誰に許されて教壇に立っているのか

 「雑踏のなかにあって我を忘れているとき、せわしなく雑多な仕事に追われて、自分をうしなっているとき、ふと我にかえって、我とわが身につぶやく。「俺はいまどこにいるのだ。」
 そうして、結局、私が神の前にいること、それ以外のいかなる場所に立っているのでもないこと、そうして、私が実に立たされていること、ゆるされてそこに立たされていることを、愕然たる思いで知ることこそ重要なのだ。
それは、ほっとするような安らかなことであるとともに、おそるべきことでもある」  石原吉郎 「ノオトから」
   教師に成り立ての頃の事だ。教壇に立っているとき、「僕は何をしているのか、どう見えているのか」とふと思い、もう一人の自分が僕を凝視しているような気配にとらわれることが度々あった。 
   僕は「神」を思ったりはしなかったが「結局、僕が生徒たちの前にいること、それ以外のいかなる場所に立っているのでもないこと、そうして、・・・ゆるされてそこに立たされている」事を反芻せずにはおれなかった。 
   ゆるしたのは、主権者としての生徒である。少し前まで僕はあちら側にいて、教師を難詰していた。 
   高校や大学では、「アジテーション」の為に様々な教室の教壇に立った。教室では学生の「ゆるし」を得てそこに立つ事が出来た。立つ資格を問われて立ち往生し「帰れ」と追い出される仲間もあった。教授が教室に入り、アジテーションを打ち切ろうとすると「続けろ」と学生に言われ「続けなさい」と教授に許可されたりもした。これが僕にとって「教育実習」原点になっている。
 免許を得て採用試験に合格した事が、教壇に立つ資格としては恐ろしく貧弱に思えた。僕は、「未来の」主権者という言い種が気にいらず、生徒・学生の頃から各方面と衝突もした。僕の目の前の少年たちは、僕にとって「既に」主権者なのであり、免許や採用試験を超えた存在であった。
生徒たちに
  「どうしたの先生」と問われ
 「僕はどうしてここにいるのだろうか、ここに立つ資格があるのだろうか・・・」と生徒に問うこともあった。

 定時制課程の青年たちに「君たちは何が学びたいのか」と問わずにおれなかった。彼らの答えは「社会の仕組みを知りたい」と、ことの核心を突いていた。「何故、土地に持ち主があるのか。宗教にどうして人は引きずり込まれるのか。外国を知りたい」 生徒の声は、 僕にとっては指導要領より具体的かつ切実であった。同じ思いは少なからぬ教師にあったと思う。だから教研は成り立っていた。

 しかし、勤労青少年が急激に消滅、定時制課程が行き場のない少年の吹きだまりになると共に、教師の意識も急変した。底知れぬかのような「低学力」に直面して、戸惑いや無力感と共に「聖職者意識」が立ち上がった。神を信じない者の「聖職者意識」は、神を信じる者のそれより時として傲慢であった。生徒たちの声を聞くことを忘れた教師たちは「新管理主義」と自らの立場を表明した。「ゆるされてそこに立たされている」のではなく、混乱する教室、生活習慣を忘れた者に対する「義務として」の立場を正当化した。ちょうどアメリカが「世界の警官」を自称するように、乱れた秩序が、帝国主義的管理を上手く説明しているのと同じように。
 この頃から、教師たちの関心は教科実践から、生活指導に傾いた。支部教研や支部合宿・青年部合宿の実践レポートが、回を追う毎に生活指導や行事指導報告が教科実践報告を上まわるようになったのだ。
 都高教研専門委員の田代三良が、教師の質の低下を指摘した頃である。彼が指摘した「質」とは、教師の教科指導に於けるそれであった。
                                                                                  続く
   

