和解する教室Ⅳ 思索する高校生


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 学級の荒れを知りながら毅然と対処しない担任に、不安や不満を感じた保護者も少なくなかった筈だ。にもかかわらず多くの父母は臨時HRの朝まで、そしてその後も娘や息子に適切な助言や叱咤激励をしていたことを後日知った。学校は父母の言葉や眼差し無しには成り立たない。
 生徒たちが夜更けても公園や街角で議論できたのは、この高校の通学範囲が広くなかったことが大きい。一番遠い生徒さえ、バス一本で通っていた。殆どは徒歩や自転車通学。日曜日に集まるのも容易い。保護者が平日の夜や土曜の午後に話し合うことも出来る。高校が小学区制であれば、高校生もPTAも活発になるのは疑いない。学力による輪切り体制もなければ爆発的に活発になる。
 
 臨時HR後1-6の話し合いは続き、共同の要求として授業を受ける権利に辿り着いた。しかもそれに先立って、
6人は無意識のうちに自力でプラグマティズムにたどり着いている。
 どちらが正しいか先か判らないとき、先ず事態を引き受けて行動してみる。
ロダンの「パンセ」は思索する肉体を刻んでいる
 「ある思想の真偽を判断するのに・・・先ず行為におもむいてみる。すなわちその思想を実際問題とぶつからしてみる。そしてその行為のもたらす結果により、利害によって、その思想の真偽を判断する」大杉栄はこう言って、労働運動に於けるプラグマティズムの果たす役割を評価している。
 6人は長い討議を経て、「先ず行為におもむいて・・・思想を実際問題とぶつからし」て、学級を変えることに成功している。ぶつからした思想とは、「いいクラスにしたい、そのためには誰かが謝らなければ始まらない、それを私が引き受ける」である。これが思想であったことは、6人が臨時HRで批判を甘んじて受け容れ続けたことからも判る。50分も批判に曝され続けそれに耐え、反論を抑えるのは容易いことでは無い。信念なしに、へこたれぬ肉体なしに出来るものではない。
 この気持ちは直ちに伝わり、入り組んだクラスの人間関係を一気に透明にした。級友の6人に対する言葉も、一方的非難から次第に自己批判や共感を含む方向に変わる。思想には、仲間を共感によって変える力がある。
 6人が「・・・時間ちょうだい、先生・・・私たちだけで話させて・・・考えてみる」と言ったとき、彼女たちは厄介な事態を正面から受け止め行動する若い哲学者であった。同時に、
1-6という学級に対する執着も残っていた。だから一週間も喧嘩腰で思索し続けることが出来た。生易しいことではない。ここに、思索の肉体性と集団性をみることが出来る。僕はロダンの彫刻「パンセ」の苦難を突き破るような表情を想った。
 思想は若者の日常に生まれ、青少年の現実を変える力となる。我々は、哲学や思想の授業を過去の偉い人の言葉として教え込むのではなく、少年たちの生活と苦悩の中に生成するものとして構成することが出来る。


 ロダンの彫刻「パンセ」のレプリカを掲げて「すでに君たち一人ひとりの中に思想はある」と、「倫理」の授業を始めるべきだった。絶好の機会だったのに、なんて愚かなんだ。
 「実践が提起する課題との対決、格闘、そしてこれを通じてみずからの難路をきりひらき、みずからの展望をかちとってゆく作業─これをこそ思想と呼ぶのだろう」(古在由重)。


 大切なのは教科書に書かれた思想ではない。
 日本では高校も大学も、哲学を軽視し続けてきた。軽視して、思索の道具となる「論理」の教育訓練を放棄してきた。
それ故少年が賢さを増すことは、偶然に賭けるしかない有様だ。少年たちは賢さを抑制され、その知性や冒険を、大人に受け入れさせる切っ掛けが掴めないでいる。それは口答えとして始まり、論戦となり自立を促す筈だが、その武器としての「論理」を持たないのだ。この教育上の欠陥に乗じて、成長に伴う逸脱や病的状態を、学校は生活指導上の問題に矮小化してしまう。定義によれば病的状態とは、健全な状態の極限形態である。環境の変化に適応して、危機を切り抜けるために起る有機体の健全な反応である。
 矮小な生活指導の立場からは、1-6で起きたような揉め事は早期発見・早期指導の対象でしかない。大杉栄の「実際問題」、古在由重の「難路」が自覚される前に、整然たる秩序が与えられてしまうのである。1-6は幸いにも、難路に直面している自己を発見することが出来た。
 歴史や哲学は、憎悪を相対化し客観視することができる。客観視は自分の内側を見詰める余裕を与えたのである。
 

 僕は人の倫理的賢さの頂点は、高校1・2年にあると考えてきた。思索する条件としての肉体的健康さが燃え上がらんばかりの時期だからだ。だが肉体的健康さは、部活に消費され思索を忘れている。進路選択が迫れば自己保身のために、世間との妥協を始めてしまう。思索を伴わない肉体は脆い。進学し就職すれば、いとも簡単に業界の論理に身を委ね、独立した思考や判断を邪魔者扱い。地位と財を手にすれば、他者抑圧に手を染めてしまう。それを「社会人」になった「大人」になったと褒めるおかしさに気づかない。

追記 「和解する教室」Ⅰ~Ⅳで書いたような行動を、S高生たちはやってのけるだろうか。S高は偏差値も入試競争率も進学率も「1-6」のH高より高い。しかし、1-6のような自治を実現することは金輪際出来ない。なぜならS高では入学してから卒業するまで、クラス自治の経験を持てないからだ。素直な生徒たちは部活に全関心を預け、教室はまるで3時からの部活の分断された「待合室」となる。待合室に暴動はあり得るが、決して政治化しない。「現社」で放課後を使ってのグループ毎の調査や見学などは出来ない、部活は絶対だからだ。土日に博物館や地域を巡ることも不可能、練習試合でそんな時間は1分たりとも無いのだ。
 「現社」教員としての僕は、手足をもがれた気がして滅入った。黒板の前だけが「教室」だった。生きた世界からは隔離されていた。
 学級内集団も、クラブ毎にしか形成されない。したがって学級共同の要求としての自治や授業が自覚されることはない、まして要求にまで高められることはない。S高生ひとり一人の社会的意識は決して低くないが、それが集団化することはなかった。
 これは支配する側にとって願ってもないことだ。たとえ卒業後、職場や地域に深刻な問題が起きても、部活で培った社会的無関心は容易には回復しない。
 日本の高校生の政治化は、「部活」がダムとなって堰き止めているのだ。卒業後、ダムとしての「部活」の機能に気付きそれを突き破ることに成功した者は、逞しい社会性を持つようになる。だが気付くのに、短くとも数年を要する。戦時下の少国民が、軍国主義的悪夢から覚醒するよりはるかに長い。社会変革の主体として若者が再び登場するのは、日本の青少年が部活の幻から覚めるときである。
 

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