首里高校が持ち帰った甲子園の土は捨てられた

沖縄球児無念の原点は「天皇メッセージ」にある
 小説の作者と読者の間には、ある種の共有空間が形成される、されねばならない。教師と生徒・学生の間にも。gameの勝者と敗者にも、共有という事がある。それが共感や連帯の根底にある。RugbyやSoccerのWカップは異なった民族間の絆を確かめたなどと言うように。
 しかし現実はどうか、game の商品性(放映権料、入場売り上げ、視聴率、新聞部数、star playerの契約金・・・)の前に、共有の事実は見事に無視されている。アマチュアであった時代のスポーツが持っていた歴史性や社会性は、もはや実態はない。首相は相次ぐ台風災害の最中、Rugbyに現を抜かして「「夢のような一ヶ月間」と言い放つ始末だ。現実逃避がプロスポーツの機能である。首相だけが逃避するのではない、国民全体がメディアを通して逃避し安堵するのだ。

   例えば高校野球では長い予選を経て、全国の仲間との競い合いが繰り広げられる。甲子園では泊まり込みだから対戦するplayerどうしや応援生徒たちにも、濃密な交歓があるのではないか期待する。
 敗退したチームが涙とともに甲子園球場の土を持ち帰るのは、恒例の美しい「青春」の光景になっている。しかし、ある高校球児が地元に帰った瞬間に「甲子園の土」は没収され捨てられてしまったことを知っているか。1958年8月31日、敗戦後初の沖縄代表首里高校の逸話だ。当時沖縄は返還前で、米軍統治下にあった。甲子園大会に、沖縄代表として初参加した。が、1回戦で敗退した。
 首里高ナイン数人が袋に詰めた甲子園の土を船で持ち帰った。那覇港で彼らを待っていたのは、甲子園の土は「外国の土」という占領の現実であった。
  この時の高校生の怒りと悲しみは、「共有」されたか。jal客室乗務員が甲子園の小石を贈った事が美談となるくらいだ、甲子園大会選手宣誓で、辺野古の戦いに思いを馳せることは考えられない。jal乗組員のすべきことは甲子園の石を集めてマスコミ上の美談の主になることではない。くり替えされる米軍基地の惨劇現場に佇むことでもいい、歴史性や社会性を共有することである。
 商業化した高校野球に歴史の「共有」などと言うことはないのだ。勝ち上がれば直ちにプロ契約金の額が紙面を飾るのだ。sportmanshipは少なくとも日本では、蘇生不可能な死語となった。山岳と漕艇だけはその例外だと期待していたが、無駄だった。 

 

少年/少女の逸脱は「精神の輝き」

靴を右左逆に履くと笑われるが、具合がいい
 隣家に幼稚園前の男の子がいて、すれ違う度に立ち止まって高校生の僕を見上げた。抱き上げて「高い高い」や両腕を掴んで大きく回転したりすると、喜んで何度もせがむ。その子に妙な癖があった。靴を右左を逆にして履くのだ。お母さんが玄関で揃えて履かせても、脱いで逆に履き直して嬉しそうに見上げて得意げであった。
 金があれば足に合った靴を買うことが出来る。しかし貧しければ、度々買うわけには行かないからブカブカのサイズを選ばざるを得ない。歩きにくい。逆に履けば靴と箸の形が一致しないから、方々あたって固定されて操作しやすく履き心地はいい。不格好で、笑われるが歩きやすいのである。

 余裕ある家庭ならば、こどもの成長が親にもよく見えるから、成長に合わせて着衣や靴だけでなく、日常のしきたりを教えたり変えたりすることが出来る。しかし貧しければ、親は食うのに忙しく成長の様を悠長に見ていられない。大雑把に世間に合わせたり、大きめなもので間に合わせてしまう。少年には不満やストレスが溜まる。

 幼児が靴の右左を入れ替えて履くように、少年/少女は万引きしたりタバコを吸ったりして、社会や学校とぶつからねばその世界の限界や形を知りようがない。だからよほど鈍感でなければ、少年はぶつかりはみ出して自分と世界の関係を確かめる。それ故少年/少女は「不良」を目指し、「不良」に憧れる。
 社会や学校が一人一人の成長や発達に無関心である時、少年/少女の逸脱は祝うべき事なのだ。


 組み体操の如き無茶を、集団的感動を強制する手段とする理不尽が罷り通る時、隣家に幼稚園前の男の子がいて、すれ違う度に立ち止まって高校生の僕を見上げた。抱き上げて「高い高い」や両腕を掴んで大きく回転したりすると、喜んで何度もせがむ。その子に妙な癖があった。靴を右左を逆にして履くのだ。お母さんが玄関で揃えて履かせても、脱いで逆に履き直して嬉しそうに見上げて得意げであった。
  金があれば足に合った靴を買うことが出来る。しかし貧しければ、度々買うわけには行かないからブカブカのサイズを選ばざるを得ない。歩きにくい。逆に履けば靴と箸の形が一致しないから、方々あたって固定されて操作しやすく履き心地はいい。不格好で、笑われるが歩きやすいのである。

  余裕ある家庭に育てば、こどもの成長が親によく見えるから、成長に合わせて着衣や靴だけでなく、日常のしきたりを教えたり変えたりすることが出来る。しかし貧しければ、親は食うのに忙しく成長の様を悠長に見ていられない。大雑把に世間に合わせたり、大きめなもので間に合わせてしまう。少年には不満やストレスが溜まる。

  幼児が靴の右左を入れ替えて履き、親を困らせるように、少年/少女は万引きしたりタバコを吸ったりして、社会や学校とぶつからねばその世界の限界や形を知りようがない。だからよほど鈍感でなければ、少年は掟にぶつかりはみ出して自分と世界の関係を確かめる。それ故少年/少女は「不良」を目指し、「不良」に憧れる。管理や規制に走るから双方心に棘を生やす。「漸く成長した」と笑って歓迎すべきなのだ。まさしく不良精神は、社会の輝きなのである。 社会や学校が一人一人の成長や発達に無関心である時、少年/少女の反抗だけが希望なのだ。


 世界にも希な体罰大国、民営化して激化する受験競争に反乱せよ高校生。共通テスト英語の民営化延期などに満足するな。入試の廃止を要求して反乱せよ。
 最もラジカルな反乱は、非日常性を拒否することだ。メダルや賞を目指すプロの激闘に陶酔する間に、自分自身の存在が極限にまで買いたたかれ打ち捨てられつつある事に、そろそろ目覚めるべきだ。他人の「栄光」は君の尊厳の代わりにはならない。
 
  

若者を貧困と無知から解放すべし

    「病気の原因は社会の貧困と無知からくる。」「だがこれまで政治が貧困と無知に対してなにかしたことがあるか。人間を貧困と無知のままにしては置いてはならないという法令が出たことがあるか」   黒澤明は『赤ひげ』で新出去定に怒りを込めてこう言わせている。             ...