エネルギーのあるところに組織なく、組織あるところにエネルギーはない

   「エネルギーのあるところに組織なく、組織あるところにエネルギーはない」 
 谷川雁←(クリック) の言である。

 あるクラスに複数の個性的「私的」新聞社が出来て、互いに競った事がある。(「ゴミをさらってゆく風になりたい」で描いた)←(クリック) 高校紛争直後の山手住宅街の高校だった。担任はクラスに無関心、生徒も担任に無関心。年に二度まで認められる一泊のクラス合宿にも担任はゆかない、生徒の側からすれば連れて行かないだった。生徒たちが引率教師を指名した。彼らは、組織として「しなければならない」ことから解放され、エネルギーに満ちていた。
 組織は、それを作ること自体にエネルギーを使う、組織の維持と運営にエネルギーを使う、組織の監視と指導にエネルギーを使う。組織は必然的に「組織中心主義」になる。
 担任や生活指導部は組織そのものが、自分の有能さの証になるから張り切る。しかし生徒にとって肝心なのは、活動の中身だけである。人から言われて造り上げれば、中身が始まる前に疲れてしまう。この時期1970年代、生徒会や新聞部の学校新聞が次々に潰れた。紛争に疲れた教師が「指導」に乗り出したからだと僕は思っている。自主的に新聞をつくる楽しみよりは、教師の臨席する会議や調整が優先されたのである。担任が発行する学級新聞も流行した。
  「私的」新聞社は大抵三人で切り盛りしていた。三人の仲間はいわば学校の最小単位、「部落」にあたる。互いの家庭も気心もよく知り、喜怒哀楽や利害も程度共有できるのは、三人である。部落が集まったものが村としての学級だが、三人の部落にとって「社会」として機能して、利害の異なる同士を認識して出来るのが自治組織である。クラスを超えて繋がったところに生まれるのがサークルである。
  教師は、先ず組織を作りたがる。偶然に集まった若者たちの生活の中に、小さな共同体が生まれエネルギーが溜まって動き出すのを待てない。上からの組織の網を無神経に被せて外形を整えてしまう。それを「有能」と錯覚する傾向は根強い。

 「啐啄の機 1 リーダーは要らない」や「和解する教室   1-6でおこったこと」で描いた学級でも、僕は組織化を極力避けた。人から見れば単にサボっているように見えたに違いない。例えば生活「班」などと言うものは決して作らなかった。しかし、だからこそやがてクラスの中に「部落」が生まれ、喜怒哀楽を共有すると共に、利害や好みの違いが気になり始めて、行動への意欲やエネルギーが生じる。 ハンナ・アーレントが
仮に、互いに異なる利益が存在しないなら、共同の利益は何らの障害も持たないから、人々は共同の利益というものにまず気づかないだろう。すべては放っておいても進行し、政治は技術であることをやめるであろう
と言ったのは高校生の集団にも言える。教師ははクラスの中に、利害の不一致が生じるのを嫌がる。そうではないことに留意したい。気まずい雰囲気こそが共同への手がかりを与えるのである。違いを認識して一緒に何かを作りたいからこそ、共同するのである。授業の後で、生徒たちが「世界が広がる」「自分が広がる」というのは、それを言っていると思う。 
  中井正一が
ある瞬間がくるまではびくとも動かない岩の扉が、ある瞬間が来ると突如として開くときがある。しかしそれはただ自然に開くのではない。一本の小指の力でもいい、運動を起こす力が加わって、始めて歴史の扉は開く 
 と言ったのは、こういう些細な日常に現れることである。しかし、担任が運動を起こす力となってはいけない。一本の小指ではなく、興奮の余り全力を傾けてしまいがちだし、たとえ僅かな力のつもりでも生徒から見れば、縋り付きたくなる充分な大きさを持ってしまう。生徒の中に必ず動きは出てくる。その僅かな変化を見守り信頼しなければならないと思う。信頼は心地よいものとして現れてくることは滅多にない。
 「その一本の小指と」して現れる若者、それが未来のインテリゲンチアである。この発見あって始めて僕らの未来へ向けた授業はあり得る。啐啄の機とはそういうことでもある。
  この最初の「小指」たる若者は孤立しているように見えるが、必ずエネルギーを漲らせた仲間がつづいている、経験的に僕はそう言い切る。「啐啄の機 1 リーダーは要らない」で言い出しっぺになった少年は、見事に彼につづく反応を引きおこし、しかしリーダになることはなかった。クラス演劇に向けてのエネルギーは、組織化に伴う消耗から解放された大きな「集落」として喜怒哀楽を共有したのである。「和解する教室   1-6でおこったこと」では、臨時HRを提起した六人が、クラスの中心として復活する事はなく、幾つもの「集落」の寄せ集めとして利クラスが「自治」を担い、自治に難癖を付ける教師の授業をボイコットして抗議文を突きつけたのである。

