それは恐ろしく長いあいだ、教育委員の公選制廃止以来、住民父母生徒の声が学校行政に届かなかったからである。橋下や石原らが教員や教組を批判しながら、学校の差別選別化と教育内容の反民主化を推し進め、それに教員・教組は反対してきた。それが、住民の声を聞かない変わらない学校を、橋下や石原らがようやく変えようとしているのに、教員・教組がまたもや既得権を守って妨害しているように見える。折角やってきた改革の機会を潰している左翼教員という図式だ。見えることの奥にある実態を見ない、見えない、見させない。住民父母生徒の声を、学校行政に届かないようにしたのは、行政であったことを知ろうとはしない。知りたくない。なんとかして教師が悪いと言いたくて堪らない。何しろ学校も担任も、昔生徒であった住民市民有権者の声を押しつぶしてきたのではないか。
我々に必要なのは、間違っているのは橋下や石原らであり我々は一貫して正しいと言い募ることではない。我々が悪者に見えることへの真剣な反省である。そののちにようやく今起きていることの実態を告発し本質を語ることができる。
もう一つの問題が隠れている。事業がうまくゆかない時、上からは時代に合わせろと責め立てられる。そこに生まれる軋轢は自殺者をうむほどである。そういう環境に押しつぶされそうになりながら努力してもうまくゆかないとき、やっぱり体制が古いからだ。良い方向に変わらないのは役所がそれを阻んでいるからだ。今のままでは駄目なのはハッキリしていると言いながら、方向を見もせずに変化に期待を寄せる。賃金労働条件の引き下げさえ変化の一つとして受け入れる向きもある。
そのままで報われることを権利という。それを知らない、知っていても見通しを持てない。そのままで尊重されるという経験をしていない。まず少なくとも学校では変わることを強制するのはやめようではないか。そのままで尊重しなければならない。
例えば茶髪の生徒に対して我々は何をしたか。校門の前で茶髪の生徒を追い返す、天然茶髪生徒は黒く染めるよう強制する、校舎外の水飲み場で染髪剤を強制的に落とす乱暴を毅然として行った。「私はあれには賛成しなかったのだ、間違った一部の暴走だったのだ」と今更言ってみたところで何になるだろうか。
「茶髪を理由に授業を受ける権利を奪ってはならない」と発言し行動しなければならなかったのだ。島のTさんのように。Tさんは、茶髪の生徒を生徒部が「茶髪は授業を受けさせない」と追い返している最中の校門に出向き「茶髪でも僕の授業は受けられます」と言い切って自分の授業の生徒を連れて校門を入った。
「一部の独走であれば、お得意の多数決でなぜ止めなかったのか。実は多数の暴走だったのではないか」と若者は反論するだろう。僕が高校生であるならば「全体主義はあなた方の日常的願望である」と喰ってかかるだろう。生徒会が茶髪の生徒を守ってピケを貼ろうとしなかったことも無念極まりない。茶髪ごときで極悪人並みの扱いを受け仲間からも見捨てられた若者たちの悔しさを思い知らねばならない。
学習意欲が高まる訳がない。Kさんは、浜に降りて生徒と一緒に石を海に向かって投げた。「そんな頭で授業に身が入るか」と苛つきながら怒鳴り体罰を振るう声と顔が、生徒たちを更に苛つかせることに気付かない。それでも生徒が登校しているのに、追い返そうとする。生徒たちは教師の身勝手さを読み取り反感を募らせる。反感は、石原・橋下・田母神に輝きを与える。「教師の多数派」への反感の基底にある若者の正当な怒りを真正面から捉えねばならない。
生徒学生若者の権利のために、犠牲を承知で闘わねばならない。授業を受ける権利は人権であり、多数派が奪うことのできるものではないことは行動で示さねばならない。おしゃれをする権利もその延長上にある。
我々は狭い職場の「多数派」派になるために右顧左眄するが深く考えはしない。職場の雰囲気で右にも左にも寛容にも過激にもなるのだ。情けない小心者に過ぎない。アーレントの「凡庸な悪」「悪の陳腐さ」がここにもあり、「実に多くの人が彼に似てい・・・」る。「命令(多数決)に従っただけだ」と繰り返す八方美人の教師たち。「凡庸な悪」をひきよせ思考停止を産むのは、「多数派」派であり続けることの居心地の良さ。個人の平凡な理性を保ち悪と対決させるのは「疑い続ける精神」である。考えること、思考を止めないことは憲法に忠誠を誓った者の義務である。多数決に引きずられそうになったとき、思い出さねばならぬ。教員になる辞令を受け取る時に、憲法に忠誠を誓う書類に、我々は残らず署名している。
大西巨人は「文学とは反逆精神にほかならず」と書き「作家は、それを書くことによって痛手を負わねばならぬ」とも書いている。僕は文学を授業に、作家を教師に置き換えたい。
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