地方青年の学習意欲と組織力、1947年のある報告

 十万の労働者が月十銭の会費で、労働文化協会を組織しているんだというと、誰でもほんとか、といって驚く。                                                             広島県ではこの夢のような組織が、十一月で一年の誕生日を迎えようとしている。 この協会が夏期大学をやろうとして、二十一名の大学教授連を二十二カ町村へ送り込もうと計画した時は、何か私は、大海戦にでもぶつかるように腹の底で煮えるものがあった。 計画の噂さが村から村へ伝わると、いろいろの青年が私のところへやって来た。瀬戸内海の小さな田島の漁村から二名の青年がやって来た。         そして、私達の計画の中の平野義太郎、羽仁五郎をよこしてくれという。「青年のメンバーは何人位いるんだ」「今のところ二十五名です」という。しかも、一コースの六名の講師三日間をソックリよこせといってきかないのである。少し無茶な話なのである。しかも、鰯が来襲したら聴衆はなくなるというのである。それでも、「私達漁村に先生達が一週間位いて研究して下さるべきでしょう」といって承知しないのである。 私は「ようし、漁村の青年組織を一度実験の中にぶち込んでやろう」と考えたのである。 「よし。講師の費用はこちらが全部持ってやるから、講師にうんと魚を喰わしてくれ」 この言葉に青年は、文字通り蹶起したらしい。蓋をあけてみると、四百名の男女の青年が見事に三日間の講座を持ち、講師の費用も意気揚々と持って来たのである。四百名の村をこぞっての青年達が、村を完全に支配して、女の子は料理を、青年は組織を、と動く有様を講師達は帰って、実に愉快そうに話して聞かすのであった。それはどんな祭りよりも、盛んで、青年のものであり、男女が聴いたこともない真理の激しさに胸をときめかしながら、一つの組織の中に融けることは、実に青年達にとっては一つの驚きでもあったらしい。                    中井正一  1947年11月の「青年文化」


  「ある瞬間がくるまではびくとも動かない岩の扉が、ある瞬間が来ると突如として開くときがある。しかしそれはただ自然に開くのではない。一本の小指の力でもいい、運動を起こす力が加わって、始めて歴史の扉は開く。その一本の小指となるもの、それが君たちインテリゲンチアだ」

中井正一が学生に語った言葉である。
 彼は1933年、滝川事件で文学部学生として活動。以後、日本のファョ化に抗して、久野収、新村猛、和田洋一、真下信一、武谷三男らと『世界文化』を再創刊、国際的な反ファシズム文化運動の紹介した。1937年、週刊新聞『土曜日』を創刊。11月、新村、真下らと共に治安維持法で検挙された。
  中井正一は「きれい」を考えた哲学者である。僕は中井に「私達漁村に先生達が一週間位いて研究して下さるべきでしょう」といって承知しない青年たちの行動を「きれい」だと思う。それを聞いて「ようし、漁村の青年組織を一度実験の中にぶち込んでやろう」と考えたのである。「よし。講師の費用はこちらが全部持ってやるから、講師にうんと魚を喰わしてくれ」と応じた中井正一らの決意も「きれい」である。

  敗戦直後の農山漁村青年たちの学習意欲と行動力の高揚は、発足直後の新制高校生たちと軌を一にしている。農山漁村古い封建的体質と闘う中で鍛えられた若者であった。
  僕はこれらの若者と学区最底辺と呼ばれたKH高の生徒たちの学習意欲が、非常に似ていると思う。ある時KH高で授業中に「先生が、早く此処に来なかったのがいけない」と攻められた事があり、僕は立ち往生して言葉を失ってしまった。 中井の言葉を僕は授業で頻繁に引用していたから、「一本の小指」となる決意の不徹底を詰られて黙って項垂れるしかなかった。
  「私達漁村に先生達が一週間位いて研究して下さるべきでしょう」とインテリゲンチャに向けられた鋭い問いかけは、68年の学生闘争を先取りして乗り越えている。草の根インテリゲンチャを自称した高校教師たちは、この問いにもっとも実践的に対応出来る立場にいたが、反応は「一本の小指」らしい「きれい」の片鱗もなく鈍かった。鈍かったと言うより逃避したと言った方が正しい。中井は引用した文章に続けて「都会で論争と喧嘩ばかりしてる講師達が、どうして、この青年達の真中に飛込んで来てやらないのか。村は、村から村へ、反動攻勢のボス連の焼き打ちにかかって、次から次へ燃えてしまって、焼け落ちていっているのに」と悔やんでいる。これらががKH高のような底辺校を日本各地に産んだのであると思う。

