異質の他者どうしが交流して生まれる幸福感、尊厳、能力の回復・・・

NHKからこうした地道で良質な番組が消えている
 地球ドラマチック「80歳、4歳児と友だちになる!?」
  NHKのホームページは、BBC制作のドキュメント番組をこう紹介している。

「番組は「高齢者の社会的孤立や孤独は、健康に影響を及ぼす深刻な社会の課題の一つ。」という認識からスタート。その上で、「薬ではなく、社会関係や人間関係を改善するだけで、孤独な高齢者をどこまで元気にできるのか?」を科学の視点で検証します。6週間に渡って、高齢者たち、子どもたち、そして専門家が挑戦する、まさに前代未聞の画期的なプロジェクトです。

  ブリストル郊外の高齢者施設に4歳児10人がやってきた!世代間交流プロジェクトを通して、高齢者の幸福感、運動機能、認知機能は、はどう変化するのか?科学的な検証を行う。参加者の一人、77歳のジーナは、夫が認知症になって以来、気分が落ち込み笑顔もほとんどみられない。しかし、プログラムを通して、子どもと手をつなぐなど自然と触れ合う時間が過ぎる中で、ジーナも笑顔をみせるようになる…(イギリス2017年)」
   BBCの番組ではこの取り組みが、僅か6週間で大きな成果を上げたことを伝えている。
 僕が何より関心を持ったのは、英国の老人ホームの「豪華」さである。領主や貴族の館が敷地ごと居心地の良いNursing homeに作り替えている。ベッドや椅子など家具も館の雰囲気を壊さない上質なものであった。日本ならこんな老人ホームに入るには、億を超す一時金と月々数十万円の費用が掛かる。
 英国の[bristol nursing home]を画像検索すればいくらでも出てくる。任意の英国の町名でやっても出てくる。

   英国人労働者は退職後の貯蓄に余り関心を示さないと言われる。45歳以上で預金額が9000ポンド(約140万円)未満の割合は2014年度末で全体の40%。BBCの例、これは特殊な階層向けの施設ではないか、そう思う人もありそうだ。だがそれは詮索が過ぎる。
 英国では誰であろうと国民が老人ホームに入居する場合、住宅、貯蓄、年金などの資産併せて500万円以下なら全てその費用を国が負担する制度になっている。ビバリッジ報告の精神「揺り籠から墓場まで」←クリックは、今尚守られている。長いナチスドイツとの闘いを経た戦後の苦しい生活の中で英国人が獲得した制度だ。ちっとやそっとでは揺るぐはずもない。労働者や福祉嫌いのサッチャーが腕まくりして戦争で国民を騙しても、これは残っている。
 だから英国の労働者は、140万円の貯蓄で悠々と生活できる。出世競争で過労死することはない。中学生や高校生は、日本のように将来に備えた受験競争で鬱になることも、推薦入学を狙って部活で体罰や虐めに耐える必要も無い。
  英国の少年は、政治や環境もに関心を持ち自由に行動できる。演劇や音楽にも夢中になれる。祖父や祖母たちの生活が保証され安定していることが、少年たちを若者らしい正義に導く。だからhate言説にも引っ掛からない。

 英国のNursing homeに比べれば、日本の老人ホームはどう見てもやはりウサギ小屋止まり。大名の館や豪商の屋敷が庭ごと老人ホームになることは想像すら出来ない。ウサギ小屋程度でも順番待ちで、待っている間にあえなく死んでしまう。それが嫌なら月数十万円を負担する必要がある。
 僕は考えた、日本の老人ホームに4歳児が大勢やって来て何処で走り回れると言うのだ。大勢の老人が保育園に出向くのか、どうやって。特別の施設を作らねばならない、何処にどうやって。東宮御所や各地の御用邸をお使い下さいとでも、皇族は言うだろうか。米軍基地や自衛隊基地を無くしてそれに当てようと言う議員は何人だ。

 「80歳が4歳児と友だちになれ」は゛、高齢者の幸福感、運動機能、認知機能が驚くほど改善すると言うことは、取り立てて驚くほどのことはない。異質の厄介な困難を抱えた者同士が、政府の無策無関心から同一箇所に押し込まれ、驚くべき変化が生じたことがある。大戦直後、米本土も多くの難儀に見舞われた。その一つが戦争が産んだ親の無い子たちである。戦災孤児が町に溢れ切羽詰まった政府は、こともあろうに知的障害者の施設に放り込んで厄介払いをした。しかもかなり長期間。
 戦災孤児たちが成長するにつれて、他の青少年に比べ知能が優れていることが次第に分かって本格的調査が始まったことがある。知的障害者の美的特質は偏見が無いこと、飽きないこと、丁寧なことだ。親の無い乳児や幼児の片言の言葉や行動に笑顔で付き合い続けたのである。親に出来ないことを彼らは立派にやってのけた。この意図せざる接触が知的障碍者の自律や成長を促したことも大いに考えられる。
  だが儲からないことや見放された者に、世界の警官を目指す国は無関心であった。

