旧制中学が新制高校に切り替わるときに中等教育を受けた作家の証言 2

                                                                                                                                   承前
  旧制中学から新制高校への過渡期の山中恒の経験を、前回引用したが、その前後を紹介する。
 「・・・十五年にわたる戦争が敗北で終結したのは一九四五年で、当時私は一四歳一か月で北海道庁立小樽中学の二年生であった。その間、天皇制イデオロギーの狂信的軍国主義教育を受けてきた私は、この<敗戦>という想像もしなかった(いや、心の片隅では「ことによると…」と若干の危惧は抱いていたが、建前的にはそれを否定し続けてきた)ことが現実となったとき、どうしてよいやら途方にくれでしまった。 
 いままで受けてきた教育の精神からすれば、これは当然、死して天皇に詫びねばならぬ事態と観なければならなかった。だから私は本気で自決することを考えたりもした。しかし途方にくれているうちに、ひるむ心がでてきて、一まず私たちをそのように訓育し錬成してきた教師たちが自決してからでも遅くないと日和見始めた。私たちや教師は誰ひとり自決などしなかった。そのとき、だまされたと思った。それからというもの、私は教師を初めとして私たちをそのように訓育したおとなを疑いの目で見るようになった。 
 私たちは学校へ戻ったが、ほとんど授業らしいこともなく、教師たちは職員会議ばかりで、教室へ出てくるともっぱら雑談し、そのなかで自分たちも為政者にあざむかれていたと言いだし、いつのまにか被害者の席へにじりよってしまった。その教師が権威をもって指示したのが、教科書の墨塗り作業であった。 それまで私は両親と離れて暮していたが、それを機に両親のところへ戻り、学校も庁立岩見沢中学へ転校した。ただし私にとって学習は魅力のあるものではなかった。 
 けれども授業は教科書がないので、教師たちが各自に自主教材のプリントを配布し、極めて個性的で、それが面白かった。 そのあたりから、予科練や特幹など軍隊へ志瞬していた上級生たちが復学を始めた。彼らは学校に対して軍国主義一掃、学園民主化を要求したが、下級生に対しては旧態然とした態度で相変らず暴力的に服従を求めていた。その時期、まだ欠礼したといって下級生を殴る上級生がいたし、態度がでかいといって呼び出されて私刑された下級生がいた。それに対して教師たちは、自分たちが果たしていつまで教職にとどまっていられるだろうかといった不安(この時期、占領軍は戦争犯罪人の追及を始めていた)やら、明日の食糧を入手する算段に日常的に追われていて、そうしたことにかかわりを持たぬよう、見て見ぬふりをした。私はこの上級生たちが在校しているうちは学園の民主化などできるわけがないと思っていた。同級生のなかには、これらの上級生の言動に同調するものもいたが、多くは私とおなじようにさめていた。 その後、私は更に転校し、もといた神奈川県立秦野中学に戻り、一九四七年春には中学四年生になった。この学校の所在地は、いまでこそ首都圏にはいり、東京への通勤圏内としてかなり開発されたが、当時はまだ、「いなか」であった。なにしろ、近くの農家の老人が敗戦を認めず「なに東條さんにかわって松川さん(マッカーサーのこと)が総理大臣になっただけだ」などとうそぶいていたのである。 ここでも相変らず上級生が猛威をふるっていたし、学校も北海道の中学にくらべて、東京に近いにもかかわらず、戦時下とあまり差のない教育をしていた。やはり教師の体罰は日常的であったし、生徒自治会とは名ばかりで、戦時下の学友会と質的にはかわらない学校の意向を伝達するだけの機関だった。年輩の社会科の教師が歴史を教えるのに、彼が師範学校時代に使ったノートで授業し、私がそれは皇国史観によるもので、おかしいのではないかと抗議しても、「歴史というものは、古い世代が新しい世代に伝えていくもので、自分たちが習った歴史を教えて、なにがいけないのですか?」と大まじめに反問し、「もし、なんだったら、きみが私のかわりに講義しますか? 講義を受けてもよろしいですよ」という始末であった。それからまもなく、私は上級生の呼び出しを受けて「授業中でかい面をしないほうがいい」とおどされた。私のことを聴いて自発的におどしをかけたものやら、件の教師に頼まれたものやら、その辺は不明であったが、以後、私はその教師に侮蔑感しか持たなくなった。 