  フィンランドやキューバの生徒たちの学力分布曲線と日本のそれの、最も際立った特徴は、フィンランドやキューバでは底辺部分がないことである。トップの部分は変わらないが、学力の底上げが徹底している。国家の学力に対する構えが如実に表れている。最底辺は政策的に作られているのである。それに対して我々の闘いは徹底性を欠いている。

反安保のデモ隊列に小学生がいた頃

 1960年国会議事堂をとりまいた反安保のデモの隊列に数人の小学生がいて、マスコミに取りあげられ話題となった。川崎市立住吉小学校の児童たち。このデモ参加の子どもたちの声を集めて、ラジオドラマがつくられた、そのドラマへの子どもの出演をめぐって、親たちの意見は真二つにわれた。子どもたちがデモに行ったことに対する可否である。しかし結局はすべての親が子どもたちのデモ参加、そしてラジオドラマ出演を認めた。担任の論理は鮮かであった。
 「デモに行こうとスーパーの特売に行こうと、とにかくそれらをふくめて子どもの主体的な行動なのだから、それから目をそらすようなことは親としても教師としてもすべきでないと思う。あれは子どもらしいからよい、これは子どもらしくないからいけない、というような、おとなの一方的な価値判断で子どもの行動をしはるのは間違いだ。とにかく子どものやることをじっくりと観て、子どものいいぶんをちゃんと聴こうではないか。そうしなければおとなは、いつも子どもたちに、わかっちゃねえな、と軽蔑されるだけなのだ」 担任は阿部進。
  エンデの『モモ』に、子どもたちが時間を返せとデモする場面がある。現政権に依ればこれも政治活動だろう。
 シュミットによれば「主権者とは、例外状態にかんして決定をくだす者」をいう。例外状態において投票とは何か。発足間もない新制高校生の諸活動。質量ともに教師の思惑を遙かに超えるていた。この頃の高校生はまさに「例外状態にかんして決定をくだす者」であった。彼らに模擬投票や主権者教育を語りかける者があったとすれば、高校生は何と答えただろうか。川崎市立住吉小学校の児童たちはどう反応しただろうか。

今授業を聞いているこの生徒たちの中に、自分より優れた者がいるかも知れない

  ワークシートとは何か。教師仲間から手渡される度に、胡散臭さを感じる。様々な点数実績を稼ぐ便にはなるだろうが、余計なお世話である。きれいに整理され役立つ板書を、厳しく非難した生徒を思い出す。ワークシートを要求もしないのに持ってきて、「どうだ素晴らしいだろう」と言わんばかりに「これで授業を揃えませんか」と催促する教師は少なくない。授業だけではない、清掃や面接に至るまで実に鬱陶しい。
  今授業を受けているこの教室中に、自分より優れた者がいるかも知れないという想像力がまるでない。そういう存在が何人もあって、自分のお陰でその能力を日々潰している可能性を常に意識しておく必要がある。目の前の者たちは、自分の教えを受けるに相応しい劣った能力しか持ち合わせていないだろうという幼稚な傲慢さを含んだ予断がある。
  自分の矮小なひな型を大量生産するのである。チェーン展開して大量生産大量消費に向かった食べ物で、成功した例はない。
 我々の授業は、豊かな想像力を持ったひとり一人の生徒の「作品としての学力・教養」の素材にすぎない。作品そのものは生徒自身の創作として現れる。

 ワークシートでは学習内容の全体像が予め設計され、生徒は指示された箇所を埋めるだけである。肝心なことは、生徒ひとり一人の個性溢れる「ワークシート」の作成と出来上がった「作品」の交流と相互批評である。 我々は我々の授業が、生徒の中でどのように発展定着するのかを見たいと思うのである。画一化された百点に向かって収束する「学力」ではなく、拡散して相互交流しながら豊かさを増すものを待ちたい。

  ワークシートには聖書や聖典に似たところがある。先ず、それを普及せずにはおれないこと。地球規模で特定のワークシート集の普及を目指す財団さえある。そこではワークシートを造る部門と普及する部門は分けられ、生徒に直接教えることはしない。二つ目は、それを貰って授業する者に、そのワークシートを修正改良することは許されないことである。まさしく、「教えの書」である。資金の出所を確かめずにはおれない規模になるものもある。
  いくら優れた授業であっても、典型化・マニュアル化される中で最も重要な部分を捨ててしまう。「典型」からの逸脱を許容しない向きがあるが、笑止千万である。授業は宗教ではない。