集団になったとたん、ものわかりが悪くなる。生徒も教師も。

 「「一人ひとりになると、教師の言い分をよく聞き理解する生徒が、集団になったとたん、ものわかりが悪くなる。何を考えているのか指導がとおらなくなる」 
 若い教師たちの悩みである。そうなんだよと相槌をうちたくなるが、ちょっと待てよ。同じことを生徒も言っているのだ。 
 「先生たちもさ、一人ひとりはいい人だよね、いろいろな話をしてくれ、僕たちの気持ちも開いてくれたりする。でもさ、学校の教員という立場になると、もう変なんだ。わけのわからないことを無理強いしてさ、何だか顔までちがって、いやだよ」 
 互いに一人ひとりはいい人間なのにと思っている。ところが集団になったり結束したりすると、理解に苦しむ行動や思考をする。国と国の関係も似たところがないだろうか。 個人的につき合えば、素朴で人情味あふれる日本人が、集団化し狂信的民族主義者として鬼畜米英と絶叫しながらあらわれる時、外国人にとつては、ただ恐怖のまとになるのみ。 
 校内暴力を無神経にも戦争にたとえた人々がいた。「戦争」のなかで、互いに理解しあうことはますます放棄された。いつの間にか生徒たちは、固い壁の前で立ちすくみ諦め始める。 
 そしてパクス○○とでも呼びたくなるような〝安定″した関係が出来あがった。実際、近頃の生徒は静かすぎる、反応がないと嘆く教師がすくなくない。押さえておいてそう言うのだ。 学校で互いに信頼し合い話し合えるまでには時間がかかる。ところがやっと一人ひとりが見えかけた頃クラス替えだ。たいてい管理の都合でおこなわれる。
       月刊『教育』「子どもを見る目 」                                                                  
  これを書いたのは1980年代初めだった。
 Mさんの短信。「先日、前に座っている生徒と話していたら、「先生って大学出ているんですよね?」と言われました。何を言われているのかわからなくて、・・・話してみたら、「人と違うことを言うから」プラスの言葉だったのです。褒め言葉? 生徒に救われるなぁ」は、相互理解の困難さを生徒の側から教師集団に突きつけていたのだと思う。出来るものなら大人を教師を信じたいという高校生の祈りに似た姿勢がある。
 しかし、大学を出る、大人になる、教師集団の一員になることは「業界人」と成り果てることでしかない。真実や正義が己の業界の特権の前では無力であることを、教師が大人が若者の眼前で証明する。少なくとも高校生にはそう見える。80年代生徒達は、教師をまだ対話可能な存在だと素朴に考えていた。「話せば判る」と。


 「私は中学の時、スケバン、ツツパリと呼ばれた。・・・二年の遠足でおかしは禁止だったけれど私は持って行った。他にも学年の半数は持って行った。 
 ある子がそれを見つかって職員室に呼ばれたと聞いて、私は自分も持って来たのだから、その子だけおこられるのは見てられなかった。おかし持ってった人を集めた。30人以上集まって、職員室に行って私が説明した。みんなおこられた。 
 そして私のグループだけ残され、スケバン、ツツパリとよばれながら、またおこられた。先生達は、私が皆におかし持って来いと言ったと思ってた・・・」 月刊『教育』

 教師はこうして対話の機会を自ら壊す。高校で僕はこの生徒の担任になったが、スケバン、ツツパリらしさは何処にもなかった。「スケバン・ツツパリ」行動は、教師の生徒に対する眼差しや態度が裏返ったものに過ぎないと僕は考えてきた。今も学校現象が紙面を賑わすたびに、そうだとますます思う。我々が、「耳を二つ口は一つ」だけ持つことの哲学的意味を心得てさえいれば、教室の否定的現象は、霧散する。
 
 それでも一年生は、果敢に管理職や生徒部に押し寄せ、「前例がない」を口癖にする学校組織を変えようとした。変えられかもしれないと思うのだ。それが少年から青年への成長の証である。しかし、三年生になると次のような発言が見られるようになる。


 「私は社会に不満がないのではないのです。だけど、もうどうしようもない気がします。どんなに反抗したって何も変わらないような気がします。 
 しばられるのはイヤです。でもそれをすれば、社会のはみ出し者になって、生きてゆけなくなる。反抗したくでも背中をナイフでつっつかれているみたいで何もできないのです。 
 小さい頃は想像力ゆたかでした。でもこの頃は現実的になっちやって、社会になれちやって悲しい。やりたいこともなくなりました。そうやって生きてゆくのはイヤだという心だけが残りました」  月刊『教育』

 この三年生も二年生の時は、世間に妥協し始める大学生の姉に激しく反発する気持ちを綴っていたのだ。年齢学歴を重ねる毎に知的多様性を増すのではない苦しみ。引きずり込まれるように画一化し劣化するする現実を、高校生は学校で家庭で見ることになる。
 「学生」「社会人」という珍妙な区切りがそれを裏付けもする。S高で一年生が「ひねくれたい」と言った言葉には、自分らしさを縮減する事でしか生きられない悲しみが込められていた。
 最近の時代劇には「浪人」があまり登場しない。十手持ちが、お上の権威に恐れ入って謙り下る捕物帖が大流行である。『雨上がる』が曲がり角だったのだろうか。眠狂四郎や鞍馬天狗にも椿三十郎にも、仕官への未練など一切ない。
 自分らしさ、人らしさを自ら削減した者に、他者を理解する心性は残っていない。
 大西巨人は「文学とは反逆精神にほかならず」と言い「作家は、それを書くことによって痛手を負わねばならぬ」とも書いている。

