐらいの先生は平和とか民主主義についてはんとうの自覚はなくて、〝戦争が終わって、気がついたら主が変わっていた″というのだから、校長が歌わせろと言えば、あ、そうですか、となっちゃう。半分ぐらいの教員がそれに抵抗したんだけど、一票差ぐらいで「君が代」を歌うことになっちゃった。
 ところが生徒は毎夜六時ぐらいまで生徒総会をやって、賛成派・反対派、次つぎと壇に立って討論する。こちらも途中で校長が中に入ったりして、わずかの差で歌うことが決まるわけ。いざ体育祭で音楽の先生がオルガンで「君が代」の伴奏を始めると、三分の二ぐらいの生徒が黙って立ってきるんです。沈黙して抵抗している。歌わないんですよ。校長も唖然として、翌年から歌わせないというふうになっていく。この時代には、生徒のなかにそういう自主性・主体性がかなり生きてましたね。その動きが、六〇年安保までは続いたんじゃないかと思ぅんです。学校によって相当違いがあるかもしれないけど。
                                    つづく

ある都立高校教師の戦後教育四十年 1

  この回顧のもとになったのは、全国民主主義教育研究会機関誌『未来をひらく教育』誌上で1985年におこなった座談会「戦後教育の四十年」。
 今、30年余りが過ぎ「戦後教育七十年余」が企画されねばならない時期を迎えている。  異なる世代の都立高校教師四人で議論したが、ここでは石神井高校の三戸先生の発言を抽出して紹介する。          話し手 三戸孝 / 聞き手 樋渡直哉


                                      (教師も生徒も目的をもっていた)
 ぼくは将校になるつもりで、終戦の年に陸軍士官学校へ入ったんです。八月に戦争が終わって、一〇月に、士官学校や兵学校へ行っていた連中は大学の編入試験を受けてもいいという通達が出た。戦争犯罪人になりかけていた連中にとっては、すごくありがたい通達だった。一〇月に大学に入って、卒業したのが朝鮮戦争の翌年の昭和二六年です。旧制大学というのは予科三年・学部三年の六年間で、予科の三年間は旧制高等学校と同じような生活なんです。語学と哲学と文学だけやっていればいい。あとは何もやらないで、高下駄をはいてマントを着て歌をうたってりやいい。食うものはほとんどない。だから空腹なんだけど、ものすごい自由があるし、希望があった。大学教授と学生が対立して争うなんていうことはおよそ考えられなかった。教授もみんな、平和になったんだ、これからは民主主義なんだ、昔みたいに軍隊に威張られることはないんだ、どんな勉強をしてもいいんだ、何を言ってもいいんだ、右から左まで何をやったってかまわないんだという雰囲気のなかで、毎日が希望に満ちていた。ほんとぅに自由を満喫した時代が、この六年間だった。

                              (平和と民主主義を言わないと教師になれなかった)
 二六年にぼくは都立高校の教員になったんだけど、採用試験がいまと全然達う。八潮高校で面接があった、指導主事がたった一人で面接するわけです。「どういう本をお読みになりましたか」と、作家・哲学者の名前をズラッと並べる。「カントは読みましたか」と、向こうが切り出してくる。あのころは、そういう本はだいたい読んでいた。そのあと、「なんで教師になろうと思ったんですか」という質問があった。「二度と戦争は起こしたくないから、平和ということを若い人たちに教えたいんだ」と、これが当時、優等生の答なんです。平和と民主主義ということを言わなかったら教員にしてもらえない。作文が「革新と伝統」だったかな、原稿用紙に二枚ぐらい書く。そこでも平和とか民主主義といぅことが貫かれないとダメなわけ。とくにぼくは士官学校に行っていたから、まだ軍国主義が抜けてないんじゃないかと、指導主事はちょっと警戒したらしい。
 そういう状況のなか、ぼくは教員になった。その年、講和条約(安保条約)が結ばれたわけです。生徒はすごく活気があったね。生徒会長の選挙には四人も五人も立候補して、各部屋を演説して回るわけですよ。職烈な争いになる。演説の内容もなかなか高級で、教員になったばかりのぼくなんかよりはるかに気がきいているし、字もうまいし、優秀な生徒がたくさんいた。そういう生徒会活動をやったやつが、国立大学一期校などにどんどん入って行った。クラブ活動も、運動部も文化部も非常に活発だった。

                                      (松川事件もゾラも、安保も、授業も)
 この時期は文化部がすごく活発だったですね。社会部、文芸部、音楽部も相当水準が高かった。文化祭にかぎらず、音楽部主催でオペラなんかどんどんやるんだから。文化部主催で講演会をやるというと、檀一雄さんとか、松川事件に関連して広津和郎さんとか、かなり有名な作家や哲学者を生徒が呼んでくる。檀一雄さんは家が近かったし、親戚の子もきていたし、よくきてくれましたよ。読書会もやっていて、これは教師も自由に参加できるし、ぼくは若かったからあちこち呼ばれたけど、ゾラとかツルゲーネフとか、ヨーロッパの翻訳ものが多かったわ。ロマン主義のもあったけど、自然主義文学を当時の生徒はよくやりました。ゾラの『居酒屋』 とか 『ナナ』 とか、ああいう類いのものを。みんなすごく読んでくるから、こっちも読んでいさないと教師のほうがやられちゃうんだ。
 文化祭の前は二、三日徹夜して展示をやる。ぼくが顧問をしていた社会部では、当時の生徒は政治意識も発達してきたから、安保条約の内容はけしからん、なぜ単独講和をしたんだと、それをどんどん発表するわけですね。
 その背景には、教科内容が伴っていたわけ。当時社会科では一年で 「一般社会」というのがあって、全員が週五時間やるんです。憲法、民主主義の制度、資本主義と社会主義の問題、農村問題、労働問題……。
いまと違うのは、労働問題などにすごくページ数をさいているものだから、大学時代の知識だけではやれないんだ。相当勉強しないと全部こなせない。いまの倫社部分はほとんどなかったですね。ほとんど政治・経済だった。それを五時間、全員がやる。
 二年生になると世界史・日本史・地理に入っていく。とりわけ世界史が充実してきたかな。生徒も、近・現代史にいちばん興味をもちましたね。フランス革命ぐらいになるとみんな目がパーツと輝く。ロシア革命なんていうと必死になる。こっちがへたなことを言うと、生徒が食ってかかるんですよ。たとえば 「ここで平等と言っているのは機会均等なんだ、経済的にも何も全部平等ということじゃないんだ」というようなことを言うと、少し社会主義の勉強をしたような生徒がパッと立って「おかしいじゃないか、そんな平等があるか、平等というのは経済的にも平等じゃなきゃだめなんだ」と。それにたいして教員も反論する。
だから、授業のなかで自然に教師と生徒の討論になるということもずいぶんありましたよ。
「君が代」・日の丸問題でも、「君が代」を歌うか歌わないかということが生徒のなかで論争になるわけね。
 ぼくは大泉高校で教えていたんですが、当時の都立高校には、一般的にそういう雰囲気があった。ぼくが大学のときに味わってきた自由な雰囲気と似たものが、都立高校にあった。しかも都立高校の水準もかなり高かった。
                                                                                                    つづく


王様に貰ったミカン

 深酒して 終電車に乗り遅れ、交番で補導された事がある。身分証明を見せると、巡査は慌てて「失礼しました」と敬礼した。修学旅行引率では、宿の仲居さんから面と向かって「先生はどこ」と聞かれた。「僕です」と答えると、仲居さんは 一瞬呆然の後 生徒と一緒に大笑いした。引率されたのが二十を...