欲望からの自由と特権の廃止

  はじめ東大卒業生に特権はなかった。だから慶應義塾、東京商業学校など実業的教育を施す学校に学生が集まった。大隈重信の東京専門学校も、国会開設に備え人材を育成し時の政府を悩ませた。時の政府とは伊藤博文内閣である。
 伊藤は、手っ取り早く東大に特権を与え、他校を出し抜くことにした。
 工部省工部大学校、司法省法学校を東京大学に吸収、法医工文理の総合大学・東京帝国大学にした。そして東京帝国大学法学部を卒業すれば、高等試験を受けずに高級官吏になった。医学部を卒業すれば無試験で医者になり、教員免状も無試験。東京帝国大学を卒業しさえすれば、進路はひらけ、俸給も飛び抜けて高くなるよう仕組まれたのである。
 だから優秀な学生か殺到したのである。逆ではない。彼らが就職する、企業も特権を求めて鎬を削り「政商」と呼ばれた。後に複数の帝国大学がつくられ、これらの特権も縮小するが地位は揺るぎようもなくなっていた。

 学校は学生に教育を施し優秀な若者に育てて送り出すのではなく、始めから「優秀」な若者を「特権」で釣る事に力を注いだのである。封建社会の特権を廃止して、国民の権利を普遍化したわけではない。特権の再編を図ったのである。
  だから、江戸が東京になって大名屋敷は消えたが、相も変わらず不在地主たる華族の屋敷が並び、貧民街が隣接することになったのである。一つの屋敷には数人の華族身内の為に、彼らを世話する「僕」が300から400人もいた。そのほかに膨大な軍用地があった。軍隊がこれまた特権の塊、自己増殖する機構である。

  敗戦によって、これらは徹底的に解体される筈であったのに、特権はそれに固執する者たちに頑固に守られ、あっけなく再編されたのである。例えば、中等学校は新制中学・高校となり、男女共学制・総合制・小学区制の画期的変化をもたらすはずであったが、先ず地方の名門女学校や中学の流れをくむ学校が、卒業生の「過去の栄光」を懐古する心情に乗って復活した。東大の特権も、予算配分の圧倒的不平等という形で維持されたのである。こうして、教育基本法の理想は、とうの昔に文言の上だけになっていた。
  又、例えば検察の上訴・上告権は行政優位を温存して、冤罪の温床になっている。憲法上も。無罪判決に対して検察は上訴できない筈であるにも拘わらず、最高裁は検察に有利な解釈を続けて、世界の司法から大きく後退している。三権分立を有名無実化して、行政権の独断暴走を許しているものは他にもあるが根幹はここにある。
 これらは、戦前苦難を強いられた側が変革の主体として立ち上がる事がなかった事による。これも敗戦後における痛恨事の一つである。特権の廃止に失敗したわれわれは、権利を概念化できず、雇用者、国家、自治体、学校、の前で言葉を失ってしまうのである。それはおとなしさ従順性として記述され、逆転して国民を定義した。未だに高等学校は受験偏差値に頼り、難関大学指定校推薦枠や教委や文科省のSSHなどの「お墨付き・特権」を維持拡大して格差を高めようと画策するのである。まさに中毒である。国民の「平等で自由な学ぶ権利」は、学校経営・維持の前に余にも脆い。

  戒厳令下チリで貧民街は拡大し、貧民は権利を奪われ放置された。にもかかわらず、貧困・弾圧の元でも軍事政権批判を諦めなかった。それは『戒厳令下チリ潜入記』が貧民街で記録した、チリ民衆の言葉「我々にとって、問題は家とか食べ物とかではなく、我々に品位というものをとり戻してくれたことだ」「我々が欲するものはただひとつ、我々が奪われたもの、すなわち声と投票である」に裏打ちされた思想である。つまり、如何なる状況下でも、彼らは歴史の主体としての誇りを忘れない精神を維持している。

 戒厳令下の共同鍋や共同購入は、貧民街を食べさせるだけではない。女たちに「婦人の権利について語った唯一の大統領はアジェンデだった」と語らせ、何時男たちが「行方不明」になっても、闘いが継続するように結束させている。それが階級意識である。
 「我々にとって、問題は家とか食べ物とかではなく」と彼らは、清々しいまでに欲望から自由である。だから、如何なる者の特権も許さない。

  僕は思うのだ。敗戦後一切の収入が途絶えた時、祖母は五右衛門風呂を外し、港の専売局前で塩をつくって売って糊口を凌いだと言う。近所も親戚も同じように困窮した。だが何故、共同購入や共同鍋は試みられなかったのだろうか。 そのほんの一ヶ月前までは、飢餓状況にあって「一億総玉砕」と絶叫しながら、浜辺で竹槍訓練の先頭に立っていたのだ。集団・共同性が「お上」からの指示である時、我々は判断力を捨てて美しく「団結」する。それが「おおやけ=公」だと信じていたからだと思う。それでは「public」の概念は形成されないのである。自らを救う「公」的社会鍋を構想できないし、班長が威張り散らす「お上」からの共同はまっぴら御免なのだ。
  PTAも、主権者としての父母と教師の共同の権利を守る組織として意識される前に、「お上」の「おおやけ」の命ずる義務として機能して、母親を解放するどころか拘束してしまった。生徒会もクラスもそうなりやすい。放って措けばそうなる。

  戒厳令下チリに比べれば、大いに抵抗の余地はある。報道機関にも裁判所も大学も教師にも裁判官も記者も。無いのは「公」の概念と階級意識だ。

0 件のコメント:

コメントを投稿

もし、君の庭が貴金属だらけになったら

   夢のような幸運、たった一掴みでどんな贅沢も思いのままだ。ひとかけらの土も糞や汚物もない。大リーグ「大谷」の幸運は、さしずめプラチナか巨大なルビー相当だろうか。プロゴルフも競艇も競馬も囲碁将棋gamerもオリンピックplayerもその稼ぎ高が、画面や紙面を賑わす。それにつられ...