学問と教育を担うもの

 「明治以後の時代はおそろしい時代であった。学問というものがほとんど完全に政府の手にぎられてしまったからである。江戸時代には学問の担い手は民間にあった。武士や町人で経済的に余力のあるものは、それで自由に学問をした。まずしい人でも学問をつめば、門弟たちをとって少しは生活の足しにすることもできた。安藤昌益も本多利明も志筑忠雄もそうやって学問したといってよいであろう。しかし、明治以後は、帝国大学かあるいは私立学校でも政府が設立認可するような学校にしか、学者はいないものと思われるようになってしまった。そういう時代にも、大学教授の地位をなげすてた狩野亨吉のような人がいて、江戸時代の真に創造的であったが故に忘れ去られた先駆者たちを掘り起こしたことに、私はやはり力強さを感じざるを得ないのである。明治以後もやっぱり、学問は在野派の人々によってしか守り育てられなかったのだという感を深くするのである 「かわりだねの科学者たち」 板倉聖宣 仮説社 p95 
 たとえ文科官僚が現場に話を聞きに来ることがあったとしても、現場から教師が出向いて報告に行くなどということは、自ら庇護を求め「おそろしい」関係を強化するだけにすぎない。参上させ・参上するという関係が傲慢不遜を肥大させるからである。役人が自ら公僕を自認して、現場に足を運ぶ事の象徴的意味を知る必要がある。教育委員会公選時代の教育委員は実にこまめに現場に足を運んでいる。教育基本法の規定が忠実に実行されていたからこそ、教育委員会公選制の解体を政権は画策したのである。
 戦後もおそろしい時代である。公選制が解体され時は流れたが、勤評、教育基本法改悪、国立大学行政法人化、共謀罪・・・恐ろしい時代は深くなっている。ただ無暗に明るい、夜を寝かせない明るさで休み隠れるところがない。

先輩と呼ばないで、

  ある高校で、ボート部の顧問を引き受けて徹底したことが一つだけある。「先輩」の廃止である。
「ボートに乗ればみんな仲間だ。上手い下手はあるが、そんなものいつ逆転するかしれない。コックスは指示するが、命令はできない。動作の区切りごとに「ありがとう」を言うのはそのためだ。だから紳士のスポーツと呼ばれる。顧問を当てにしてもいけない、艇が岸を離れれば君たちだけの世界。頼っていいのは仲間だけ」 
 週に二日の練習日には、部員たちは三々五々、戸田の艇庫に駆け付け準備を始めた。遠いから練習時間は短い、夜になっても舳先に懐中電灯を固定してなかなか切り上げない。冬になって大学などのクラブが室内練習に切り替えても、たとえ氷が張っても漕いでいた。勿論、寒いと言って自宅のコタツに籠りっぱなしも多かった。  
 合宿は諏訪湖。県営艇庫の二階に泊まって自炊する。最後に弁当を作って諏訪湖を一周する。
 初日、僕たち教員は用具を車で運んで先回りして、中央線でやってくる生徒たちを遠くから眺めていた。駅を出て歩き始めると下級生が、上級生に
 「先輩、荷物持ちますよ」と言っている。中学校の習慣が抜けないのだ。どうするか、黙って見ていると
 「君たちね、平等という言葉知ってる、高校生なら知っといてね」と二年生が、いかにも諭すという風に
 「平等とは、自分のことは自分でするということなんだよ。それからね、もう先輩はやめてよ、名前で呼んでね」と返していた。

  「冒険ダン吉」という戦前の漫画がある。少年ダン吉は南洋に行って、「土人」を支配して軍隊をつくる。日に焼けて色が黒いからひとり一人見分けがつかないと決めつけて、番号を付ける。自分は白いつもりで、それがダン吉が王になって支配する根拠として描かれている。見分けがつかないのではない、怖いからよく見ない、深く付き合わないのである。互いに個人名で呼ばない関係がどんなものか、この漫画はよく示している。

 一度関東大会に出たことがある。強くて勝ち残ったからではない。東京ではボート部そのものが少ない。戦闘意欲も剥き出しでない。だから種目によっては、ビリでも勝ち進む。参加賞のマグカップだけを貰って帰ってきた。
 ユニフォームもない。ぼろぼろの短パンによれよれのTシャツ、穴の開いた靴がかっこよかった。むろん女子マネージャーなんて無縁。
 もう一ついいことがボートにはある。全国大会であっても観客が少ないことだ。都大会などでも50人いただろうか。練習試合など想像しようもない。恰好付けるにも相手がいない。はにかみ屋に向いている。