追記 勿論、「部落」も組織化されうる。五人組や隣組のように、上意下達だけが強いられ下意上達は危険思想と見なされやすい。私的「新聞社」の方がクラスの様子を伝えて、教員の有料読者を獲得し下意上達するのであり、政府御用新聞のような無様な上意下達に荷担はしないが、職員会議のスクープや駅前焼鳥屋での張り込み取材で情報を獲得していた。 彼らにとって新聞は、ごっこ遊びの楽しみとエネルギーにクラス社会の「公器」としての性格が加わったものだった。記者兼社員が増えて大きくなる代わりに、対抗する新聞社が次から次に出来た。

宇高申先生 1   留置場の先生に生徒の声援

  宇高申先生は1966年12 月11日日曜日朝、自宅に押し寄せた新聞記者たちに取り囲まれ、警察官に紙切れを示された。翌12日から15日の四日間先生は、野方署に留置、同時に家宅捜査を受け、教員組合関係書類が押収された。1958年4月21日の都教組一斉休暇闘争を地方公務員法違反として 取り調べを受けたのである。先生は当時、都教組中野支部委員長であった。同時に区立中央中で数学を教えていた。その生徒たちが休み時間の度に廊下の窓越しに、野方署の留置場に向かって一斉に叫んだのである。「宇高先生頑張れ」と一時間ごとに収監中の教師に中学生が激励したのは、前代未聞だろう。野方署と中野区立中央中は隣あっていたので、声は直接先生の耳に達した。声の励ましと共に父母からの差し入れも、ふんだんに届けられた。生徒たちや父母の信頼は抜群であったことがわかる。何故かこの希な光景を報道した新聞も雑誌もない。警察の出頭要請には仰々しく押し寄せるが、収監された教師の人物像を伝える光景には、関心を示さないのである。しかし、東京地検には、この情報は届いていたと思われる。なぜなら宇高先生は、都教組事件の起訴状から除外されたからである。地検の狙いは、地方公務員法第61条4号のあおり行為等に当たるとして、起訴して有罪とすることであった。煽りとは扇動であり、地公法はこれを特に悪質と見做して、公務員をストライキから隔離しようと目論んだ。だが、公務員を含む全ての労働者の労働基本権を保証した憲法に違反、地方公務員法自体が違反している。一斉休暇闘争当時の世論はどうだったか。

 「勤務評定をどう思うか」の全国世論調査(有権者3,000人を無作為抽出)
 ◇小学校や中学校の先生の教え方について、校長先生が点数をつけるのは、よいことだと思いますか。
 よい 44%、よくない 33%、その他の答 7%、答えない(わからない)17%
 ◇小学校や中学校の先生方の考え方や思想に校長先生が点数をつけるのは、よいことだと思いますか。
 よくない 46%、よい 28%、その他の答 4%、答えない(わからない)22%
 ◇日教組では勤務評定はいまの平和で民主的な教育をこわしてしきつと反対しています。先生たちの言分はもっともだと思いますか。
 もっともだ 33%、そう思わない 31%、その他の答 7%、答えない(わからない) 29%
 ◇政府は勤務評定は「まえに法律できまったことだから」といって、この際いそいで実施しょうとしています。あなたは政府が実施を急ぐ方針に賛成ですか。
 賛成 21%、反対 49%、その他の答 3%、答えない(わからない)27%
 ◇勤務評定をやめさせるために、日教組はこの15日の授業をやめたり、半日で打切ったりしたところがありました。あなたはこのやり方に賛成ですか。
 賛成 9%、反対 75%、その他の答 7%、答えない(わからない)14%
       (勤評世論調査 1958年9月17、18日の両日、『朝日新聞』)

