そこでどうかというと、なま若い僕がそんな気でつとめてきたことを僕は今あわれむが、持っているものを与えられたかどうか、まわりがそれを許したか許さなかったかとなればそれどころかだ。
自分全部を与えることが許されぬとわかった僕は五分の四の自分を与えようとした。それが許されぬとわかったときは二分の一を与えようとした。それが駄目とわかったときは三分の一、つぎは四分の一、つぎは五分の一を与えようとした。最後には何分の一でなくただ僕自身の僕による何かを与えようとした。
僕は慄然とする。五分の四を与えたと思ったとき他の五分の一を僕が与えなかったろうか。二分の一を与えたと思ったとき他の二分の一を、三分の一を与えたと思ったとき他の三分の二を与えなかったろうか。何分の一でなくて、せめてただ何かを与えようとしたとき全部を他で与えなかっただろうか。すくなくとも僕は - 戦争、戦争 - すべてが、他で与えられるのを見送ってきた。すべてを与えて逃亡する、その道が僕に道として与えられた。 中野重治『五勺の酒』これは、前blogで引用した部分の続きである。
フランスの狩りは、野性的である。ウサギや鹿を猟犬が群れで追いかけ咬み殺してしまう事から、ヨーロッパ各国の批判も強い。
その猟犬訓練が、興味深い。人間と親しむ為の最低限を教えたら、後の訓練は仲間の猟犬に任せるのである。人間が教えすぎれば、犬の持っている野生が損なわれる、そう考えるのだ。
教えすぎないことによって、彼らが元々持っている能力を損なわないやり方は、式や行事も生活指導もない学校生活が、青少年の要求調整機能や社会的政治的能力を損なわないことと結び付いていると、僕は考えている。日本でも敗戦後、教師たちがすっかり自信を失っていた時期、学生や高校生がいかに溌剌と行動していたかを、既に数多く紹介した。例えば←クリック
我々は「全てを与える」美しき衝動に囚われやすい。それは教師に限らない。食料補給も途絶えた密林で、マラリアに罹患しながら、仲間の人肉を口にしながら白骨になるまで前進するのである。国家に全てを捧げることと、家族のために全てをなげうつことを同一視して、それを「美しい」と思ってしまう。企業に殺されるのはマッピラと判断して、内部通告する個人が何時までも嫌われる所以である。
死にたくない、殺したくないという人間の根源的野生本能を、権威主義的「教育」が損ない塗り替えるのである。
この旧制中学校長の手紙は、更に考えねばならぬ事を含んでいる。