旧制中学が新制高校に切り替わるときに中等教育を受けた作家の証言 2

                                                                                                                                   承前
  旧制中学から新制高校への過渡期の山中恒の経験を、前回引用したが、その前後を紹介する。
 「・・・十五年にわたる戦争が敗北で終結したのは一九四五年で、当時私は一四歳一か月で北海道庁立小樽中学の二年生であった。その間、天皇制イデオロギーの狂信的軍国主義教育を受けてきた私は、この<敗戦>という想像もしなかった(いや、心の片隅では「ことによると…」と若干の危惧は抱いていたが、建前的にはそれを否定し続けてきた)ことが現実となったとき、どうしてよいやら途方にくれでしまった。 
 いままで受けてきた教育の精神からすれば、これは当然、死して天皇に詫びねばならぬ事態と観なければならなかった。だから私は本気で自決することを考えたりもした。しかし途方にくれているうちに、ひるむ心がでてきて、一まず私たちをそのように訓育し錬成してきた教師たちが自決してからでも遅くないと日和見始めた。私たちや教師は誰ひとり自決などしなかった。そのとき、だまされたと思った。それからというもの、私は教師を初めとして私たちをそのように訓育したおとなを疑いの目で見るようになった。 
 私たちは学校へ戻ったが、ほとんど授業らしいこともなく、教師たちは職員会議ばかりで、教室へ出てくるともっぱら雑談し、そのなかで自分たちも為政者にあざむかれていたと言いだし、いつのまにか被害者の席へにじりよってしまった。その教師が権威をもって指示したのが、教科書の墨塗り作業であった。 それまで私は両親と離れて暮していたが、それを機に両親のところへ戻り、学校も庁立岩見沢中学へ転校した。ただし私にとって学習は魅力のあるものではなかった。 
 けれども授業は教科書がないので、教師たちが各自に自主教材のプリントを配布し、極めて個性的で、それが面白かった。 そのあたりから、予科練や特幹など軍隊へ志瞬していた上級生たちが復学を始めた。彼らは学校に対して軍国主義一掃、学園民主化を要求したが、下級生に対しては旧態然とした態度で相変らず暴力的に服従を求めていた。その時期、まだ欠礼したといって下級生を殴る上級生がいたし、態度がでかいといって呼び出されて私刑された下級生がいた。それに対して教師たちは、自分たちが果たしていつまで教職にとどまっていられるだろうかといった不安(この時期、占領軍は戦争犯罪人の追及を始めていた)やら、明日の食糧を入手する算段に日常的に追われていて、そうしたことにかかわりを持たぬよう、見て見ぬふりをした。私はこの上級生たちが在校しているうちは学園の民主化などできるわけがないと思っていた。同級生のなかには、これらの上級生の言動に同調するものもいたが、多くは私とおなじようにさめていた。 その後、私は更に転校し、もといた神奈川県立秦野中学に戻り、一九四七年春には中学四年生になった。この学校の所在地は、いまでこそ首都圏にはいり、東京への通勤圏内としてかなり開発されたが、当時はまだ、「いなか」であった。なにしろ、近くの農家の老人が敗戦を認めず「なに東條さんにかわって松川さん(マッカーサーのこと)が総理大臣になっただけだ」などとうそぶいていたのである。 ここでも相変らず上級生が猛威をふるっていたし、学校も北海道の中学にくらべて、東京に近いにもかかわらず、戦時下とあまり差のない教育をしていた。やはり教師の体罰は日常的であったし、生徒自治会とは名ばかりで、戦時下の学友会と質的にはかわらない学校の意向を伝達するだけの機関だった。年輩の社会科の教師が歴史を教えるのに、彼が師範学校時代に使ったノートで授業し、私がそれは皇国史観によるもので、おかしいのではないかと抗議しても、「歴史というものは、古い世代が新しい世代に伝えていくもので、自分たちが習った歴史を教えて、なにがいけないのですか?」と大まじめに反問し、「もし、なんだったら、きみが私のかわりに講義しますか? 講義を受けてもよろしいですよ」という始末であった。それからまもなく、私は上級生の呼び出しを受けて「授業中でかい面をしないほうがいい」とおどされた。私のことを聴いて自発的におどしをかけたものやら、件の教師に頼まれたものやら、その辺は不明であったが、以後、私はその教師に侮蔑感しか持たなくなった。 
 そして翌一九四八年新制高校制度が実施され、私たちは高校二年に編入された。上級生の過半数が旧制の中学制度で卒業していったし、残って高校三年生に編入されたものは、以前のような横暴な上級生ではなかった。むしろ私たちと組んで学友会の新しいクラブの創設やら、校内誌の創刊やらを計画するようになり、私たちも彼等とニックネームで呼び合うようになった。それでも学校当局は生徒自治会の役員には最上級生の成績優秀、品行方正と目される生徒を揃え、管理をおさおさ怠らなかった。私たちの学校以外のあちこちの高校では生徒自治会と学校当局が対立し、いろいろトラブルをひき起こしていたが、私たちの学校は無風状態であった。たまたま弁当箱を〝赤旗〃に包んできたといって、例の歴史の教師にこっひどくお説教された上級生もいたが、これも教師がどんな顔をするか反応を見るための茶目つ気でやったもので、やられたほうもあまり問題にしていなかった。 