ユニフォームのないサッカー部

 12日の朝nhkラジオ番組で、あるタレントが高校時代サッカーをしていた時の思い出を話していた。自由の森学園だから制服はない。サッカー部のユニフォームすらない。試合では味方がバラバラな色の服装だからパスが通りにくくて、コテンパンに負けるらしい。試合記録を見れば大差で負け続けている。それでも、試合で勝つためにユニフォームで揃えようとはしない。負けても負けても、サッカーをやめようともしない。余程、サッカーゲームそのものが好きだと見える。
「ひたすら」と言う少年・青年の美徳がここにはある。
  苦難の連続にも誇りを失わないのが実にかっこいい。国民の生活は忘れて、金メダルの数やノーベル賞受賞者の数だけを自慢したがる我々の現政府は、己の恰好の悪さに気付かない。偏差値を上げるために服装を規制し、大会入賞を目指し、目の前の生徒との対話や授業に関心が向かないのも醜悪である。
  いろいろ世話をやく女子マネージャーもいない。件のタレントは「そんなことは、自分でやればいい」と明確だった。かっこいい「先輩」にあこがれて、おしぼりを出したり洗濯をしたりする。まるで志願制の小間使い、キャバレーホステス。女子マネージャーにかっこいいユニフォーム、厳しい上下関係と地獄の特訓・・・それで少し勝てて、やがて優勝して、何なのだと思う。それは、競技が好きなのではなく、女子マネージャーを侍らせ、ユニフォームで注目を浴び、上下関係に酔うのとランキングが好きなのだ。脇見が多すぎて恰好悪い。我々が固執すべきは、まず個人の尊厳であり、クラブの生徒たちがチームや学校の道具になることではない。ユニフォームのないサッカー部にはそれが見える。

広島の原爆雲とある暑い朝の入道雲

  猛暑の朝、湧き上がる入道雲を見上げて、1945年8月6日朝の広島の原子雲を想像して歩道に倒れて動けなくなった女子生徒があった。昼休みに彼女が、その光景を機関銃のように喋ったことがある。彼女が一年生か二年生の9月。
 一学期の末、僕は原爆投下と被害の全容について、そして投下・占領した米軍の振る舞いについてかなり徹底的に授業した。米軍はどうやって、広島の人々が最も大勢外にいる時間を知ったのか、なぜその時間に落としたのかから始めた。だから、彼女はあの秋の朝、どんな人間がどこにいて何をしていたか思い浮かべたはずである。熱線で一瞬にして蒸発した勤め人、市電に乗っていて吹き飛んだ女学生、朝からのじりじりした暑さ、眩しい太陽と真っ白な入道雲に、忽ちいろいろな光景と情報が押し寄せ、眩暈がして卒倒したのである。

 はじめ僕はこれを「学力」の問題として捉えていた。授業で学んだことが、何処でどのようにして再構成されどのような場面で現れるのかという。しかし一つの不思議が生じて立ち止まってしまった。20数年を経て主婦となった彼女がこのことを全く覚えていない。準備室で昼休みの間ずーと、あの朝彼女の脳裏に浮かんだ鮮明で詳細な光景を、息も吐かず機関銃のように語った事、通学途中卒倒したこと、大幅に遅刻したこと、全て忘れている。不可解である。

 ようやくおぼろげに想像できるようになったことがある。あれは僕にとっては、授業とその記憶の再構成が問題であった。そういう我田引水から自由になってみる。
 記憶と忘却は、メビウスの輪のように、裏表でありながら連続した一つの過程なのかもしれない。孤独と闘争はメビウスの輪となっているという考え方がある。孤独こそが互いに離れた者たちを結び合わせると考えるのである。何かを記憶するためには、その分何かを忘れなければならない。新しく覚えるために、あることを忘れるとき、覚える過程が劇的であればあるほど、忘れる過程も劇的でありうる。
 人間は完全な記憶が可能なようにはできていない。何も忘れることが出来なけれは発狂する。許すことは忘れることによって容易になる。 彼女は、鋭い感性と巧みな構成能力を持つ生徒で、社会科の記述表現は群を抜いていた。

