「当時のどの思想家よりも近代の英知を集約した偉大な改革者と目されていたベンサムは、・・・いかなる金銭的な動機も望ましい結果を得る上で信頼できる手段とはいえず、あからさまな強制こそが、気まぐれで知性に欠ける貧民に対するいかなる呼びかけより有効だとする結論に達した。彼は500個所の施設を建設し、そこに「手に負えない貧民」を収容して、監督官の恒常的な監視と絶対的かつ集中的な権限の下に置くことを提案した。この計画によると、「人間のくず」、支援の手段を欠いた成人や児童物乞い、未婚の母、言うことをきかない徒弟などほ捕捉されて、そうした民間の強制労働施設に強制的に収容され、そこで「この種のくずもペニー銀貨に変換される」。ベンサムは、リベラルな批判者の反論に怒って、次のように答えた。「反論・・・自由が脅かされるのではありませんか? 回答・・・(脅かされるのは)損害を与える自由です」。貧民は、貧しい状態にとどまっているというだけで、手に負えない子供以上に、自由を受け入れる能力がないことの裏づげになると彼は信じていた。彼らは自己管理ができないので、管理されねばならないというわけである」 バウマン 『新しい貧困』 青土社p209
「彼らは自己管理ができないので、管理されねばならない」 「名門校」から底辺校へやってきて、自らと名門校には自由を容認するが、目の前の生徒たちには決して認めない自称リベラルな教師たち。その共通した言い訳はベンサムに源があったのか。それがベンサムとは無縁の教師たちから一言違わぬ言葉となって現れる。ヘイトスピーチと同じ構造を持っている。
「彼らは自己管理ができないので、管理されねばならない」こうした粗雑な論理で生徒たちを差別的に管理してきた。それは80年代から頻繁に職員室で流布しはじめた。管理主義に良心が咎める教員たちがこの言説で自らを納得さるように使っていた。私は本来、自由と民主主義を擁護する側にいる。それが実行できないのは自己管理できない生徒たちのせいなのだと。
個人の廃棄を集団に委ねるという暴挙に教育集団が率先荷担していたのである。偏差値という値札が善行と逸脱、価値と塵芥を分け、後者を廃棄している。廃棄に良心の呵責を感じない、そればかりか廃棄されることに怒り抗議する言葉と感情を持たないようには確実に訓練する。
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