東京のまんなかで米兵が日本人を濠に投げこんで殺したという事件があった。

 「松川事件第二審判決(1953年12月22日)に前後して、東京のまんなかでアメリカの兵隊が日本人を濠に投げこんで殺したという事件があった。濠へ投げこむ事件は二回つづいた。両方とも、ことに殺されたほうの場合は、日本人が非常にたくさん現場にいあわした。そして殺したほうは何ものにも邪魔されずにゆうゆうとその場を立ち去って行った。 この人殺し犯人はまだつかまっていない。このときの東京の新聞の調子は忘れられぬ種類のものであった。なかでも目についたのがこういう調子だったことは覚えている人が多いと思う。 「あれはただのいたずらだつたのだろう。人を穀そうという意志があってしたのではあるまい。」 私もそう思う。そしてそれだからこそそこに問題がある。穀そうと思って穀したのならば、それは相手を、犯罪としてではあるが人間として扱ったことになるだろう。たとえ小猫一びきでも、全く無理由に水に投げこむということは人間にできるものでない。殺そうという意志もなしに、全くのいたずらとして、小石をでもほうりこむように二人の日本人を濠へ投げこんだこと、ここに、日本に来ているアメリカ人たちの真底からの日本人蔑視がある。このことに目をむけないで、ただのいたずらだつたのだからあまり腹を立てるなというところへ話を持って行こうとすること、これを日本の大新聞がやっていること、ここに、日本の「独立」の性格のこういう大新聞への奴隷的な反映がある。あのとき数寄屋橋には日本人の群集がいた。この群集は、武器も持たぬらしいくだんのアメリカ人をつかまえようとも引きとめようともしなかった。けれども、これは想像になるが、だれか日本人が別の日本人を濠へ投げこもうとしたのだったならば、あの群集はたけりたってその男になぐりかかったのではなかつただろうか」 「われわれ白身のなかの一つの捨ておけぬ状態について中野重治全集第13巻


  ある夏、僕は日本の戦争責任について授業していた。
  1945年9月2日のベトナム民主共和国独立宣言文にある、「昨年から今年にかけて、北部ベトナムでは200万人が餓死した」から始めて、ベトナム農民が、1943年から3年間、北部ベトナムの自分の村、近在の村々で、その目で見て、書きとめておいたことを取り上げた。
 授業の途中から、年配の教師が廊下から身じろぎもせず聞いている。終わって廊下に出ると近寄ってきて「あなたに聞いてもらいたいことがある」、互いに次の時間が空いているので、社会科教室に入って話を聞いた。
 「さっきの授業で何か間違ったことを、僕は言いましたか」
 「そうではありません。授業は素晴らしいものでした。つい聞き入ってしまいました。そこを見込んで、話を聞いてほしいのです。今まで誰にも話したことはないのです。聞いてもらえますか」先生は、著書もあり、専門分野の番組にも定期的に出演していた。僕は抗議や苦情でないことにホッとした。先生の話はおおよそ次のようなことであった。

  先生は満州で少年時代を過ごした。街には満鉄の駅があり、川を境に駅側の清潔な市街地に日本人が、川向うの雑然として不潔な家並みに中国人が住んでいた。日本人の街路は街路樹を植えた通りに煉瓦造りの建物が並び、日本の都会より立派だった。日本人たちはそこで水洗便所・暖房完備のうちに住み、中国人を女中や運転手として雇って生活していた。川には橋が架かっていた。日本の少年たちは、遊びに飽きると川向うの中国人街に入った。中国人たちは日本人とのトラブルを極端に恐れて、卑屈なまでに敬意を示した。警察自体が日本の支配下にあり、どんな場合であってもばつを受けるのは中国人であったからだ。それが面白くて中国人少年を捕まえては乱暴を働いた。時には橋のこちら側まで引っ張ってきて、わざと向こう側からよく見える樹に縛り付けて弄んだ。肥後の守で顔や腕を傷つけると、中国の少年も川向こうの大人たちも泣き喚く。先生意気地のない弱虫だったがいつの間にか、酷い悪さを笑いながらするようになったと言う。植民地支配は何処にでもいるような普通の少年を鬼に変える。小日本鬼子という言葉はこうして生まれた。
 

  中国の日本人戦犯裁判を授業で取り上げるとき、僕は必ずこの話を交える。日本人戦犯たちの証言や中国人の証言の生徒たちへの伝わり方が断然違ったのである。

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