「・・・授業の面でも面白いことがあった。英語の教師が足らず、社会科の若い教師が英作、英文法を教えることになり、「はっきり言っとくが、俺は専門家じゃないから、なにを教えるかわからない。お前たちが責任をもって監視してくれないと間違ったことを教えるかもしれない。おかしいと思ったら、どんどん異議を唱えろ」と物騒な発言をし、私たちも「まかせてくれ」というわけで、教師と生徒が一体となった研究会のような授業になった。みんなでひとつの例題に悩み、にっちもさっちもいかなくなった。「しょうがない、専門家に聞いてこよう」などと彼が教室をとびだし、先輩の英語教師に質問に行ったりした。そして戻って来ると「こんなことがわからないのかとばかにされたぞ。お前ら、俺に恥をかかせないように知恵を絞って勉強してきてくれよなあ」と大まじめにいって私たちを爆笑させたりした。いま、高校でこんな教師がいたら大問題にされるだろう。しかし、いま考えてみるとこの授業がー番張りがあり、実力がついたような気がする。いまは県立高校の校長をしている彼が「あのときほど楽しいことはなかった。あれは青春だったなあ」と語ってくれたことがある。 そのころレッド・バージの旋風が吹き起こり始めていたが、私たちが格別、政党色を出さなかったことや、戦時下の中学教育を一年以上受けた最後の学年ということもあって、学校は私たちに当らずさわらずであった。あとで聞くと「どうせあいつらは、あと半年で学校へ来なくなり、卒業して行くのだから、少しの辛棒だ」とおさえていたということである。 事実、私たちが卒業したあとの学校側のしめつけは厳しく、後に後輩たちから、先輩たちのやり過ぎのつけを廻わされてえらく迷惑したといわれてしまった。そのつけは私個人にも廻わってきた。教師たちが連名で、内定していた私の就職先へ投書を送り、そのために私の就職は取りけされてしまった・・・」『戦後日本教育史料集成 第二巻 新学制の発足・月報 2』 「そのときエア・ポケットのように輝くばかりの自由があった」
山中恒たちは、素人から教育を受けるという滅多にない幸福に恵まれたのである。お陰で、「この授業がー番張りがあり、実力がついた」。教師らしい説明を一切省いて、自ら学ぶ経験をすることが出来た。ジョゼフ・ジャコトが体験したことがここでも確かめられる。
つづく
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