欲望からの自由と特権の廃止

  はじめ東大卒業生に特権はなかった。だから慶應義塾、東京商業学校など実業的教育を施す学校に学生が集まった。大隈重信の東京専門学校も、国会開設に備え人材を育成し時の政府を悩ませた。時の政府とは伊藤博文内閣である。
 伊藤は、手っ取り早く東大に特権を与え、他校を出し抜くことにした。
 工部省工部大学校、司法省法学校を東京大学に吸収、法医工文理の総合大学・東京帝国大学にした。そして東京帝国大学法学部を卒業すれば、高等試験を受けずに高級官吏になった。医学部を卒業すれば無試験で医者になり、教員免状も無試験。東京帝国大学を卒業しさえすれば、進路はひらけ、俸給も飛び抜けて高くなるよう仕組まれたのである。
 だから優秀な学生か殺到したのである。逆ではない。彼らが就職する、企業も特権を求めて鎬を削り「政商」と呼ばれた。後に複数の帝国大学がつくられ、これらの特権も縮小するが地位は揺るぎようもなくなっていた。

 学校は学生に教育を施し優秀な若者に育てて送り出すのではなく、始めから「優秀」な若者を「特権」で釣る事に力を注いだのである。封建社会の特権を廃止して、国民の権利を普遍化したわけではない。特権の再編を図ったのである。
  だから、江戸が東京になって大名屋敷は消えたが、相も変わらず不在地主たる華族の屋敷が並び、貧民街が隣接することになったのである。一つの屋敷には数人の華族身内の為に、彼らを世話する「僕」が300から400人もいた。そのほかに膨大な軍用地があった。軍隊がこれまた特権の塊、自己増殖する機構である。

  敗戦によって、これらは徹底的に解体される筈であったのに、特権はそれに固執する者たちに頑固に守られ、あっけなく再編されたのである。例えば、中等学校は新制中学・高校となり、男女共学制・総合制・小学区制の画期的変化をもたらすはずであったが、先ず地方の名門女学校や中学の流れをくむ学校が、卒業生の「過去の栄光」を懐古する心情に乗って復活した。東大の特権も、予算配分の圧倒的不平等という形で維持されたのである。こうして、教育基本法の理想は、とうの昔に文言の上だけになっていた。
  又、例えば検察の上訴・上告権は行政優位を温存して、冤罪の温床になっている。憲法上も。無罪判決に対して検察は上訴できない筈であるにも拘わらず、最高裁は検察に有利な解釈を続けて、世界の司法から大きく後退している。三権分立を有名無実化して、行政権の独断暴走を許しているものは他にもあるが根幹はここにある。
 これらは、戦前苦難を強いられた側が変革の主体として立ち上がる事がなかった事による。これも敗戦後における痛恨事の一つである。特権の廃止に失敗したわれわれは、権利を概念化できず、雇用者、国家、自治体、学校、の前で言葉を失ってしまうのである。それはおとなしさ従順性として記述され、逆転して国民を定義した。未だに高等学校は受験偏差値に頼り、難関大学指定校推薦枠や教委や文科省のSSHなどの「お墨付き・特権」を維持拡大して格差を高めようと画策するのである。まさに中毒である。国民の「平等で自由な学ぶ権利」は、学校経営・維持の前に余にも脆い。

  戒厳令下チリで貧民街は拡大し、貧民は権利を奪われ放置された。にもかかわらず、貧困・弾圧の元でも軍事政権批判を諦めなかった。それは『戒厳令下チリ潜入記』が貧民街で記録した、チリ民衆の言葉「我々にとって、問題は家とか食べ物とかではなく、我々に品位というものをとり戻してくれたことだ」「我々が欲するものはただひとつ、我々が奪われたもの、すなわち声と投票である」に裏打ちされた思想である。つまり、如何なる状況下でも、彼らは歴史の主体としての誇りを忘れない精神を維持している。

 戒厳令下の共同鍋や共同購入は、貧民街を食べさせるだけではない。女たちに「婦人の権利について語った唯一の大統領はアジェンデだった」と語らせ、何時男たちが「行方不明」になっても、闘いが継続するように結束させている。それが階級意識である。
 「我々にとって、問題は家とか食べ物とかではなく」と彼らは、清々しいまでに欲望から自由である。だから、如何なる者の特権も許さない。