 第二項目と四項目目の質問と回答をみれば、政府のやり方に対する国民の懸念がかなりあることが解る。しかし当時の新聞の社説論調は、教員に冷たかった。典型的論調は
 「この一年間の紛争に、国民はアキアキしてしまった。なによりも問題、義務教育を受けている子供たちが迷惑し、その父母たちが混乱していることである」(毎日新聞 1959.2.16)に代表される。確かに、例えば高知県では実態を調査にきた日教組委員長らが集団暴行を受けて、十数人の重軽傷者を出した。
  だが「子供たちが迷惑」という決まり文句は、巷に溢れたが子どもの「迷惑」の実態にも本質にも迫らず、論戦の質を著しく低下させてしまった。子どもにとっての悲劇は、勤評政策とその先取りを画策する管理職や教師の動きであった。勤評に反対する行動やストライキではない。これは僕が直接経験し、高校生になってまだ記憶に生々しい時期に「研究」したことに基づいている。校長は校長としての勤評される。周辺他校に比べて評定を高めるよう進学実績や業者テストに力を入れるだけではなく、それまでは実態のなかった委員会活動が強制されるようになった。教室の席は、成績順に四つのグループに分けられ、それぞれ廊下側、窓側・・に座らせられクラス中が暗く沈んだ雰囲気になったのである。決してストライキのせいではない。地元の四谷二中は、京王・小田急線などを利用する越境入学者で溢れ、当時東大合格者を百人以上出していた新宿高校や戸山高校ら進学する者の多い名門であったが、突然「二中はガラが悪い、不良が多い」という風評がPTAを通じて広がり、私立を受験したり他校区に越境しようとする者が出始めた。お陰で塾に通う者が増え、担任への付け届けがささやかれるようになった。遊び仲間もバラバラになったのである。もしストライキがあり、その理由がわかれば、小学生であっても中野中央中の生徒と同じように「先生、頑張れ」と叫んだに違いない。 現実に二中では勤評反対スト集会に参加して帰ってきた先生が、授業に影響が出たことを詫びて、ストの理由を説明したとき僕らは拍手した。

 もし、宇高先生を裁判にかければ、留置所に響いた「先生、頑張れ」は地裁に響いたに違いない。先生は中央中から3キロ離れた杉並の天沼に住んでいた。杉並は主婦を中心にした原水爆禁止運動の発祥の地である、中野は教育委員の準公選制を続けた土地柄である。主婦や生徒を中心にした、「反勤評」の全国的なうねりが生じた可能性は高い。なにしろ「杉の子会」という杉並区の主婦たちの小さな読書会から始まった原水爆反対署名運動は、1954年から1955年の夏までに世界中から6億7000万の署名を集めているのである。僕はこの読書サークルに眼を向けられなかったノーベル財団をつまらないと思う。                                        つづく

追記 写真は中野中央中で数学を教えていた当時の先生。この当時公立中学校で制服のないところは珍しくなかった。これは陣馬山への遠足。

取り返しのつかない禍根を残した「ディベート」が二つ

  近代日本に取り返しのつかない禍根を残した「ディベート」が二つある。両方とも、論争と言える代物ではない。
 一つは脚気を巡る栄養障害説と病原菌説の論争。これは明治天皇を巻き込み、陸軍と海軍、西洋医と漢方医、東大と私学の面子をかけた国家的規模のもの。白米という面子にこだわって、日清・日露戦争では脚気死が多発。戦死者を遙かに上回った。陸軍軍医局長として年間数万の死者を出し続けたのは、軍医総監、従二位・勲一等・功三級・医学博士・文学博士森林太郎である。 
 もう一つは、ハンセン病の伝染と患者の絶対隔離を巡る論争。全世界の医学会を敵に、絶滅隔離を続けた日本ライ学会の頑迷窮まる姿勢は2001年 「らい予防法」違憲国家賠償請求訴訟判決を待たねばならなかった。100年に及ぶ監禁虐待殺人に対する責任を負うべき者には、文化勲章が贈られている。

