沈黙に聞き入る能力

鶴見俊輔 沈黙に聞き入る能力を、日本人はこの百二、三十年の間に急速に失った。一つの文化の底には必ず沈黙があると思うんだけど、そこに聞き入る能力がなければ、国際化することは不可能だ。日本人も昔は少なくとも自分たちの民族の文化のなかの底にある沈黙には、聞き入る能力を持っていた。ところがだんだんそれが失われてきている。
 ドナルド・キーンが七四年に雑誌『諸君』に書いていた伊勢神宮遷宮の記事に出ているんだが、敗戦直後の遷宮の儀式を見たときには静かだったというんですね。今度は同じ遷宮の儀式に行って坐っていたならば、ザワザワ人がひっきりなしに話しているというんだ。そして、終わったらすぐにパッと立って出て行こうとする。
 二十年に一ぺんしかないこの儀式よりも大切などんな用事を持っているんだろうか、どんな用事のためにザワザワしゃべっているんだろうか、と彼は言うんだけれど、伊勢神宮の遷宮の儀式を見ていても、戦後三十年たった今の日本人は、その間黙っていられないんだ。自分たちの文化の底にある沈黙にさえ聞き入ることができない人間に何ができるか、という大変むつかしい問題だね。                                  『日本人の世界地図』岩波書店p149

  高畠通敏が鶴見の発言を受けて、「沈黙というのは、別の形で言えば、「常民の世界」ということです」と言って、武士道・茶・能・・・八紘一宇などの支配層が作り上げた文化と対比させている。更にすすめれば「常民の世界」とは 、声なき声を聞くということになる。
 「どうしてそんなにダメなんだ」と説教や処分されてばかり、次第に声さえかけられなくなった生徒たちの呟き、ゆえなく教室の隅に佇む習慣が身についてしまった生徒たちの思い・・・が学校の「声なき声」である。賑々しい受験成果や大会入賞実績に惑わされて、学校「常民の世界」の沈黙に聞き入る能力を、勤評から60年かけて、僕たちはすっかり失っている。
  たった一人の生徒を呼ぶのに、全校放送を繰り返すほどだから、体育祭や文化祭ともなれば恰も静寂恐怖症に罹ったように、隙間なくけたたましい。それは、沖縄の戦跡や広島を修学旅行で訪れても、早朝から就寝まで続けられる。黙祷までがマイクを使い号令で仕切られてしまう。まるで生徒たちの思いが、死者の沈黙に同調するのを恐れているようである。沈黙がスケジュール化されて干からびている。
 遠足のバスでも添乗員は、わずかな時間を見つけては、唄いやゲームに誘わずにはいない。ある時生徒が添乗員に「姉ちゃん、静かにしてよ」と言っても「あら、元気ないわね、ゲームしましょう、唄いましょうか」とけしかける。生徒たちは「眠い、煩い」と応えて、添乗員は、最後まで機嫌が悪かった。客が奉仕させられるのだ。葬式でさえその例外ではない、身内ではない業者が仕切って失敬千万。沈黙をサービスと言う商品で埋め尽くそうとする。
 これでは、生活も歴史も「常民の世界」にたどり着けない。まして侵略され虐殺された側の声を聞くことはできそうもない。
 式や行事を静かな環境の中でやれないのなら、廃止したほうがいい。親子で沖縄や広島に行けば、親や祖父母が絶句して始まる沈黙を子どもが聴くという場面があるに違いない。平和や九条への決意と言うのは、こうした休暇の使い方に現れる。

追記 沈黙を聞くためには、自由な個人として人々の前に現れる必要がある。国や学校という甲殻を被っていては、指導という押付けの影から逃げることはできない。

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