 一九四九年、私たちは高三生になった。私にとっては、ようやく我が世の春が巡ってきた感じであった。そのころ、私はすでに占領軍命令で体練科の武道が廃止されたのを期に古手の教師たちが柔道場のたたみを勝手に処分したことを聞きこんだ。なにしろ物のない時代であった。私はそれを材料に、わざと学校側のスパイといわれていた教師の耳にはいるように、「問題にしてやろうか」とゆきぶりをかけた。たちまち私は応接室へ連れこまれ、教頭からしつこくその事情を説明された。そして「よその学校では、いろいろ生徒との間にトラブルがあるようだが、本校はそれがないということでうらやましがられているのだから、無用の騒ぎを起こしてくれるな」と懇願された。 そのことは却って私に自信をつけさせた。いろいろな情報がはいってきた。私はそれを武器に学校蔵書の閲覧許可や、楽器など備品の生徒使用の緩和などを要求し、同時に生徒自治会の自主運営を主張、立候補にょる選挙制を要求した。学校は私が当然立候補するであろうと危惧していたので、私は立候補の意志のないことを表明した。そして私と行動を共にしていた親友に立候補をすすめた。彼もその意志があり、選挙のふたをあけると圧倒的な得票で当選した。彼には親分肌のところがあり、面構えとは逆に下級生の面倒見もよかったし、ときどき奇行をやらかして人気を集めていたこともあって、あいつを自治会長にしたら、なにか面白いことでも起こるのではないかという期待が票につながったのである。 彼が自治会長に就任してからの活動は目ざましかった。立候補しなかった私は役員でもなんでもなかったが、彼の相談役として、さまざまな助言をした。暴力教師を自治会の名で追及し、謝罪させたこともあった。個人名で学校をアドレスにして送られて来る信書を学校が検閲していたことも追及し、以後それをやめさせた。いま思い出しても呆れることは、学校に自治会活動の専従を認めさせ、しばしば授業中に会議を招集したりしたことである。 私たちほ下級生からの苦情相談も引き受けた。暴力教師の言動は細かくチェックし、緊急総会で学校に釈明を求めたり、学校図書の購入の選択権も生徒側のものとした。校内誌・紙の編集に関しての学校の干渉も拒否した。開校以来、男子生徒禁制を誇っていた隣接の女子高校へ押しかけ合同クラブ活動の許可をとりつけたり、共同機関紙の発行を認めさせたりした。 それまで恣意的に暴力を振っていた教師は戦戟恐恐として、行動をつつしむようになった。生徒の読書傾向に干渉していた教師も余計なことをいわなくなった。共同募金活動も緊急総会にかけ、学校の要請を拒否した。私たちは一度もストライキなどしなかったが、学校側は自治会に一目置くようになった。学校に初めて戦後が来たという感じであった。尤も私たちはなにも法外な要求を出したわけではなかった。もちろん学校の主催する行事に協力してこれも盛りあげた。 
 教師たちのなかにも年齢的に私たちに近い人がいて、彼らも秘かに私たちを支援してくれた。 授業の面でも面白いことがあった。英語の教師が足らず、社会科の若い教師が英作、英文法を教えることになり、「はっきり言っとくが、俺は専門家じゃないから、なにを教えるかわからない。お前たちが責任をもって監視してくれないと間違ったことを教えるかもしれない。おかしいと思ったら、どんどん異議を唱えろ」と物騒な発言をし、私たちも「まかせてくれ」というわけで、教師と生徒が一体となった研究会のような授業になった。みんなでひとつの例題に悩み、にっちもさっちもいかなくなった。「しょうがない、専門家に聞いてこよう」などと彼が教室をとびだし、先輩の英語教師に質問に行ったりした。そして戻って来ると「こんなことがわからないのかとばかにされたぞ。お前ら、俺に恥をかかせないように知恵を絞って勉強してきてくれよなあ」と大まじめにいって私たちを爆笑させたりした。いま、高校でこんな教師がいたら大問題にされるだろう。しかし、いま考えてみるとこの授業がー番張りがあり、実力がついたような気がする。いまは県立高校の校長をしている彼が「あのときほど楽しいことはなかった。あれは青春だったなあ」と語ってくれたことがある。 
 そのころレッド・バージの旋風が吹き起こり始めていたが、私たちが格別、政党色を出さなかったことや、戦時下の中学教育を一年以上受けた最後の学年ということもあって、学校は私たちに当らずさわらずであった。あとで聞くと「どうせあいつらは、あと半年で学校へ来なくなり、卒業して行くのだから、少しの辛棒だ」とおさえていたということである。 事実、私たちが卒業したあとの学校側のしめつけは厳しく、後に後輩たちから、先輩たちのやり過ぎのつけを廻わされてえらく迷惑したといわれてしまった。そのつけは私個人にも廻わってきた。教師たちが連名で、内定していた私の就職先へ投書を送り、そのために私の就職は取りけされてしまった。 いま思い返してみると、文部省は占領軍との折衝にあけくれ、学校はつぎつぎ送られて来る通達に追いまわされていたし、教師たちも生活苦が前面にあって、生徒たちを本気で管理するところまで手が届かなかったのではないかと思う。それはほんの僅かな期間であったが、私たちは輝くばかりの自由を謳歌することができた・・・」                                     『戦後日本教育史料集成 第二巻 新学制の発足』  月報 2  山中 恒 「そのときエア・ポケットのように輝くばかりの自由があった」 

