作家や教育者の担任の思い出・戦前

 私が小学生のころの、たとえば担任の若い先生が、日曜日になると、自分の下宿へ教え子を交替で招び、牛肉の細切のすき焼を食べさせてくれたり、小説が好きな生徒について来てくれて、古本屋で本を値切ってくれたりした、そんなことが、いまもあるのだろうか・・・」                                  池波正太郎「日曜日の万年筆」新潮文庫 

 池波正太郎が下谷区西町小学校を出たのは1935年。


  「井上先生は、クレオンをどしどしつかわせてくれた。画手本などは、けとばして、いつも、野っ原につれだしてくれた。 それよりも、うれしかったことは、日曜日に、一しょに遊びに歩いてくれたことだ。日曜日に、先生とあそべるなんて、まったく、ほかの組の子どもたちには、できもしないことだったのだ。わたくしたちは、よく沼べりなどに集まった。そして先生といっしょに、どてをころげまわったりした。また、井上先生は、同じわかい先生の三原善太郎先生と、ひどく仲よいつきあいをしていた。上の学校へ受験する仲間らしかった。その三原先生は、「株式」とよばれる家の二階に下宿していた。・・・冬の日、井上健之助先生をガキ大将とする、わたくしたち有志の一隊は、その三原先生のへやめがけて、雪玉を、ぼんぼんとぶっつけてよいのだった。すると、障子をあけた三原先生も、ひさしにでてきて応戦した。多勢に無勢、へやの中に雪玉が、どかどかはいりこむと、三原先生は、和平交渉をし、わたくしたちは、みんな、そのヘヤにあがりこんだ。そして、ナンキン豆をかりかりとむいてかじりながら、二人の先生とふざけあった。それから二人の先年が、英語の本や数学の本を出して、真剣にはなしはじめるのを、静かにみまもっていた。わたくしたちは、ふざけることのおもしろさと同時に、まじめに勉強することの大切さを、こうして知った。生まれて、はじめて写真をとってもらったのも、井上先生からであった。・・・ 井上先生は、翌年の春、受験勉強のかいがあって国学院大学に入学した。・・・ハガキが来て、一度返事を出したおぼえがあるが、その後の消息はわからない」         国分一太郎『恩師の思い出』


 書かれているのは原敬暗殺事件の1921年である。井上先生は旧制中学出の代用教員、師範学校教育の洗礼を受けていない井上先生は、自由闊達・天真爛漫で学ぶ希望と意欲をみなぎらせ、それだけで子どもたちを感化している。

 昔のの先生は、生徒の身近にいた。「遊びに来い」と言えば子どもでも歩いて行ける。生活のにおいの中で付き合うことが出来た。

 海軍将校で兵学校でも教えた祖父は、引退してふるさとの旧制中学で教えた。町の西のはずれに学校があり、家は東の端にあった、歩いて半時余りである。町の大方は知り合いであり、幼馴染も親戚筋も多い。何が問題のある生徒があれば、少し寄って問題には全く触れずにお茶を飲み、世間話をして帰る。それだけで十分だったという。説教の名人としても知られ、かなり遠方からわざわざ親子連れで叱られに来ていたという。しかし、叱ったことはなく、聞くだけで、みんな晴れ晴れとした顔をして帰ったらしい。時には、荒くれ者たちの仲裁も頼まれている。
 学校から戻ると、釣り竿を担いで港で晩のおかずを採るのが日課であった。暇があれば下手なバイオリンを弾き、頼まれれば、書や画を贈っていた。

 今先生たちは過労死限度を超えて働いているだけではない。大都市では遠距離通勤が当たり前になり、教育委員会が異動を支配の道具に使っている。どんなにいい先生も、池波や井上先生のようには振る舞えない。
 教師がみんな歩いて通える学校で教えるだけで、どんなに楽になり、活動的になるだろうか。通勤手当の総額は膨大な額だし、通勤電車も楽になる。企業が flextime systemをとっても、始業時間が画一的にならざるを得ない学校はそうはいかない。だが保守系議員は、教師が地域に根を張ることをひどく嫌悪している。地域活動に及ぼす影響は計り知れないからである。同じことは自治体職員や、政府職員にも言える。行政に不正があるとき、事情に通じた他自治体の職員が、地域住民として存在することは、不正側には徹底的弱点となる。遠距離通勤と長時間労働と頻繁で恣意的な転勤は、政策なのである。

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