人格と授業

  ホッブス(1588~1679)によれば、人格とは言葉や行為の代表者や代理人を意味する。よって人格すなわち代理人は本人の権威に基づいて行為するものである。従って衆議院議員を「代議士」と呼ぶ。代議士の威厳も力も民衆の権威を反映している。
 沖縄の代議士が「嘉手納基地県外移設」の公約を反古にして政府の恫喝に屈したのは、代議士の定義そのものに反して自らの存在根拠を自ら破壊したのである。人格とはその言葉行為が、彼自身のものあるいは言葉行為が帰すべき人物などの言葉行為とみなすことができる「人」のことである。政府に屈した沖縄の代議士はもはや代表する言葉行為を持たない。
  大統領や総理大臣あるいはCEOがゴーストライターの原稿を読むとき、どこにも「人格」はない。国民がゴーストライターの人となりを熟知・信頼しているとき(例えば劉備に於ける諸葛孔明のように)人格として双方を見ることができる。耳が聞こえないことを売りにした男と作曲家の場合は、代理すべき権威が存在しない。広告代理店は何かを代理しているだろうか。
  我々が授業をするとき、去年書いたノートを読んだ場合はどうだろうか。人格を感じるのは生徒であって、授業者が一方的に主張して押し付けられる類ではない。「あー先生、自分の言葉で語ってない」と見做されたら何にもならない。その場で状況に柔軟に対応するのでなければ、授業に主権者たる生徒の権威が反映したことにはならない。

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