                 

 敗戦で生徒は「・・・教師たちが自決してからでも遅くないと日和見始めた。私たちや教師は誰ひとり自決などしなかった。そのとき、だまされたと思った」そして教師たちまでが「自分たちも為政者にあざむかれていたと言いだし、いつのまにか被害者の席へにじりよってしまった」
  あれだけ傲慢を極めた首相や官房長官が急に国会でしおらしくなった。二つの選挙で負けて、漸く国民と自分たちが対等なのかも知れないと悟り始めたからである。自由な自治に欠かせないのは、この対等な関係である。関係が対等に近づいただけで教師たちは脅え自信を失い、その結果「張り」が出て「実力」がついたのである。類似の証言は内外にあふれている。
   しかし 山中恒の証言にあるように、関係性に緊張が欠けるや「学校側のしめつけは厳しく」なり「就職は取りけされてしま」うのである。

東京のまんなかで米兵が日本人を濠に投げこんで殺したという事件があった。

 「松川事件第二審判決(1953年12月22日)に前後して、東京のまんなかでアメリカの兵隊が日本人を濠に投げこんで殺したという事件があった。濠へ投げこむ事件は二回つづいた。両方とも、ことに殺されたほうの場合は、日本人が非常にたくさん現場にいあわした。そして殺したほうは何ものにも邪魔されずにゆうゆうとその場を立ち去って行った。 この人殺し犯人はまだつかまっていない。このときの東京の新聞の調子は忘れられぬ種類のものであった。なかでも目についたのがこういう調子だったことは覚えている人が多いと思う。 「あれはただのいたずらだつたのだろう。人を穀そうという意志があってしたのではあるまい。」 私もそう思う。そしてそれだからこそそこに問題がある。穀そうと思って穀したのならば、それは相手を、犯罪としてではあるが人間として扱ったことになるだろう。たとえ小猫一びきでも、全く無理由に水に投げこむということは人間にできるものでない。殺そうという意志もなしに、全くのいたずらとして、小石をでもほうりこむように二人の日本人を濠へ投げこんだこと、ここに、日本に来ているアメリカ人たちの真底からの日本人蔑視がある。このことに目をむけないで、ただのいたずらだつたのだからあまり腹を立てるなというところへ話を持って行こうとすること、これを日本の大新聞がやっていること、ここに、日本の「独立」の性格のこういう大新聞への奴隷的な反映がある。あのとき数寄屋橋には日本人の群集がいた。この群集は、武器も持たぬらしいくだんのアメリカ人をつかまえようとも引きとめようともしなかった。けれども、これは想像になるが、だれか日本人が別の日本人を濠へ投げこもうとしたのだったならば、あの群集はたけりたってその男になぐりかかったのではなかつただろうか」 「われわれ白身のなかの一つの捨ておけぬ状態について中野重治全集第13巻


