「生き生きする」とは

  「学校行事では、皆が普段とは違って生徒が生き生きしている」と行事の実践報告のことごとくが言う。無条件にその興奮を肯定する。
  「みんなマイナス1」と僕は言わずにおれない。パチンコ屋の軍艦マーチに手足の同期を促される事への嫌悪感、判断を放棄して雷同する心地悪さ。それは一体感として肯定出来る事なのか。
 1905年9月5日の日比谷の焼き打ち事件は、みんな生き生きしていたのではないか。 1943年10月21日には、雨の神宮の学徒出陣壮行会に陶酔してしまったのではないか。爬虫類的興奮と区別のつかないた高揚感によって結束を図るのはカルトであって、学校も行政もはあくまで非日常の中に活路を見出してはならない。
 長い時間をかけて静かにわき上がる知的充足感を、集団的興奮は暴力的に断ち切る。断ち切られた知的充足感は、容易には再現回復できない。我々はプラナリアではないのだ。
 知的・理性的成長は、集団的興奮の合間の断片的痕跡に過ぎなくなる。学ぶ場がそのまま集団的熱狂の場になる、熱狂を沈めるべき役割を担う場がその震源地になる。
 祭り的興奮は、地域と労働の現場が担うものである。学校は、地域や労働が失った文化的機能を代替してはならない。そもそも代替は出来ない。働く人々の労働時間や通勤時間を短縮して地域と文化をゆっくり回復すべきなのである。その代替を敢えて学校が行うことは、資本の搾取と地域解体への荷担水先案内をすることである。まさに地獄への道は善意で舗装されている。

  「年金を払うのは先の事だから今のうちにどんどん使ってしまってかまわない」国民皆保険制度が始まって間もない頃、低所得者の年金掛け金が諸外国に比べ異常に高いことを懸念する内部の声に、当時の年金局長が答えた言葉である。有り余った金で天下り先をふんだんに建設、乱脈経営にも掛け金をつぎ込んで次々に破綻させ、挙げ句の果てに二束三文で売り払ってしまった。今国民年金の加入率が低いのはこのとき掛け金を欧州並みに引き下げなかったためである。未来のために、制度設計を堅実に誠実に行うべき者が、一時的な高揚に酔ったのである。主権者から預かった資金で浮かれて巨万の赤字を出して、制度の危機を自然現象のように言う。万死に値する愚策であった。このときこの官僚たちを包んだ閉鎖的お祭り感情を思うべきである。
 日清日露の仮初めの勝利に酔っての集団的興奮は、アジア数千万日本三百万の死者、二発の原爆をもたらしている。日本の学校では、集団の安定高揚の為に年に数度の行事で一体感を演出する事が欠かせなくなってしまった、授業で青少年を魅了できないからである。それが新たな排外主義を不断に作り出している。
 例えばフランスの学校には、入学式も卒業式もない、文化祭も体育祭もない。
 日本の式や就活・部活などは、与えられた形式に従う事によって成り立っている。子どもや少年の成長や要求から湧き出たものではない。式や就活・部活などに占拠された環境では、少年は生きる主体としての自己を社会や歴史に位置づけて確認する事がない。常に受け身であることが歓迎される。
 式や就活・部活のない社会では、人は「自由の刑に処されいる」のである。だから高校生は、自分の判断で、連帯のために数十万のデモを組織出来るのである。

   ここで考えたい文章が在る。
 ・・・コロレンコの小説の、某という家庭教師だった。小説の名も忘れ、コロレンコでなくてゲルツェンだったかも知れぬ。 
 とかくそれはロシヤへやってきた渡りもののドイツ人青年家庭教師だった。ロシヤ貴族特有の半アジヤ的空気のなかで、身分の低い若いドイツ人が一心に子供を教えて、子供がまたなつく。馬鹿にされながら、居候あっかいされながら、子供を、持ってきたヨーロッパで教育して、師弟は学友になり、この師弟・学友関係がもうひとつ高い段階へのぼろうとするところである朝教師が逃亡してしまう。 
 私は君を私の能力の限界まで教育しました。これ以上君に教えることは私にありません。私はほかへ出かけましょう。こう置き手紙をして手ぶらで逃亡してしまう。どんなにその美しきが僕を打っただろう。おれの持ってるものを少年たちに与えてしまおう。そしたら逃亡だ。こうしてこの青年は、教師になった僕がたえずうしろ姿として行く手に見てきたものとなった。生徒たちによかった僕の評判には、この逃亡ドイッ青年の影響が実にあったろうと今思う。 ・・・ 

 これは『五勺の酒』の一節である。 この若い教師の行為を美しいと感じる教師がこの国には多いと思う。「限界まで教育しました。これ以上君に教えることは私にありません」と、全てを与える、生活の全てを感化せずにはおれない、稚拙な全能感が「先生」という言葉につきまとっている。 続く

  

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