十万の労働者が月十銭の会費で、労働文化協会を組織しているんだというと、誰でもほんとか、といって驚く。 広島県ではこの夢のような組織が、十一月で一年の誕生日を迎えようとしている。 この協会が夏期大学をやろうとして、二十一名の大学教授連を二十二カ町村へ送り込もうと計画した時は、何か私は、大海戦にでもぶつかるように腹の底で煮えるものがあった。 計画の噂さが村から村へ伝わると、いろいろの青年が私のところへやって来た。瀬戸内海の小さな田島の漁村から二名の青年がやって来た。 そして、私達の計画の中の平野義太郎、羽仁五郎をよこしてくれという。「青年のメンバーは何人位いるんだ」「今のところ二十五名です」という。しかも、一コースの六名の講師三日間をソックリよこせといってきかないのである。少し無茶な話なのである。しかも、鰯が来襲したら聴衆はなくなるというのである。それでも、「私達漁村に先生達が一週間位いて研究して下さるべきでしょう」といって承知しないのである。 私は「ようし、漁村の青年組織を一度実験の中にぶち込んでやろう」と考えたのである。 「よし。講師の費用はこちらが全部持ってやるから、講師にうんと魚を喰わしてくれ」 この言葉に青年は、文字通り蹶起したらしい。蓋をあけてみると、四百名の男女の青年が見事に三日間の講座を持ち、講師の費用も意気揚々と持って来たのである。四百名の村をこぞっての青年達が、村を完全に支配して、女の子は料理を、青年は組織を、と動く有様を講師達は帰って、実に愉快そうに話して聞かすのであった。それはどんな祭りよりも、盛んで、青年のものであり、男女が聴いたこともない真理の激しさに胸をときめかしながら、一つの組織の中に融けることは、実に青年達にとっては一つの驚きでもあったらしい。 中井正一 1947年11月の「青年文化」
「ある瞬間がくるまではびくとも動かない岩の扉が、ある瞬間が来ると突如として開くときがある。しかしそれはただ自然に開くのではない。一本の小指の力でもいい、運動を起こす力が加わって、始めて歴史の扉は開く。その一本の小指となるもの、それが君たちインテリゲンチアだ」
中井正一が学生に語った言葉である。
彼は1933年、滝川事件で文学部学生として活動。以後、日本のファョ化に抗して、久野収、新村猛、和田洋一、真下信一、武谷三男らと『世界文化』を再創刊、国際的な反ファシズム文化運動の紹介した。1937年、週刊新聞『土曜日』を創刊。11月、新村、真下らと共に治安維持法で検挙された。
中井正一は「きれい」を考えた哲学者である。僕は中井に「私達漁村に先生達が一週間位いて研究して下さるべきでしょう」といって承知しない青年たちの行動を「きれい」だと思う。それを聞いて「ようし、漁村の青年組織を一度実験の中にぶち込んでやろう」と考えたのである。「よし。講師の費用はこちらが全部持ってやるから、講師にうんと魚を喰わしてくれ」と応じた中井正一らの決意も「きれい」である。
敗戦直後の農山漁村青年たちの学習意欲と行動力の高揚は、発足直後の新制高校生たちと軌を一にしている。農山漁村古い封建的体質と闘う中で鍛えられた若者であった。
僕はこれらの若者と学区最底辺と呼ばれたKH高の生徒たちの学習意欲が、非常に似ていると思う。ある時KH高で授業中に「先生が、早く此処に来なかったのがいけない」と攻められた事があり、僕は立ち往生して言葉を失ってしまった。 中井の言葉を僕は授業で頻繁に引用していたから、「一本の小指」となる決意の不徹底を詰られて黙って項垂れるしかなかった。
「私達漁村に先生達が一週間位いて研究して下さるべきでしょう」とインテリゲンチャに向けられた鋭い問いかけは、68年の学生闘争を先取りして乗り越えている。草の根インテリゲンチャを自称した高校教師たちは、この問いにもっとも実践的に対応出来る立場にいたが、反応は「一本の小指」らしい「きれい」の片鱗もなく鈍かった。鈍かったと言うより逃避したと言った方が正しい。中井は引用した文章に続けて「都会で論争と喧嘩ばかりしてる講師達が、どうして、この青年達の真中に飛込んで来てやらないのか。村は、村から村へ、反動攻勢のボス連の焼き打ちにかかって、次から次へ燃えてしまって、焼け落ちていっているのに」と悔やんでいる。これらががKH高のような底辺校を日本各地に産んだのであると思う。
フィンランドやキューバの生徒たちの学力分布曲線と日本のそれの、最も際立った特徴は、フィンランドやキューバでは底辺部分がないことである。トップの部分は変わらないが、学力の底上げが徹底している。国家の学力に対する構えが如実に表れている。最底辺は政策的に作られているのである。それに対して我々の闘いは徹底性を欠いている。