  ある夏、僕は日本の戦争責任について授業していた。
  1945年9月2日のベトナム民主共和国独立宣言文にある、「昨年から今年にかけて、北部ベトナムでは200万人が餓死した」から始めて、ベトナム農民が、1943年から3年間、北部ベトナムの自分の村、近在の村々で、その目で見て、書きとめておいたことを取り上げた。
 授業の途中から、年配の教師が廊下から身じろぎもせず聞いている。終わって廊下に出ると近寄ってきて「あなたに聞いてもらいたいことがある」、互いに次の時間が空いているので、社会科教室に入って話を聞いた。
 「さっきの授業で何か間違ったことを、僕は言いましたか」
 「そうではありません。授業は素晴らしいものでした。つい聞き入ってしまいました。そこを見込んで、話を聞いてほしいのです。今まで誰にも話したことはないのです。聞いてもらえますか」先生は、著書もあり、専門分野の番組にも定期的に出演していた。僕は抗議や苦情でないことにホッとした。先生の話はおおよそ次のようなことであった。

  先生は満州で少年時代を過ごした。街には満鉄の駅があり、川を境に駅側の清潔な市街地に日本人が、川向うの雑然として不潔な家並みに中国人が住んでいた。日本人の街路は街路樹を植えた通りに煉瓦造りの建物が並び、日本の都会より立派だった。日本人たちはそこで水洗便所・暖房完備のうちに住み、中国人を女中や運転手として雇って生活していた。川には橋が架かっていた。日本の少年たちは、遊びに飽きると川向うの中国人街に入った。中国人たちは日本人とのトラブルを極端に恐れて、卑屈なまでに敬意を示した。警察自体が日本の支配下にあり、どんな場合であってもばつを受けるのは中国人であったからだ。それが面白くて中国人少年を捕まえては乱暴を働いた。時には橋のこちら側まで引っ張ってきて、わざと向こう側からよく見える樹に縛り付けて弄んだ。肥後の守で顔や腕を傷つけると、中国の少年も川向こうの大人たちも泣き喚く。先生意気地のない弱虫だったがいつの間にか、酷い悪さを笑いながらするようになったと言う。植民地支配は何処にでもいるような普通の少年を鬼に変える。小日本鬼子という言葉はこうして生まれた。
 

  中国の日本人戦犯裁判を授業で取り上げるとき、僕は必ずこの話を交える。日本人戦犯たちの証言や中国人の証言の生徒たちへの伝わり方が断然違ったのである。

ベトナム民主共和国独立宣言文には 「昨年から今年にかけて、北部ベトナムでは200万人が餓死した」との記述がある

 ベトナムの独立宣言は1945年9月2日。その中にこう記されている。
 私たち民族はフランスと日本という二重の枷をかけられたのです。そのときから、私たち民族は、日増しに困窮し、貧困にあえぎました。その結果、ついに昨年末から今年の初め、クアンチから北部にかけて、200万人の同胞が餓死しました。
200万人の餓死は何故起きたのか、人々は如何に苦しんだのか。1956年サイゴンで出版された記録がある。 「子供を棄てた父」  後藤均平訳『季刊三千里』に掲載


