広島の原爆雲とある暑い朝の入道雲

  猛暑の朝、湧き上がる入道雲を見上げて、1945年8月6日朝の広島の原子雲を想像して歩道に倒れて動けなくなった女子生徒があった。昼休みに彼女が、その光景を機関銃のように喋ったことがある。彼女が一年生か二年生の9月。
 一学期の末、僕は原爆投下と被害の全容について、そして投下・占領した米軍の振る舞いについてかなり徹底的に授業した。米軍はどうやって、広島の人々が最も大勢外にいる時間を知ったのか、なぜその時間に落としたのかから始めた。だから、彼女はあの秋の朝、どんな人間がどこにいて何をしていたか思い浮かべたはずである。熱線で一瞬にして蒸発した勤め人、市電に乗っていて吹き飛んだ女学生、朝からのじりじりした暑さ、眩しい太陽と真っ白な入道雲に、忽ちいろいろな光景と情報が押し寄せ、眩暈がして卒倒したのである。

 はじめ僕はこれを「学力」の問題として捉えていた。授業で学んだことが、何処でどのようにして再構成されどのような場面で現れるのかという。しかし一つの不思議が生じて立ち止まってしまった。20数年を経て主婦となった彼女がこのことを全く覚えていない。準備室で昼休みの間ずーと、あの朝彼女の脳裏に浮かんだ鮮明で詳細な光景を、息も吐かず機関銃のように語った事、通学途中卒倒したこと、大幅に遅刻したこと、全て忘れている。不可解である。

 ようやくおぼろげに想像できるようになったことがある。あれは僕にとっては、授業とその記憶の再構成が問題であった。そういう我田引水から自由になってみる。
 記憶と忘却は、メビウスの輪のように、裏表でありながら連続した一つの過程なのかもしれない。孤独と闘争はメビウスの輪となっているという考え方がある。孤独こそが互いに離れた者たちを結び合わせると考えるのである。何かを記憶するためには、その分何かを忘れなければならない。新しく覚えるために、あることを忘れるとき、覚える過程が劇的であればあるほど、忘れる過程も劇的でありうる。
 人間は完全な記憶が可能なようにはできていない。何も忘れることが出来なけれは発狂する。許すことは忘れることによって容易になる。 彼女は、鋭い感性と巧みな構成能力を持つ生徒で、社会科の記述表現は群を抜いていた。

  今我々は多発する災害に曝されて、大掛かりに「忘れないで・・」と「絆」を強制する声に絶えず追われて、世界の沈黙を聞き取る能力を発揮できないでいる。沈黙しているのは、幸福や快適のお陰ではない。世界の無関心に絶望しているのだ。孤独と違って絶望は互いにつながることはない。我々は賑々しく演出されたことに関心を引き摺られ、隣人の沈黙にさえ、家族の沈黙にさえ聞き入ることが出来ない。
 忘却は、沈黙に聞き入る前提かも知れないのだ。

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