絞りかすみたいな毎日 |
だからこそ、彼はいい作品を生み続けるいい作家であった。
いい授業のための研究や教案作りに、精力の全てを注ぎ込み絞りかすみたいになった先生。そんな先生を記憶の底から探った、なかなか思いつかない。一晩寝て、はっとした。絞りかすどころか、廃人になってしまった先生を思い出したからだ。「心を病んだ教師」←クリック
彼が非常勤講師だった頃、小説や回想録に登場するような素晴らしい青年国語教師であった、まったく。
このF先生が石坂洋次郎のように振る舞うことは出来なかっただろうか。F先生と石坂洋次郎を隔てているのは、生活指導である。そして非常勤講師F先生と学級担任のF先生を隔てるのも、生活指導であった。
「幸福は退屈である」←クリック でこんな逸話をひいた。
・・・興味深いessayを読んだ。30歳前後の高校同級生が久しぶりに酒を飲む。積もる話の末、一人がこう呟く。
「・・・この頃、古文のA先生の授業を思い出すんだ」
「お前もか、おれもだよ。高校の頃あんなに退屈な授業はなかった、だがまた聞きたいとしきりに思うよ」
「だろう、A先生の淡々とした口調に今頃になって引き込まれてね。『古典文学大系』を買って読んでいるよ。脚注を利用すれば、楽しく読めてしまう。知らぬ間に学力はつくものだね」
他日別の同級生と会った時、この話をするとこの友人も
「実は僕もね、あの教科書をまた買ったよ。先生の名前も顔も10年以上も忘れていたのに、なぜかね、あの頃はうつらうつらしながら聞いていた、考えれば勿体ないことしたよ」
正式採用されたF先生は、教材研究する間も惜しんでクラス運営にのめり込み、失敗すればするほどのめり込んでしまった。3年間通して同一学級に全てをかけ、これ以上無い失態を招いた。劇的な失敗にもかかわらず、それを教訓に綿密な指導計画を練り、間をおかず再び3年間連続して受け持ち同じ失態を招いた。彼の精神的弾性は限界をこえてしまった。
もし彼が、国語授業に全てではなく適量をぶち込めば成功したことは間違いない。学級運営は絞りかすすれすれで臨んでも生徒の信頼は落ちなかった筈。
それが何故彼には出来なかったのか。担任としての「おそろしく常識的な、平凡な日々」な退屈を怠惰として憎んだか。十年後の酒場でかつての教え子が静かに絶賛したとしても、それは彼の耳には届かない。石坂洋次郎の小説に引き摺られ、始終生徒たちに取り囲まれることが教師の至福に見えたか。だがそれは生きた石坂洋次郎とは隔たりがある。
極楽は仏様があくびするほど退屈なのだと『蜘蛛の糸』に芥川龍之介は書いた。それは福祉国家になると退屈で若者の自殺が増える類いの、使い古した勤勉哲学に過ぎない。
生活指導さえ無ければ、素晴らしい先生は一気に増える。そのお陰で少年たちの問題行動は激減する。なぜなら授業で信頼を獲得した教師の指導を生徒は嫌がらない。たとえ枯れ果てていてもそれは風情。過剰な熱心や熱血から生徒は逃れることが出来ない、これほど鬱陶しいものはない。それを3年間も続けられれば暴発は必然であることに、何故この青年教師は思い至らなかったのか。熱血は冷静な認識も判断も妨げる。
教師は、石坂洋次郎的退屈に生きることに耐えるべきだと思う。耐えて高校生が部活の悪夢から覚めるのを待とう。争いの無い社会は極めつけの退屈満ちていると言いたがる者にはたっぷり言わせておけばいい。極楽は退屈さとともに学問も芸術も生み出すのだから。石坂洋次郎の作品と人柄はそれを証明している。人は一芸に秀でることさえ至難なのだ。
追記 高校生が荒れる学級を立て直すために取った行動(「和解する教室」)に比べるとF先生のやり方は、思想も哲学も見えない。しかしいかにも教師らしい暴力性に満ちている。
生徒たちの暴発は、卒業文集に現れた。F先生は「何を書いてもいい、検閲はしない。書いた通りを載せる」と請け合い、全ての生徒から「死ね、死んでください」と書かれてしまう。この時までF先生は、生徒の不満に気付かなかったのだろうか、3年間も。生徒たちは、担任に不満や要求を押さえつけられて何も言えなかったのだろうか、この時まで。卒業文集の原稿を担任が目にしてから卒業式まで、2・3ヶ月はある。同僚たちは何を見ていたのだろうか。
彼の総括も独善的であった。3年間の方針に質的な誤りはなく、ただ量的に不足・徹底さがなかったというものであった。担任を降りる、休む、独善的指導を止めるという選択はあらかじめ排除されている。日本軍に酷似している。独善性は強化され徹底する。破綻する度に独善性は増した。二度目の担任では、生徒との接触は入学前から始まり、昼休みも一緒に弁当を広げ、学級通信は一日二回になる。彼の脳裏に去来したのは、未だ足りない、もっと強くだけ。方向転換することが出来ないのである。巨艦巨砲主義から脱却出来なかった海軍と変わらない。
致命的なのは、生徒側に話し合いがないこと、学級に対する愛着の欠けらもないことである。自己認識から逃げたくなるほど、学校や学級に対して冷めてしまった生徒たち。その集団を規律の強化・徹底で乗り切ろうとする教師。F先生が精神に異常を来しても気付かなかった同僚たち、異常に気付いても狼狽えるだけの管理職。最悪の組み合わせである、この組み合わせがなにゆえこの学校に起きたか。