 そして翌一九四八年新制高校制度が実施され、私たちは高校二年に編入された。上級生の過半数が旧制の中学制度で卒業していったし、残って高校三年生に編入されたものは、以前のような横暴な上級生ではなかった。むしろ私たちと組んで学友会の新しいクラブの創設やら、校内誌の創刊やらを計画するようになり、私たちも彼等とニックネームで呼び合うようになった。それでも学校当局は生徒自治会の役員には最上級生の成績優秀、品行方正と目される生徒を揃え、管理をおさおさ怠らなかった。私たちの学校以外のあちこちの高校では生徒自治会と学校当局が対立し、いろいろトラブルをひき起こしていたが、私たちの学校は無風状態であった。たまたま弁当箱を〝赤旗〃に包んできたといって、例の歴史の教師にこっひどくお説教された上級生もいたが、これも教師がどんな顔をするか反応を見るための茶目つ気でやったもので、やられたほうもあまり問題にしていなかった。 
 一九四九年、私たちは高三生になった。私にとっては、ようやく我が世の春が巡ってきた感じであった。そのころ、私はすでに占領軍命令で体練科の武道が廃止されたのを期に古手の教師たちが柔道場のたたみを勝手に処分したことを聞きこんだ。なにしろ物のない時代であった。私はそれを材料に、わざと学校側のスパイといわれていた教師の耳にはいるように、「問題にしてやろうか」とゆきぶりをかけた。たちまち私は応接室へ連れこまれ、教頭からしつこくその事情を説明された。そして「よその学校では、いろいろ生徒との間にトラブルがあるようだが、本校はそれがないということでうらやましがられているのだから、無用の騒ぎを起こしてくれるな」と懇願された。 そのことは却って私に自信をつけさせた。いろいろな情報がはいってきた。私はそれを武器に学校蔵書の閲覧許可や、楽器など備品の生徒使用の緩和などを要求し、同時に生徒自治会の自主運営を主張、立候補にょる選挙制を要求した。学校は私が当然立候補するであろうと危惧していたので、私は立候補の意志のないことを表明した。そして私と行動を共にしていた親友に立候補をすすめた。彼もその意志があり、選挙のふたをあけると圧倒的な得票で当選した。彼には親分肌のところがあり、面構えとは逆に下級生の面倒見もよかったし、ときどき奇行をやらかして人気を集めていたこともあって、あいつを自治会長にしたら、なにか面白いことでも起こるのではないかという期待が票につながったのである。 彼が自治会長に就任してからの活動は目ざましかった。立候補しなかった私は役員でもなんでもなかったが、彼の相談役として、さまざまな助言をした。暴力教師を自治会の名で追及し、謝罪させたこともあった。個人名で学校をアドレスにして送られて来る信書を学校が検閲していたことも追及し、以後それをやめさせた。いま思い出しても呆れることは、学校に自治会活動の専従を認めさせ、しばしば授業中に会議を招集したりしたことである。 私たちほ下級生からの苦情相談も引き受けた。暴力教師の言動は細かくチェックし、緊急総会で学校に釈明を求めたり、学校図書の購入の選択権も生徒側のものとした。校内誌・紙の編集に関しての学校の干渉も拒否した。開校以来、男子生徒禁制を誇っていた隣接の女子高校へ押しかけ合同クラブ活動の許可をとりつけたり、共同機関紙の発行を認めさせたりした。 それまで恣意的に暴力を振っていた教師は戦戟恐恐として、行動をつつしむようになった。生徒の読書傾向に干渉していた教師も余計なことをいわなくなった。共同募金活動も緊急総会にかけ、学校の要請を拒否した。私たちは一度もストライキなどしなかったが、学校側は自治会に一目置くようになった。学校に初めて戦後が来たという感じであった。尤も私たちはなにも法外な要求を出したわけではなかった。もちろん学校の主催する行事に協力してこれも盛りあげた。 