  僕は思うのだ。敗戦後一切の収入が途絶えた時、祖母は五右衛門風呂を外し、港の専売局前で塩をつくって売って糊口を凌いだと言う。近所も親戚も同じように困窮した。だが何故、共同購入や共同鍋は試みられなかったのだろうか。 そのほんの一ヶ月前までは、飢餓状況にあって「一億総玉砕」と絶叫しながら、浜辺で竹槍訓練の先頭に立っていたのだ。集団・共同性が「お上」からの指示である時、我々は判断力を捨てて美しく「団結」する。それが「おおやけ=公」だと信じていたからだと思う。それでは「public」の概念は形成されないのである。自らを救う「公」的社会鍋を構想できないし、班長が威張り散らす「お上」からの共同はまっぴら御免なのだ。
  PTAも、主権者としての父母と教師の共同の権利を守る組織として意識される前に、「お上」の「おおやけ」の命ずる義務として機能して、母親を解放するどころか拘束してしまった。生徒会もクラスもそうなりやすい。放って措けばそうなる。

  戒厳令下チリに比べれば、大いに抵抗の余地はある。報道機関にも裁判所も大学も教師にも裁判官も記者も。無いのは「公」の概念と階級意識だ。

アジェンデは、我々に品位というものをとり戻してくれた

 
「私は、選挙で民衆に選ばれた。
決して辞任しない、降伏しない。最期まで闘う」
アジェンデも右肩に機関銃を掛けている。
映画監督ミゲル・リティンはアジェンデ政権下では、国立映画社の総裁であった。従ってピノチェトのクーデターでは逮捕後の拷問処刑は免れなかったが、辛くも逃れ亡命した。     クーデターから12年目、彼は頭髪の一部を抜き減量して顔や喋り方まで変え、偽造した書類と共に祖国に潜入した。膨大なフィルムに軍政下チリの実態を記録した。岩波新書『戒厳令下チリ潜入記』は、ミゲル・リティンをノーベル賞作家ガルシア・マルケスが一週間取材して、まとめたものである。そのなかに、戒厳令下の人々のアジェンデの思いに関する記述がある。


 「大統領に当選するまで、アジェンデは四回、立候補した。だが、その前は下院議員や上院議員をっとめており、大統領選挙中もその地位にあった。

 しかもその長い国会議員生活においては、ペルー国境からパタゴニアに至るまでチリ全国のほとんどの州から立候補しているために、かれはその土地の人々や文化や苦しみや、さらにその夢についてまで細かく知り尽しており、また、住民の方もアジェンデのことを何から何まで知っていた。

 新聞やテレビで顔を見るだけの、あるいはラジオで声を聞くだけの、その他のたくさんの政治家とは異なり、アジェンデは家の中に入り、家から家へと巡り歩き、人々と直接、暖かい接触を交わしながら政治を行なった。それはまさにホーム・ドクターと言ってよかった。かれの人間としての知性は政治家としてのほとんど動物的ともいえる本能と結びついており、解決の容易ならない矛盾した感情をひき起こした。

 大統領になってからのことであるが、一人の男が「これは糞の政府だ。だが私の政府だ」 と書いたプラカードをもってかれの前をデモ行進していった。アジェンデは立ち上がり拍手をしながら下に降りて行き、この男と握手をしたのであった。
 私たちはチリ国内をあちらこちら歩き回ったが、その間、かれの足跡の見出されないところはどこにもなかった。握手をしたことのある人、子供の名付け親になってもらった人、庭の葉を煎じて悪質な咳を治してもらった人、かれのおかげで職につけた人、あるいはかれとチェスの試合をして勝ったと言う人などが必ずいた。
 かれが手を触れた物は、すべて形見として保存されていた。ここはそんなでもあるまいと思ったところでも、他の椅子より手入れが行き届いている椅子を指して「そこに一度座ったんですよ」と言われたりした。また、ちょっとした手づくりの品物を見せてくれて、「これをくれたのです」と言う人もあった。
 ある一九歳の少女は、といってもすでに子供があり、もう一人の子を身ごもっていたのだが、私たちにこんな話をしてくれた。「私は子供にいつも、大統領は誰だったかを教えているんです。私もかれのことはほとんど知らないのですけれどね。だって、かれが行ってしまったのは七歳の時だったのですから」。そこで、かれについてどんな思い出があるのかを尋ねると、こう答えた。
 「私は父と一緒にいたのですが、バルコニーでハンカチをふりながら話していました」。カルメンの聖母像がかけられていたある家で、その家の主婦にアジェンデ派であったかどうかを聞いた時、かの女は「前は違いましたが、今ではそうです」と答えて、聖母像をはずした。すると、その下からアジェンデの肖像画が出て来たのである。

