アジェンデは、我々に品位というものをとり戻してくれた

 
「私は、選挙で民衆に選ばれた。
決して辞任しない、降伏しない。最期まで闘う」
アジェンデも右肩に機関銃を掛けている。
映画監督ミゲル・リティンはアジェンデ政権下では、国立映画社の総裁であった。従ってピノチェトのクーデターでは逮捕後の拷問処刑は免れなかったが、辛くも逃れ亡命した。     クーデターから12年目、彼は頭髪の一部を抜き減量して顔や喋り方まで変え、偽造した書類と共に祖国に潜入した。膨大なフィルムに軍政下チリの実態を記録した。岩波新書『戒厳令下チリ潜入記』は、ミゲル・リティンをノーベル賞作家ガルシア・マルケスが一週間取材して、まとめたものである。そのなかに、戒厳令下の人々のアジェンデの思いに関する記述がある。


 「大統領に当選するまで、アジェンデは四回、立候補した。だが、その前は下院議員や上院議員をっとめており、大統領選挙中もその地位にあった。

 しかもその長い国会議員生活においては、ペルー国境からパタゴニアに至るまでチリ全国のほとんどの州から立候補しているために、かれはその土地の人々や文化や苦しみや、さらにその夢についてまで細かく知り尽しており、また、住民の方もアジェンデのことを何から何まで知っていた。

 新聞やテレビで顔を見るだけの、あるいはラジオで声を聞くだけの、その他のたくさんの政治家とは異なり、アジェンデは家の中に入り、家から家へと巡り歩き、人々と直接、暖かい接触を交わしながら政治を行なった。それはまさにホーム・ドクターと言ってよかった。かれの人間としての知性は政治家としてのほとんど動物的ともいえる本能と結びついており、解決の容易ならない矛盾した感情をひき起こした。

 大統領になってからのことであるが、一人の男が「これは糞の政府だ。だが私の政府だ」 と書いたプラカードをもってかれの前をデモ行進していった。アジェンデは立ち上がり拍手をしながら下に降りて行き、この男と握手をしたのであった。
 私たちはチリ国内をあちらこちら歩き回ったが、その間、かれの足跡の見出されないところはどこにもなかった。握手をしたことのある人、子供の名付け親になってもらった人、庭の葉を煎じて悪質な咳を治してもらった人、かれのおかげで職につけた人、あるいはかれとチェスの試合をして勝ったと言う人などが必ずいた。
 かれが手を触れた物は、すべて形見として保存されていた。ここはそんなでもあるまいと思ったところでも、他の椅子より手入れが行き届いている椅子を指して「そこに一度座ったんですよ」と言われたりした。また、ちょっとした手づくりの品物を見せてくれて、「これをくれたのです」と言う人もあった。
 ある一九歳の少女は、といってもすでに子供があり、もう一人の子を身ごもっていたのだが、私たちにこんな話をしてくれた。「私は子供にいつも、大統領は誰だったかを教えているんです。私もかれのことはほとんど知らないのですけれどね。だって、かれが行ってしまったのは七歳の時だったのですから」。そこで、かれについてどんな思い出があるのかを尋ねると、こう答えた。
 「私は父と一緒にいたのですが、バルコニーでハンカチをふりながら話していました」。カルメンの聖母像がかけられていたある家で、その家の主婦にアジェンデ派であったかどうかを聞いた時、かの女は「前は違いましたが、今ではそうです」と答えて、聖母像をはずした。すると、その下からアジェンデの肖像画が出て来たのである。

 アジェンデ政府時代には大衆市場でアジェンデの小さな胸像が売られていたが、この胸像は、今、ポプラシオンでは大切に飾られ、花や灯明がそなえられている。その思い出は、あらゆる人々の中で増幅されているようだ。かれに四回投票した老人の中でも、三回投票したことのある人々の中でも、大統領に当選させた人々の中でも、そしてまた、それらを歴史上の事件として受け継いでいるにすぎない子供たちの間でもそうなのである。
 私たちがインタビューした何人かの婦人たちは、口をそろえて「婦人の権利について語った唯一の大統領はアジェンデだったのです」と言っていた。
 ところで、人々はアジェンデのことを決して名前では呼ばず、「大統領」と言った。まるで今もなお大統領であるか、大統領は彼一人だけであるか、あるいはもう一度復帰するのを待っているかのように。だが、ポプラシオンの記憶の中にずっと受けつがれているのは、かれのイメージというよりも、むしろかれの人間的な考え方の偉大さであると言わなければならない。

 「我々にとって、問題は家とか食べ物とかではなく、我々に品位というものをとり戻してくれたことだ」 とかれらは言う。つまり、「我々が欲するものはただひとつ、我々が奪われたもの、すなわち声と投票である」ということなのだ。
   岩波新書『戒厳令下チリ潜入記』
 
  ポプラシオンとは、アラブで言えばカスバ。貧民街、複雑極まる迷路で繋がり、警察や軍隊もおいそれとは踏み込めない。弾圧も巧妙にかわす抵抗と連帯の知恵に満ちた生活の拠点である。その中に、医師アジェンデは、まるで人々のホームドクターのように足を踏み入れた。 
 ポプラシオンの人々が、「我々にとって、問題は家とか食べ物とかではなく、我々に品位というものをとり戻してくれたことだ」とアジェンデを忘れないのだ。抵抗や思想性とは、強烈なやせ我慢の精神に裏打ちされている。

 死んでなお、人々結集させ行動に駆り立てる英雄は、ゲバラだけではない事が分かる。アジェンデ博士は、なるべくして大統領になった事がよく分かるし、断固たる民主化・社会主義化政策の背景が理解できる。
 中南米にはこんな思想家や政治家が溢れている、アルジェリア独立闘争を指導したフランツ・ファノンも西インド諸島マルティニークで産まれ育っている。僕は中南米の人々をうらやましく思う。 

 アジェンデ礼賛は、パルパライソでは一層強い。産まれ育った街だからだ。彼が初めて理論的な本を読んだのも、この港町に住むアナーキストの靴屋であったという。
 アナーキストの靴屋で、僕は史上最悪の冤罪事件サッコ・バンゼッティ事件のニコラ・サッコがイタリア移民の製靴工であったことを思い出した。彼もアナーキストであった。この大陸では、人々の生活の中に深く思想が息づいているのだ。

  リティンの撮った映像『戒厳令下チリ潜入記』は前後編に分けられ、ネットで見ることが出来る。前編のリンクを貼っておこう。 ←クリック
 後編は https://youtu.be/8gQzG3h3Tr4  
  それぞれ約1時間あるが、日本語ナレーションが入っている。大統領の最期の闘いは後編に収められている。

追記 リティンは故郷に近づき懐かしい中等学校の古い校舎を撮った。女の子がバレーの専門的ステップをしていたので、もう一度やってと頼んだとき、数人の子どもがリティンの側に座り、「この国の未来を入れて写真を撮ってくださいね」と言う場面がある。
 アジェンデの時代を知らない子どもたちが、未来と自由を確信している事を彼は知った。

 今、我々の子ども、生徒、若者たちは、自由と未来の代わりに順位ばかりを追いかけさせられている。

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