 教師たちのなかにも年齢的に私たちに近い人がいて、彼らも秘かに私たちを支援してくれた。 授業の面でも面白いことがあった。英語の教師が足らず、社会科の若い教師が英作、英文法を教えることになり、「はっきり言っとくが、俺は専門家じゃないから、なにを教えるかわからない。お前たちが責任をもって監視してくれないと間違ったことを教えるかもしれない。おかしいと思ったら、どんどん異議を唱えろ」と物騒な発言をし、私たちも「まかせてくれ」というわけで、教師と生徒が一体となった研究会のような授業になった。みんなでひとつの例題に悩み、にっちもさっちもいかなくなった。「しょうがない、専門家に聞いてこよう」などと彼が教室をとびだし、先輩の英語教師に質問に行ったりした。そして戻って来ると「こんなことがわからないのかとばかにされたぞ。お前ら、俺に恥をかかせないように知恵を絞って勉強してきてくれよなあ」と大まじめにいって私たちを爆笑させたりした。いま、高校でこんな教師がいたら大問題にされるだろう。しかし、いま考えてみるとこの授業がー番張りがあり、実力がついたような気がする。いまは県立高校の校長をしている彼が「あのときほど楽しいことはなかった。あれは青春だったなあ」と語ってくれたことがある。 
 そのころレッド・バージの旋風が吹き起こり始めていたが、私たちが格別、政党色を出さなかったことや、戦時下の中学教育を一年以上受けた最後の学年ということもあって、学校は私たちに当らずさわらずであった。あとで聞くと「どうせあいつらは、あと半年で学校へ来なくなり、卒業して行くのだから、少しの辛棒だ」とおさえていたということである。 事実、私たちが卒業したあとの学校側のしめつけは厳しく、後に後輩たちから、先輩たちのやり過ぎのつけを廻わされてえらく迷惑したといわれてしまった。そのつけは私個人にも廻わってきた。教師たちが連名で、内定していた私の就職先へ投書を送り、そのために私の就職は取りけされてしまった。 いま思い返してみると、文部省は占領軍との折衝にあけくれ、学校はつぎつぎ送られて来る通達に追いまわされていたし、教師たちも生活苦が前面にあって、生徒たちを本気で管理するところまで手が届かなかったのではないかと思う。それはほんの僅かな期間であったが、私たちは輝くばかりの自由を謳歌することができた・・・」                                     『戦後日本教育史料集成 第二巻 新学制の発足』  月報 2  山中 恒 「そのときエア・ポケットのように輝くばかりの自由があった」 

                 

 敗戦で生徒は「・・・教師たちが自決してからでも遅くないと日和見始めた。私たちや教師は誰ひとり自決などしなかった。そのとき、だまされたと思った」そして教師たちまでが「自分たちも為政者にあざむかれていたと言いだし、いつのまにか被害者の席へにじりよってしまった」
  あれだけ傲慢を極めた首相や官房長官が急に国会でしおらしくなった。二つの選挙で負けて、漸く国民と自分たちが対等なのかも知れないと悟り始めたからである。自由な自治に欠かせないのは、この対等な関係である。関係が対等に近づいただけで教師たちは脅え自信を失い、その結果「張り」が出て「実力」がついたのである。類似の証言は内外にあふれている。
   しかし 山中恒の証言にあるように、関係性に緊張が欠けるや「学校側のしめつけは厳しく」なり「就職は取りけされてしま」うのである。

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