独立した外交見識と手腕が平和には欠かせない

  「麗人科学者」山村八重子(1899〜1996年)の日記を読み解く連載が東京新聞にある。その第6回が彼女の兄山村一郎。


 山村一郎は早慶明三大学リーグ誕生の「生みの親」でもある。 1914年、応援団同士の諍いで長く早慶戦が中断したが、この早慶を仲介したのが山村一郎だった。最初は早明、慶明戦だけではあったが、三大学リーグが結成された。そこに法政、立教、東大が加わり、11年後に六大学に発展、早慶戦も復活した。


 フィリピンで大規模ヤシ園を切り盛りしていた一郎は、戦時中の42年5月奏任官(高等官)待遇の陸軍嘱託で大佐の扱いとして地元民との間を取り持った経歴がある。

 当時の陸軍軍政監部出張所長の証言によれば「あの地域では、あとから戦争犯罪に関する裁判の呼び出しが一つもなかったのですが、それは山村さんのおかげですよ」「憲兵隊長も山村さんのご意向を聞いて、決して無理をされなかったから、ザンボアンガだけ憲兵隊の問題が出てきません」「この人がおらなかったら、行政にしてもなににしても、話がうまく進みません」と、現地の事情に精通する一郎が重要な役目を果たしたことを明かしている。当時のフィリピン自治政府大統領のマヌエル・ケソンと山村一郎の写真(1936年)も残っている。

  独立した外交見識と手腕が平和には欠かせないことが判る逸話である。「統帥権の独立」と言う謀が軍部の横暴を許し、日本を一億層玉砕の淵に追い込んだのだ。戦犯たちは責任逃れに奔走、沖縄を嘗ての鬼畜に売り渡し、外交軍事の全てにわたって従属している。何が「cool japn」だ。

 敗戦後、山村一郎は米軍捕虜となり、レイテ島の捕虜収容所で捕虜代表を務めた。ヤシ園など現地の資産をすべて失い46年暮れに帰国。

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