  今我々は多発する災害に曝されて、大掛かりに「忘れないで・・」と「絆」を強制する声に絶えず追われて、世界の沈黙を聞き取る能力を発揮できないでいる。沈黙しているのは、幸福や快適のお陰ではない。世界の無関心に絶望しているのだ。孤独と違って絶望は互いにつながることはない。我々は賑々しく演出されたことに関心を引き摺られ、隣人の沈黙にさえ、家族の沈黙にさえ聞き入ることが出来ない。
 忘却は、沈黙に聞き入る前提かも知れないのだ。

作家や教育者の担任の思い出・戦前

 私が小学生のころの、たとえば担任の若い先生が、日曜日になると、自分の下宿へ教え子を交替で招び、牛肉の細切のすき焼を食べさせてくれたり、小説が好きな生徒について来てくれて、古本屋で本を値切ってくれたりした、そんなことが、いまもあるのだろうか・・・」                                  池波正太郎「日曜日の万年筆」新潮文庫 

 池波正太郎が下谷区西町小学校を出たのは1935年。


  「井上先生は、クレオンをどしどしつかわせてくれた。画手本などは、けとばして、いつも、野っ原につれだしてくれた。 それよりも、うれしかったことは、日曜日に、一しょに遊びに歩いてくれたことだ。日曜日に、先生とあそべるなんて、まったく、ほかの組の子どもたちには、できもしないことだったのだ。わたくしたちは、よく沼べりなどに集まった。そして先生といっしょに、どてをころげまわったりした。また、井上先生は、同じわかい先生の三原善太郎先生と、ひどく仲よいつきあいをしていた。上の学校へ受験する仲間らしかった。その三原先生は、「株式」とよばれる家の二階に下宿していた。・・・冬の日、井上健之助先生をガキ大将とする、わたくしたち有志の一隊は、その三原先生のへやめがけて、雪玉を、ぼんぼんとぶっつけてよいのだった。すると、障子をあけた三原先生も、ひさしにでてきて応戦した。多勢に無勢、へやの中に雪玉が、どかどかはいりこむと、三原先生は、和平交渉をし、わたくしたちは、みんな、そのヘヤにあがりこんだ。そして、ナンキン豆をかりかりとむいてかじりながら、二人の先生とふざけあった。それから二人の先年が、英語の本や数学の本を出して、真剣にはなしはじめるのを、静かにみまもっていた。わたくしたちは、ふざけることのおもしろさと同時に、まじめに勉強することの大切さを、こうして知った。生まれて、はじめて写真をとってもらったのも、井上先生からであった。・・・ 井上先生は、翌年の春、受験勉強のかいがあって国学院大学に入学した。・・・ハガキが来て、一度返事を出したおぼえがあるが、その後の消息はわからない」         国分一太郎『恩師の思い出』


 書かれているのは原敬暗殺事件の1921年である。井上先生は旧制中学出の代用教員、師範学校教育の洗礼を受けていない井上先生は、自由闊達・天真爛漫で学ぶ希望と意欲をみなぎらせ、それだけで子どもたちを感化している。

 昔のの先生は、生徒の身近にいた。「遊びに来い」と言えば子どもでも歩いて行ける。生活のにおいの中で付き合うことが出来た。

 海軍将校で兵学校でも教えた祖父は、引退してふるさとの旧制中学で教えた。町の西のはずれに学校があり、家は東の端にあった、歩いて半時余りである。町の大方は知り合いであり、幼馴染も親戚筋も多い。何が問題のある生徒があれば、少し寄って問題には全く触れずにお茶を飲み、世間話をして帰る。それだけで十分だったという。説教の名人としても知られ、かなり遠方からわざわざ親子連れで叱られに来ていたという。しかし、叱ったことはなく、聞くだけで、みんな晴れ晴れとした顔をして帰ったらしい。時には、荒くれ者たちの仲裁も頼まれている。
 学校から戻ると、釣り竿を担いで港で晩のおかずを採るのが日課であった。暇があれば下手なバイオリンを弾き、頼まれれば、書や画を贈っていた。

 今先生たちは過労死限度を超えて働いているだけではない。大都市では遠距離通勤が当たり前になり、教育委員会が異動を支配の道具に使っている。どんなにいい先生も、池波や井上先生のようには振る舞えない。
 教師がみんな歩いて通える学校で教えるだけで、どんなに楽になり、活動的になるだろうか。通勤手当の総額は膨大な額だし、通勤電車も楽になる。企業が flextime systemをとっても、始業時間が画一的にならざるを得ない学校はそうはいかない。だが保守系議員は、教師が地域に根を張ることをひどく嫌悪している。地域活動に及ぼす影響は計り知れないからである。同じことは自治体職員や、政府職員にも言える。行政に不正があるとき、事情に通じた他自治体の職員が、地域住民として存在することは、不正側には徹底的弱点となる。遠距離通勤と長時間労働と頻繁で恣意的な転勤は、政策なのである。

