「鬼畜のふるまい」と中野重治は書きつけた。さらに
「どれほど私などが、わが国そのものについて、わが足の下、頭の真上のことを知らなかったか・・・天皇を含む日本政府側が、どれほど露骨に、どれほど言葉のないところまで卑しく・・・」一度は参議院議員として誠実かつ目覚ましい活躍をしていた中野重治が「天皇メッセージ」を、この日まで知らなかったのだから、まして国民は殆ど知らなかった。
あれから39年目を迎えて、現天皇の沖縄訪問を報道は好意的に捉えるばかりで、「天皇メッセージ」との関わりの中で追求する粘りがない。だから沖縄の状況は膠着するばかりである。
『五勺の酒』は旧制中学の校長とその友人である共産党員の往復書簡として構想され、校長が書いた部分だけが短編小説になった。中野重治は校長にこう言わせている。
「このことで僕は実に彼ら(天皇一族)に同情する。このことでといってきちんと限定はできぬが、要するに家庭という問題だ。つまりあそこには家庭がない。家族もない。どこまで行っても政治的表現としてほかそれがないのだ。ほんとうに気の毒だ。羞恥を失ったものとしてしか行動できぬこと、これが彼等の最大のかなしみだ。個人が絶対に個人としてありえぬ。つまり全体主義が個を純粋に犠牲にしたもっとも純粋な場合だ。
・・・皇后は彼女の責任で太っているのではないのだ。こっち向きなさい。そこで笑ってください。写真屋の表情までの指図の図以外の何でこれがあるだろう。せめて笑いを強いるな。強いられるな。個として彼らを解放せよ。僕は、日本共産党が、天皇で窒息している彼の個にどこまで同情するか、天皇の天皇制からの解放にどれだけ肉感的折同情と責任とを持つか具体的に知りたいと思うのだ。
それは千葉県行幸で学校だの農業会だのへ行く写真だった。そして、あいもかわらぬ口うつし問答だった。しかしそのとき、僕はあらためて、言葉はわるいか知れぬがこの人を好きになった。少なくとも今まで以上好きになれる気になった。新聞が書くようにこの人は底ぬけに善良なのだ。善良、女性的、そうなのだ。声も甲高い。そして早くちだ。そして右ひだり顔を振って見さかいなしに挨拶する
・・・満洲国皇帝日本来訪のときのニュースを僕は思い出した。あのとき天皇は駅へ出迎えに行った。そして皇帝を迎えて握手をして、それから宮様連中へいちいち皇帝を紹介した。それが善良そのものの図だった。つまり、威張ることを知らぬのだった。・・・見ていてはらはらするほどそれが善良だった。・・・この人が、見えを張る、外見を気にする、威厳をつくろうというような点で普通人以下の感覚だったことを証拠だてていた。
・・・天皇を革命的に解放すること、そのことなしにどこに半封建性からの国民の革命的解放があるのだろう」中野重治は、党員から校長への返事を書きたいと思いながら果たせないでいた。「天皇メッセージ」を知って書かねばならぬ事が彼の脳裏を駆け巡ったに違いない。天皇メッセージは、「底ぬけに善良」「見ていてはらはらするほど善良」な者の行為などではあり得ない。作中人物に言わせた言葉であれ、作家としては書きっぱなしで済ませるわけにはゆかない。しかしこの時、彼に残されていたのは僅か4ヶ月だった。
彼が『五勺の酒』を書いたのは、1947年1月である。随分長い間後半部分を書けないでいたのだ。
彼が『五勺の酒』後半部分、党員から旧友校長への手紙を書いたとすれば、かなり面白い展開になっていたはずである。校長の手紙にこんな部分がある。
「・・・そこで聞きたいが、僕の学校にも青年共産同盟が出来た。大分まえに出来た。見ていて僕が気がもめてならぬ。
まずこんなことがあった。共産党が合法になり、天皇制議論がはじまると、中学生がいきなり賢くなった。頭のわるくない質朴な生徒、それが戦争中頭がわるかった。それがよくなってきた。ちく、ちく、針がもう一度うごき出してきた。中くらいの子供が、成績があがるのとちがって賢くなった。
ある日クラス自治会をつくることで教師、生徒議論になったことがあった。そして衝突した。生徒は自治会は自治的につくらねばならぬ、先生は入れぬ形にせねばならぬと言いはった。教師は、それはいかぬ、監督の責任上入れてもらわねばならぬと言いはった。
生徒は、それは教師が各クラス自治会の常任議長になることだ、教師聯合が自治会を指導しようというのだという。教師は、自治会を圧迫する気は毛頭ない、しかし指導・監督の責任はどこまでも負わねばならぬという。とど教師側でおこってしまった。それは責任を負うことの拒香だ。責任を放棄するのがどこが民主主義だといわれて生徒側がへこんだ。教師側に圧迫する気がなかったことは事実だ。ただ判断は僕にできなかった。
僕に気づいたのは、腹を立てたのが教師側だったこと、腹を立てなかったのが生徒側だった新しい事実だ。教師側は立腹して、生徒を言いまくり、やりつけた。この点になると教師側は一致していた。生徒側はばらばらだった。ただ彼らは、腹を立てずに、監督の責任が別の形で負えることを教師たちに説明した。特に非秀才型の生徒が、どうしたら教師側にうまくのみこませられるか手さぐりで話して行ったのが目立った。・・・」「『五勺の酒』の中の少年たち」参照←クリック戦争中頭がわるかった生徒が、いきなり賢くなった。いきなり賢くなるような能力持つ生徒を、頭のわるい生徒に造り替えてしまったのが、天皇制である。考える事を得意とする少年にとって、国体の本義や八紘一宇などほど気の滅入るものはない。悪逆非道を働いた戦争指導者の戦争責任が問われるように、少年たちを素直な地獄の鬼畜に仕立て上げた教育の責任も問わねばならないからである。これは書きにくい事だったと思う。
僕が教師になり立てで教研にのめり込んでいた1970年代中頃、社会科教育の世話人会でこんな事があった。僕が、戦争の悲惨と被害だけではなく、日本の加害とその責任について積極的に取り組むべきだと主張した。当然賛同を得られると思っていたが、歴教協の活動者らしい教師から「無茶だ、まだ関係者は生きている。古傷を暴いては、国民の支持を得られない」という反論があって、僕は魂消たのである。1972年日中国交回復で、中国政府の「悪いのは日本の戦争指導者であって、その他の国民は皆戦争被害者である」との強烈なアピールは、彼らには絶好の援軍だった。
教師の教育責任を問う事は、教師の広範な支持を失いかねない。そんな判断が元国会議員作家に在っても不思議ではない。 続く
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