斉藤喜博をそうさせたのは何か

この光景から響めきの中の斉藤喜博を想像出来ない
 1977年、教授学研究会夏の合宿は石川県で開かれた。

 斎藤(喜博)の講演が宿舎の大広間でされ、私たち参加者は中央におかれた演台を囲むように座り、彼を待っていた。いろいろな人々のあいさつや話の終わったあと、いよいよ斎藤の出番である。斎藤が広間へ入った途端「ワォー」という、人気歌手が片田舎のマーケットでやる特設会場に登場したようなどよめきがおこった。・・・その後、私はびっくりするようなことを参加者から聞くのである。
 宿舎では、たいていの合宿研究会がそうであるように、就寝前のひとときにビールを飲みながらの歓談がある。そこで「斉藤先生は、足音がまるでちがう」という人がいた。それは教育に対する力量と人間の深さ、やさしさに由来するというのである。大部分の人々は「そうだ」とうなずいて言う。「そうかなぁー」と私は思ったが、何やらそこで異議をさしはさむのがはばかれるような雰囲気なので、ついにそれが言えなかった。「足音がちがうって、あのう、どういうことなんでしょうか?」 とおそるおそる質問するのが精一杯であった。冷たい視線が返されたのは言うまでもない。

                岡崎勝『不能化する教師たち』風媒社
 

 島小の教師たちが、斉藤喜博と川の土手を歩いている時、ある若い教師が「校長は我々を解放したが、我々を組織しなかった」と言ったという話を、僕はある本で読んでことがある。
  「校長は我々を解放した」という言葉に引っ掛かった。上からの解放を喜ぶ無邪気な若い教師に、進駐軍を解放軍と位置づけた敗戦後の忌々しい歴史的記憶が重なるのである。

 斉藤喜博はせめて組織化は若い教師自身の課題とし残したのではないかと、そのときは評価した。
 だが若い教師が、自らを組織することまで校長に求めるとはやはりいただけない。
 自らを自力で解放出来ない教師が、どうして生徒を解放出来るのだ。校長に自らを組織しなかったと難詰する者が、どうして生徒自治を指導できるのだ。暗澹たる思いに駈られた。
 

 斉藤喜博は校長になって、互いを先生と呼び合わないことを教職員全体に求めた筈。どうして彼は、石川の合宿でどよめく教師に向かって、「こんな雰囲気が教育を駄目にする」と怒らなかったのだろうか。せめて憮然として踵を返さなかったのか。足音が違うといった教師に「あなたの足音も、あなたの生徒たちの足音も違うよ」とたしなめなかったのか。
 互いに学び合う筈の関係が、こうして神格化を誘い従属を生み、相互批判し学習する習慣が消えてゆくのである。民主主義を学んでいる筈が、その対立概念を生んでしまう。

 斉藤を島小に訪ねた戦後の教育学者や知識人にも大いに責任がある。彼らは列をなして著名な教師の門前に連なるではなく、僻地や底辺校で孤立し潰れそうになっている教師を探し歩き、ともに苦悩し泣くべきではないか。共感能力を失ったか、初めから持っていないのか。もしあるのなら、泣いた悔しさを行政にぶつける怒りの論文を書けと言いたい。優れた教師の優れた授業を批評をする偉い自分を自演して、酔ってはいないか。

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