 共通するのは、主流派に「真実の発見」への姿勢が徹底して欠けていた点である。集団の面子を賭けて、ひたすら勝つことだけを目指す。
 罵り合い、自己満足に浸る時と能力を、真実の発見に向けた共同が求められる。
 非対称性がどんな論争にもあって、業界・報道機関ぐるみで争点は一方的に据えられてしまう。それを克服するために、桑原武夫や鶴見俊輔が力を注いだ共同研究的手法は優れている。彼の指導下にいかに多くの多様な知識人が育ったことか。本来は人類全体の知的遺産として共有すべきを、ただ遊技のように争う。見苦しく生産的ではないことは、先に挙げた二つの例に明らかである。
 真理・真実への問いは、知識にとって根本問題である。ならば「真実の発見」への姿勢が徹底して欠ける時、一体知識とは何なのだろうか。消費する無知と言うべきである。

番外 勤評は小中学生に何をもたらしたのか 1

  「戦後、安保・三里塚・学生運動など大規模な民衆の闘いがあったが、それが引き継がれるどころか今は話題にもならない。なぜか。日本人は明治から“臣民”と呼ばれ、支配者の命令に従うだけの存在に甘んじてきたからだ。“臣民”は家来であり奴隷だ」 むのたけじ
  生活指導という言葉を、僕が始めて聞いたのは小学校高学年になってからである。全生研発足は1959年だから時期は一致している。生活指導それは、僕にとって巧妙な「臣民化教育」であった。
 話し合いで決定すべきことは、忖度することに長けた良い子たちが、担任の意向を予め読んで班長会で決める。それ以降はいかに熱心に実行するかが競われる。 僅かに残された不参加という選択肢は予め封印されている。一般の生徒は下僕でしかない、従う以外を選べない。しかも嬉しげに全力を挙げて。
 たとえ同じに見えても「民主的」教師と「権力的」教師がやるのは意味が違うという言説もあった。確かにそうである、前者の方が罪深いのである。
 少なくとも僕が担任する学級では、参加・同調しない権利を明示し擁護したいと考えた。同調圧力を高めることは、理性に反するのである。「クラスの生徒が様々な行事や義務に参加しないことを保証する」その延長上にのみ、君が代で起立しない教員の権利がありうる。                  
 
 六年の三学期はじめのことだ。「いよいよお終いだ。楽しい思い出を振り返って、お別れ会をやろう。いいだろう」と担任が、提案した。六年間クラス替えなし、多くは同じ校舎の幼稚園でも一緒、二年から六年までは同一担任である。濃密な人間関係がこのクラスにはあった。誰も何にも言わない。
 「みんなでやろう、いいだろう。歌や寸劇やそれぞれ得意なものをやろう」と念を押す。
 「やろう、やろう」と声が上がり始める。僕はこうした行事が苦手で、いつもの僕なら当日はサボって帰ってしまおう、そう決断していた。しかし「いいだろうと言う担任の問いかけは、イヤダと言うことを認めている」そう考えた。
 「嫌です、僕はやりたくありません」クラス中がキョトンとした。そのあと小一時間、僕と担任は言い争った。
 「みんながやりたいというのに、お前一人が反対するのか」「このクラスの六年間が楽しくなかったと言うのか」「多数決に反対するのか」・・・と担任は責め立てた。まさか「よい子」の僕が反対するとは予想しなかったと思う。第一多数決なんかしていない。
 「楽しくなかった」「やりたい人が勝手にやればいい」「僕の他にも嫌がっているのがいる筈」と僕は応戦した。担任は、みんな・全体・協力を、怒りながら強調することで「いいだろう」には同意することしかできないことを白状した。
 僕は「僕」を強調して不同意を貫いた。その時転校生としての二年半の様々な思いがよぎった。

 第一は、いつも教室や遠足などの行事・集団行動で隅に隠れるようにしていた二人のことだった。誰も彼らを一緒のグループに入れようとはしない。発言しても拍手はまばら、運動会でも声援はまばら・・・。東京の子どもは冷たい、四年二学期からの転校生の僕はそう思った。卒業直前にまたそれを繰り返すのか。可哀想で見ていられない。僕は「おい、・・・お前たちも嫌だろう、何故怒らないんだ」と二人に言いたかった。