 「水呑百姓だがヴォクさん一家はなんとか暮らしていた。三十歳前後のこの夫婦には、子供がもう六人もいた。ヴォクさんは頑健で、クワを取っても田植えでも刈りとりでも、どんな農作業でもなんでもござれ。だから仕事にあぶれることはまず無かった。 奥さんがまたかしこくて、村の日傭い詰所にゆくと、みんな彼女を傭いたい、という働き者。夫婦とも一日中そとで働くから、家の雑事はみんな一ばん上の娘のスオンが受け持った。 
 スオンは、弟妹のめんどうをみたり、掃除、洗濯、お粥たき、母さんからいいつかったことはなんでもする。キツいはずだがなにひとつ不平を言わぬ。彼女はきっと、他のひとが考えるほど、やってることが苦しいとは知らないのだ。だから無邪気に毎日家の仕事に精を出していた。 
 刈り入れ時は、子供たちには天国だ。大人の刈り入れ唱をききながら、田んぼを走りまわって、ハスの花をつんだりイナゴを追ったり。日暮れになるとさすがにくたびれて刈り草にころがり、あとは小川で水あそび。そして夜は、大人が月の光りのなかでモミを篩う作業をみつめる。村の子供たちはしあわせだった。 
 だがスオンはいっしょに遊べない。彼女は、キセルを持って田の瞳で号令をかけてるオジさんたちに、ごくろうさんと一服すすめる。それから許してもらって田んぼにおりて、落ち穂を拾う。家に帰ってモミガラをむき、コメを乾かす。それを母さんが糸に換える。 
 ヴォク夫妻は子供たちをかわいがった。仕事をおえて夕方家に帰ると、奥さんは三人の娘を池で浴びさせる、ヴォクさんは息子たちを川につれてってカラダを洗う。そして寝る前に子供たちは、冷やメシを一杯と、おかずはゴマと小さなナスビだけれど、これでみんなは満足していた。 夫婦は毎朝四時に起きて、村の詰所に行き、働き場所が決まるのだ。太陽が昇る頃、朝メシを食いながらその日の仕事の打ち合わせ。太陽が頭の上に来たら、傭った方も傭われた方も昼メシにして、一時間休んでまた働いて、日が沈むころ日当をもらってそれでおしまい。特別手当にコメを一合もらう。これが土地なき農民の日々だった。
 1944年の九月の洪水のあとで、もうすぐ飢饉がくる、と夫婦にはわかった。話し合った「仕事が無くなるかも知れん。これからは、おカユを食べて出かけよう。そうすりや晩にもらうコメが貯められる」。 
 十月になった。毎朝早く詰所に行く夫婦が、そのままクワをかついで帰ってくるようになった。 十一月、十二月になると、村人たちがバタバタ死にだした。しかしヴォクさん一家はまだ無痕だった。 明けて1945年のはじめに、一家は末娘を失なった。二歳だった。父と母は心臓を切られたようにうめき泣いた。数日ご、四つの男の子が死んだ。ひ弱なたちで、夫婦がいちばん心配していた子だった。バナナの樹の根っこをヌカといっしょに食う何カ月かのあげく、子供はこれ以上生き延びれなかったのだ。それでも、この子が死んだだけ一家の口にするものがほんの少しでも助かったというのか。いやちがう、このとき貯えてきた食い物は底をついていた。村の水田は死んでしまっていた。バナナの根さえ、掘りつくされた。たまにひと握りのコメが手に入っても、六等分にわけた。で、食べた気がしない。 このままゆけばあと二、三日でまた子供を墓に入れねばならぬ。父の胸は暗い。妻に言った、「こんなぐあいで食いモノをわけたら、みんな死ぬ。いちばん先におれだ。四人の子供をほっぼり出すか。子供は自分で食いつないでゆけないか。たとい死んでも、おれたちはまだ若い。キキンがおわってまだ生きてりや、子供はまたつくれる」。 妻は首をふるわせた。両手で顔をおおって、泣き叫んだ。カラスの巣のような彼女の髪、糸だらけのポロから出てる彼女の肢を見て、夫はいっしょに泣きわめきたい、いっそ死んじまいたいと思った。しかし気をふるって、言った。 「子供をかわいがらない親がどこにいる?生んだのはおれたちだもの。だがな、おれたちは、アラシに遇って海のまん中にいる竹の舟だ。みんな助かろうとすりやみんな死んじまう。子供にすがりつきゃ、子供もろとも、死に神にすがりつくだけだとも」 母親はひと言もいわぬ。その日から、夫婦だけが食べ、子供にわけてやらなくなった。 
 子供たちほひもじくて、親が食べるとテーブルに寄ってきて、食いものに手をかける。父はその手をたたき、外に追っばらった。寝るときだけ帰って来いというのだ。 子供たちは路をうろつき、もっと腹を空かし、這って家にはいる。そのとき家にすこしでも食いものがあれば、父はあわてて子供を柱にしはりつけた。 十日たった夜、スオンがとうとう帰ってこなかった。父は娘をかなしんだ。生まれてから苦しい日ばかりだったなぁ。 朝が来て、戸口を一歩出た母は、一声叫んでたおれた。スオンが前のヤシの根もとで死んでいた。父はだまってクワをかつぎ、娘を裏庭に埋めた。 その四日ご、夜おそく、二人の息子が帰ってきた。そして、たがいに手をしっかりにぎり合ったまま、入口の前で死んだ。 もう一人の娘は、いつ、どこで死んだか、だれも知らない
    