沈黙に聞き入る能力

鶴見俊輔 沈黙に聞き入る能力を、日本人はこの百二、三十年の間に急速に失った。一つの文化の底には必ず沈黙があると思うんだけど、そこに聞き入る能力がなければ、国際化することは不可能だ。日本人も昔は少なくとも自分たちの民族の文化のなかの底にある沈黙には、聞き入る能力を持っていた。ところがだんだんそれが失われてきている。
 ドナルド・キーンが七四年に雑誌『諸君』に書いていた伊勢神宮遷宮の記事に出ているんだが、敗戦直後の遷宮の儀式を見たときには静かだったというんですね。今度は同じ遷宮の儀式に行って坐っていたならば、ザワザワ人がひっきりなしに話しているというんだ。そして、終わったらすぐにパッと立って出て行こうとする。
 二十年に一ぺんしかないこの儀式よりも大切などんな用事を持っているんだろうか、どんな用事のためにザワザワしゃべっているんだろうか、と彼は言うんだけれど、伊勢神宮の遷宮の儀式を見ていても、戦後三十年たった今の日本人は、その間黙っていられないんだ。自分たちの文化の底にある沈黙にさえ聞き入ることができない人間に何ができるか、という大変むつかしい問題だね。                                  『日本人の世界地図』岩波書店p149

  高畠通敏が鶴見の発言を受けて、「沈黙というのは、別の形で言えば、「常民の世界」ということです」と言って、武士道・茶・能・・・八紘一宇などの支配層が作り上げた文化と対比させている。更にすすめれば「常民の世界」とは 、声なき声を聞くということになる。
 「どうしてそんなにダメなんだ」と説教や処分されてばかり、次第に声さえかけられなくなった生徒たちの呟き、ゆえなく教室の隅に佇む習慣が身についてしまった生徒たちの思い・・・が学校の「声なき声」である。賑々しい受験成果や大会入賞実績に惑わされて、学校「常民の世界」の沈黙に聞き入る能力を、勤評から60年かけて、僕たちはすっかり失っている。
  たった一人の生徒を呼ぶのに、全校放送を繰り返すほどだから、体育祭や文化祭ともなれば恰も静寂恐怖症に罹ったように、隙間なくけたたましい。それは、沖縄の戦跡や広島を修学旅行で訪れても、早朝から就寝まで続けられる。黙祷までがマイクを使い号令で仕切られてしまう。まるで生徒たちの思いが、死者の沈黙に同調するのを恐れているようである。沈黙がスケジュール化されて干からびている。
 遠足のバスでも添乗員は、わずかな時間を見つけては、唄いやゲームに誘わずにはいない。ある時生徒が添乗員に「姉ちゃん、静かにしてよ」と言っても「あら、元気ないわね、ゲームしましょう、唄いましょうか」とけしかける。生徒たちは「眠い、煩い」と応えて、添乗員は、最後まで機嫌が悪かった。客が奉仕させられるのだ。葬式でさえその例外ではない、身内ではない業者が仕切って失敬千万。沈黙をサービスと言う商品で埋め尽くそうとする。
 これでは、生活も歴史も「常民の世界」にたどり着けない。まして侵略され虐殺された側の声を聞くことはできそうもない。
 式や行事を静かな環境の中でやれないのなら、廃止したほうがいい。親子で沖縄や広島に行けば、親や祖父母が絶句して始まる沈黙を子どもが聴くという場面があるに違いない。平和や九条への決意と言うのは、こうした休暇の使い方に現れる。

追記 沈黙を聞くためには、自由な個人として人々の前に現れる必要がある。国や学校という甲殻を被っていては、指導という押付けの影から逃げることはできない。

若者を貧困と無知から解放すべし

    「病気の原因は社会の貧困と無知からくる。」「だがこれまで政治が貧困と無知に対してなにかしたことがあるか。人間を貧困と無知のままにしては置いてはならないという法令が出たことがあるか」   黒澤明は『赤ひげ』で新出去定に怒りを込めてこう言わせている。             ...