 アジェンデ政府時代には大衆市場でアジェンデの小さな胸像が売られていたが、この胸像は、今、ポプラシオンでは大切に飾られ、花や灯明がそなえられている。その思い出は、あらゆる人々の中で増幅されているようだ。かれに四回投票した老人の中でも、三回投票したことのある人々の中でも、大統領に当選させた人々の中でも、そしてまた、それらを歴史上の事件として受け継いでいるにすぎない子供たちの間でもそうなのである。
 私たちがインタビューした何人かの婦人たちは、口をそろえて「婦人の権利について語った唯一の大統領はアジェンデだったのです」と言っていた。
 ところで、人々はアジェンデのことを決して名前では呼ばず、「大統領」と言った。まるで今もなお大統領であるか、大統領は彼一人だけであるか、あるいはもう一度復帰するのを待っているかのように。だが、ポプラシオンの記憶の中にずっと受けつがれているのは、かれのイメージというよりも、むしろかれの人間的な考え方の偉大さであると言わなければならない。

 「我々にとって、問題は家とか食べ物とかではなく、我々に品位というものをとり戻してくれたことだ」 とかれらは言う。つまり、「我々が欲するものはただひとつ、我々が奪われたもの、すなわち声と投票である」ということなのだ。
   岩波新書『戒厳令下チリ潜入記』
 
  ポプラシオンとは、アラブで言えばカスバ。貧民街、複雑極まる迷路で繋がり、警察や軍隊もおいそれとは踏み込めない。弾圧も巧妙にかわす抵抗と連帯の知恵に満ちた生活の拠点である。その中に、医師アジェンデは、まるで人々のホームドクターのように足を踏み入れた。 
 ポプラシオンの人々が、「我々にとって、問題は家とか食べ物とかではなく、我々に品位というものをとり戻してくれたことだ」とアジェンデを忘れないのだ。抵抗や思想性とは、強烈なやせ我慢の精神に裏打ちされている。

 死んでなお、人々結集させ行動に駆り立てる英雄は、ゲバラだけではない事が分かる。アジェンデ博士は、なるべくして大統領になった事がよく分かるし、断固たる民主化・社会主義化政策の背景が理解できる。
 中南米にはこんな思想家や政治家が溢れている、アルジェリア独立闘争を指導したフランツ・ファノンも西インド諸島マルティニークで産まれ育っている。僕は中南米の人々をうらやましく思う。 

 アジェンデ礼賛は、パルパライソでは一層強い。産まれ育った街だからだ。彼が初めて理論的な本を読んだのも、この港町に住むアナーキストの靴屋であったという。
 アナーキストの靴屋で、僕は史上最悪の冤罪事件サッコ・バンゼッティ事件のニコラ・サッコがイタリア移民の製靴工であったことを思い出した。彼もアナーキストであった。この大陸では、人々の生活の中に深く思想が息づいているのだ。

  リティンの撮った映像『戒厳令下チリ潜入記』は前後編に分けられ、ネットで見ることが出来る。前編のリンクを貼っておこう。 ←クリック
 後編は https://youtu.be/8gQzG3h3Tr4  
  それぞれ約1時間あるが、日本語ナレーションが入っている。大統領の最期の闘いは後編に収められている。

追記 リティンは故郷に近づき懐かしい中等学校の古い校舎を撮った。女の子がバレーの専門的ステップをしていたので、もう一度やってと頼んだとき、数人の子どもがリティンの側に座り、「この国の未来を入れて写真を撮ってくださいね」と言う場面がある。
 アジェンデの時代を知らない子どもたちが、未来と自由を確信している事を彼は知った。

 今、我々の子ども、生徒、若者たちは、自由と未来の代わりに順位ばかりを追いかけさせられている。

もし、君の庭が貴金属だらけになったら

   夢のような幸運、たった一掴みでどんな贅沢も思いのままだ。ひとかけらの土も糞や汚物もない。大リーグ「大谷」の幸運は、さしずめプラチナか巨大なルビー相当だろうか。プロゴルフも競艇も競馬も囲碁将棋gamerもオリンピックplayerもその稼ぎ高が、画面や紙面を賑わす。それにつられ...