 これは作り話ではない、とチャン・バイ・マイさんは言う。マイさんは地主だった。1943年から三年間、北部ベトナムの自分の村、近在の村々で、その目で見て、書きとめておいたことどもを、1956年にサイゴンで本にした。本の題は『アイ・ガイ・ネソ・トイ?』(誰が罪をつくったか)。
 飢饉のなか、草の根を掘り、樹の皮を剥いで食べて、人も牛馬も家畜もろとも餓死した事実は、どこの国にもある。今でも地球上に在る。しかし古今東西の餓死にも殺戮にも、かならず人為の要因がある。 このとき北部ベトナムの農村地帯の場合は、つぎのようだった。
 日本軍は1940年の秋、中越国境をこえてフランス頒ベトナムの北部に侵入した。一年ごの太平洋戦争の先触れである。日本はベトナムに軍政を布かず、フランスの支配を通してベトナムを制圧した。二重支配である。日仏間でどんな紳士協定があろうと、支配される側は二重の搾取に苦しむ。
1942年の後半になると、太平洋の各地で日本軍の旗色がはっきりと悪くなった。日本はベトナムのフラソス政府に、コメの買上げを強制した。南ベトナムのコメを日本は現地の軍需工場で燃料がわりにも使った。
 42年から45年のはじめまで、三井物産が日本国内に運んだベトナムのコメは、計250万トン以上。そして日本軍は、ベトナム地域を決戦場に予定して、そのためのコメを大量に集めた。
 古来、瑞穂の土地の北部ベトナムは、フランスの半世紀の植民地政策でコメの自給ができなく、南部からのコメにたよる経済機構に組みこまれていた。その、ここにもコメの強制供出である。
 強制買上げでもうかったのは、植民地政策と結託したベトナム地主であり、仲買人のボスであり、政府であり、日本軍部だった。だから日本軍は十分にコメを貯えた。だから北部ベトナムの農民たちは、つくったコメをさらわれた。さらに、
「1944年の五月から九月まで、三つの台風が北部の米どころを襲った。常時でも台風は農民に無惨な被害を与える。だがこの時の災害は、戦時の経済混乱の中にある彼らを襲ったのである。天災かならずしも餓死とならぬ。フランス当局は救済しない、むしろ餓えて死ぬことを期待した」(ゴ・バン・ロン)。
 「ふつうの農繁期は、脱穀・精米・袋積めで忙しい。だが、1944年秋の農繁期は、まったくちがった。農民は田に出た。そして天を仰いですすり泣いた。彼らはすべての希望が消え去ったのを知ったのだ。つぶやいた、来春の刈り入れまで、おれたちは生きて会えるかわからない、と。それは互いの最後の別れのコトバのようであった。 飢饉は十月にはじまった。そして、どの年よりも早くきびしい寒さが来た。北風は飢えた人びと、貧しい人びとのポロ着をつき破って、吼えた。灰色の空に厚い雲がかかり、村々に夜も昼も雨が降った。雨は飢えた人びとの骨の髄までしみとおった。 十二月の太陽は鉛色の雲にとざされた。弱い日が竹ヤプの上を射すだけ。毎日がのろのろと進行した。 雨と風と飢えと寒さが時間をいっそうおそくしているようだった。人びとは寒くて、枯れ草にもぐりこみ、バナナの葉を身に捲きつけた。ひもじくて、沼のコケ、イモの葉、蔓、木の皮を剥いで食った。 村の人びとはお互いにお互いを救うことができない…‥・」(マイさんの手記)。
 以上を据えてもう一度、ヴォクさん一家のうごきを読んでいただきたいと思う。

若者を貧困と無知から解放すべし

    「病気の原因は社会の貧困と無知からくる。」「だがこれまで政治が貧困と無知に対してなにかしたことがあるか。人間を貧困と無知のままにしては置いてはならないという法令が出たことがあるか」   黒澤明は『赤ひげ』で新出去定に怒りを込めてこう言わせている。             ...