 二つ目、これが僕が担任に「楽しくなかった」と噛みついた最大の理由である。小学生五年生になってクラスの座席が突然成績で分けられ、受験用の業者テストが常時行われるようになった。授業が減ってみんな教科別に「自由自在」やアンチョコを買った。クラスは点取りの雰囲気で暗くなった。
 このクラスは非常に仲が良く、毎年同窓会が開かれるが、この時のことが度々話題になる。誰もが「あれは嫌だったね」「このクラス唯一の汚点ね」と顔を曇らせる。あれが「勤評なんだ」と言うと誰もが「そんな難しい問題なの」と深入りしたくない顔をする。60年を経てもかなりのトラウマになって思い出したくないのだ。
 そして六年の二学期三学期は、通信簿の成績が明らかに操作された。僕の通信簿から突然「5」が消えて、「5」になるはずのない音楽だけが「5」になったのだ。「5」が一番たくさんあるのは僕であることを、担任から偶然聞いたのは僕の隣に座っていた担任のお気に入りの女の子。この女の子は、今僕の妻である。野球で遊んでばかりの僕が一番成績がいいと知って吃驚したという。受験用業者テストにはいつも千人中の席次とクラスでの席次がついていて、一学期も二学期もこの席次は大抵一位か二位で変わらなかった。楽しいわけがない。中学に入るとたちまち通信簿は元に戻った。「勤評」がクラスの成績別席順をもたらし、私立中学受験者の内申ために成績が弄られた可能性に気づいたのは高校に入ってからである。

 うっすらと甦る記憶がある。その頃から始まった担任へのお中元やお歳暮である。それがクラスでも流行っていたらしく、母が「うちも何か持って行った方がいいのかしら、よそではみんな何か贈ってるそうよ」と呟いたのだ。僕は猛烈に反対してうちを飛び出し、父の事務所に隠れた。

 担任と僕の長い言い争いが終わった後、いつもの草野球仲間がバツの悪そうな表情で一斉に寄ってきた。
 「たわしごめんな、本当は俺も反対だったんだ」
 「担任があんまり怒るから怖くて手を上げられなかった、ごめんね」
 「いいんだ、どうせ、お別れ会も卒業式も出ない」翌日、母が学校に呼ばれた。
 「こんなに非協力的な生徒は初めて」と言われて帰ってきた。心底担任が嫌いになった。これが都会の「明るい」臣民のクラスである。しかし僕はやっぱり子どもだった、周りから
 「たわし、一緒にやろうよ。お前が入ってくれないとつまんないじゃないか」などと言われて妥協してしまった。大いに後悔した。誰からも拍手されない二人への眼差しは、あいも変わらぬものだったからだ。僕はこの時を除いてずっと、卒業式や関連する行事には出ていない。人気者と取り巻き連中の無邪気で不公平な明るさを、今も好きにはなれない。

 後年、中国からの引揚げ生徒の一人が、昼休み平然と校外に出て昼食をとっていたのを思い出す。
 「みんな昼休みは外に出ないんだ、決まりだ」と立ち塞がる教師を、彼は
 「僕はタバコを吸ったりパチンコをしに外に行くんじゃない。そこをどいて下さい、決まりには理由がいる」と退けて堂々とラーメン屋に行くのだった。それを見てほかの生徒が真似をするわけではなかった。

追記 勤務評定は、教員と管理職 組合と教委や父母の問題として論じられることが多い。僕は鹿児島の田舎と東京四谷の小学校そして中学校で、勤務評定がどのように教室を変えるのかを体験した。それが「勤評」だったのだと認識したのは、高校に入って「教育問題」を社研で研究してからである。まだ、記憶が新鮮だったから、日付を追って確認するたびにいちいち腑に落ちた。
 教育行政を歴史的に研究する時、当時子どもだった人々の証言を集めて欲しいと切に思う。「子どもに悪い影響を与える」と教員のストライキを非難する傾向が強いが、それは実態を捉えていない。子どもに悪い影響を与えたのは、勤評に反対して抵抗した教師ではない。勤評に屈した校長や教委が現場を無意味な「競争」に追い込んだからである。そして彼らが考案した幼稚な対策が僕らを苦しめた。
 中学校では「勤評」に反対して集会に出かけるために授業を自習にする美術の先生が、前もってその理由を説明した。僕らは拍手した。自習になるのが嬉しかったからではない。

