今授業を聞いているこの生徒たちの中に、自分より優れた者がいるかも知れない

  ワークシートとは何か。教師仲間から手渡される度に、胡散臭さを感じる。様々な点数実績を稼ぐ便にはなるだろうが、余計なお世話である。きれいに整理され役立つ板書を、厳しく非難した生徒を思い出す。ワークシートを要求もしないのに持ってきて、「どうだ素晴らしいだろう」と言わんばかりに「これで授業を揃えませんか」と催促する教師は少なくない。授業だけではない、清掃や面接に至るまで実に鬱陶しい。
  今授業を受けているこの教室中に、自分より優れた者がいるかも知れないという想像力がまるでない。そういう存在が何人もあって、自分のお陰でその能力を日々潰している可能性を常に意識しておく必要がある。目の前の者たちは、自分の教えを受けるに相応しい劣った能力しか持ち合わせていないだろうという幼稚な傲慢さを含んだ予断がある。
  自分の矮小なひな型を大量生産するのである。チェーン展開して大量生産大量消費に向かった食べ物で、成功した例はない。
 我々の授業は、豊かな想像力を持ったひとり一人の生徒の「作品としての学力・教養」の素材にすぎない。作品そのものは生徒自身の創作として現れる。

 ワークシートでは学習内容の全体像が予め設計され、生徒は指示された箇所を埋めるだけである。肝心なことは、生徒ひとり一人の個性溢れる「ワークシート」の作成と出来上がった「作品」の交流と相互批評である。 我々は我々の授業が、生徒の中でどのように発展定着するのかを見たいと思うのである。画一化された百点に向かって収束する「学力」ではなく、拡散して相互交流しながら豊かさを増すものを待ちたい。

  ワークシートには聖書や聖典に似たところがある。先ず、それを普及せずにはおれないこと。地球規模で特定のワークシート集の普及を目指す財団さえある。そこではワークシートを造る部門と普及する部門は分けられ、生徒に直接教えることはしない。二つ目は、それを貰って授業する者に、そのワークシートを修正改良することは許されないことである。まさしく、「教えの書」である。資金の出所を確かめずにはおれない規模になるものもある。
  いくら優れた授業であっても、典型化・マニュアル化される中で最も重要な部分を捨ててしまう。「典型」からの逸脱を許容しない向きがあるが、笑止千万である。授業は宗教ではない。

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