自由を軍隊とし、艦隊とし、平等を要塞にし、博愛を剣とし、大砲とするならば、敵するものが天下にありましょうか

 洋学先生:「ヨーロッパ諸国はすでに自由、平等、博愛の三大原理を知っていながら、民主制を採用しない国が多いのはなぜか。道徳の原理に大いに反し、経済の理法に大いにそむいてまで、国家財政をむしばむ数十百万の常備軍をたくわえ、むなしい功名をあらそうために罪のない人民に殺しあいをさせる、それはなぜでしょうか。 文明の進歩におくれた一小国が、昂然としてアジアの端っこから立ちあがり、一挙に自由、博愛の境地にとびこみ、要塞を破壊し、大砲を鋳つぶし、軍艦を商船にし、兵卒を人民にし、一心に道徳の学問をきわめ、工業の技術を研究し、純粋に哲学の子となったあかつきには、文明だとうぬぼれているヨーロッパ諸国の人々は、はたして心に恥じいらないでいられるでしょうか。もし彼らが頑迷凶悪で、心に恥じいらないだけでなく、こちらが軍備を撤廃したのにつけこんで、たけだけしくも侵略して来たとしで、こちらが身に寸鉄を帯びず、一発の弾丸をも持たずに、礼儀ただしく迎えたならば、彼らはいったいどうするでしょうか。剣をふるって風を斬れば、剣がいかに鋭くても、ふうわりとした風はどうにもならない。私たちは風になろうではありませんか。 弱小国が強大国と交わるさいに、相手の万分の一にも足りない有形の腕力をふるうのは、まるで卵を岩にぶっつけるようなものです。相手は文明をうぬぼれています。してみれば彼らに、文明の本質である道義の心がないはずはないのです。それなら小国のわれわれは、彼らが心にあこがれながらも実践できないでいる無形の道義というものを、なぜこちらの軍備としないのですか。自由を軍隊とし、艦隊とし、平等を要塞にし、博愛を剣とし、大砲とするならば、敵するものが天下にありましょうか。 もし、そうはしないで、こちらがもっぱら要塞をたのみ、剣と大砲をたのみ、軍勢をたのむならば、相手もまたその要塞をたのみ、その剣と大砲をたのみ、その軍勢をたのむから、要塞の堅固な方、剣や大砲の鋭利な方、軍勢の多い方が必ず勝つだけのこと、これは算数の理屈、明白きわまる理屈です。なにを苦しんで、この明白な理屈に反対しょうとするのですか」                                      中江兆民『三酔人経綸問答』 p14
  王工の元番長たちの生き方は、洋学先生の思想に底通している。それ以上かも知れない。なぜなら元番長らのほうが経験と省察において見事だったからである。彼らが揃って「ツッパリは辞めるよ、高校生にもなってかっこ悪いよ」と言った切っ掛けは何か。彼らの「サナギ」の時期は何時だったのだろうか。芋虫が蝶になる時、必ず「サナギ」の時期をとおる。キャベツの葉に取り付いて、外見上は一切の動きを停止しているが、内部では生物の質的再編成が繰り広げられている。その結果芋虫は、少しの連続性もなく蝶になる。同じ事が少年期から青年期にかけて人間にも起こっているのではないかという発達心理学的仮設がある。
 その「サナギ」の時期は一律ではなく、半日の場合も、中学や高校の大部分を要する事もある。これは僕の体験的実感。蝶はキャベツも芋虫のことも覚えていない。希に親や担任が、事後的に気付いて、冷や汗をかく事がある。外見上、「サナギ」化した少年は怠惰に見えて、親も担任も右往左往して対応を誤りがちだからである。サナギに説教やトレーニングは無意味、鳥が啄むのを警戒して、この成長に於ける大革命を見守るしかない。
  我々は、高名な知識人たちの哲学や思想を追うのではなく、我々の周りにいる隠れた賢人たちに学ぶ必要がある。彼らの世界観は、徹頭徹尾、経験に裏付けられているからである。

若者を貧困と無知から解放すべし

    「病気の原因は社会の貧困と無知からくる。」「だがこれまで政治が貧困と無知に対してなにかしたことがあるか。人間を貧困と無知のままにしては置いてはならないという法令が出たことがあるか」   黒澤明は『赤ひげ』で新出去定に怒りを込めてこう言わせている。             ...