  老人と子どもは相性よく作られている。団塊の世代の僕が鹿児島にいた頃、大人たちか漁や農作業や鉄道や役場なとに出て学校も始まれば、老人と子どもだけが地域に残って賑やかだった。泣いたり、喚いたり、怪我したり・・・。町には幼稚園も保育園もなかった、母親たちはどこも家事で忙しかった、すべてが手作業だった、着物もおやつもおしめも出産も葬式も結婚式も祭りも何もかもが手製であった。
 路地や寺社の境内が、年中無休の即席保育所になり、近所の老婆たちは路地に面した家の縁側で子どもたちを見守りながら手作業し、世間話に余念がなかった。子どもは自由で安全だった。婆さんたちは子どもたちの歓声を聞きながら、「こん衆(し)ゃ、もう戦争に捕られんとじゃな」と何度も語り合った。どこに行っても、老人たちは機嫌が良かった。平和が老人と子どもにとって、最大の福祉であったと思う。子どもたちにとっても老人たちにとっても、黄金時代であった。彼女たちは敗戦間際、浜にかり出されて竹槍で鬼畜米英に立ち向かう訓練をさせられ、夫や息子たちを戦場で失っていた。
 だがその中から、ビバリッジ報告に類する社会福祉的発想は生まれなかった。直ちに戦争で儲けることに躍起になってしまった。そのことについての思想史的考察をしなければならない。貧しかったことが言い訳にならないのは、英国やキューバが歴史の中で証明している。 続く

分からないことが増える楽しみ / 闇を切り裂く勇気

闇を暗いと言う者が血祭りにあげられる
 分かったことと分からないことの二つから世界は構成されていると我々は考えてしまう。そうではない、それ以外に分かるか分からないかすら知り得ない広大な部分がある。
  何があるか想像すら出来ない事柄や世界への好奇心が強ければ、イブン・バットゥータのような冒険家やとなる。

 好奇心を維持して知り得たことを万難を排して伝えようとすれば、ベトナム特派員時代の大森実←クリック や特高に虐殺された小林多喜二のようになるかもしれない。
 想像すら出来ない事柄や世界に怯える人々は、人知をを超えた「崇高な原理」にすがる。
 
 僕は黒板に大きくない丸を描いた。
 「仮にこの黒板を宇宙全体としょう。我々が知っていることをこの丸が示しているとすれば、分からないことはどこだろうか」生徒や学生の多くは円の外側と声をそろえた。
 「そこは、分かるか分からないかすら分からない部分だ。 「分からないこと」とは、「分からないことが分かつている」こと。円を表す細い線の部分だけが「分からないことが分かつている」部分なんだ」
 「ここに描けない部分もある。僕は今これを二次元で書いた。三次元以上で書く方が相応しいが出来ない。世界は分からないことだらけだ。少し分かった途端、その何倍も分からないことが増える。

 アポロ11号の月着陸が疑われることの根拠の中にこれがある。月着陸で分からないことが増えていないからだ。事実なら、月着陸がもたらした新発見によって新しい疑問が山のように湧き出す筈だからだ」
  「もし僕の授業で、分かることがどんなに増えたとしても褒めるに値しない。分からないことが増えなければ、ペテンなのだ」

  津田左右吉もこう言っている。

 「・・・少しずつ、そうして次第次第に、いろいろのことがわかってまいりました。けれども、今日でもまだまだわからぬことが多いのであります。あるいはむしろますます多くなって来たのであります。わかったことが多くなりますれば、それに従って、わからないことが少なくなるように思われるかもわかりませんが―実はそうではなく、わかったことが多くなるにつれて、わからないこともまた多くなるのが、人の知識の性質であり、学問の基づくところでもあります。つまり疑問が深くなり、細かくなり、あるいは大きくなり、いままで気のつかなかった疑問がだんだん出てくるのであります」
 津田左右吉が『古事記、日本書紀の寝研究』で不敬罪に問われた裁判(1940年)に於ける「上申書」の部分である。

 疑うことが弾圧されるのは、疑われた事柄(例えば万世一系の天皇や建国神話、原発の経済性や安全性、沖縄の核兵器・・・)が事実ではないがゆえに体制の根幹を危うくすることを、権力者自身が承知しているからである。教育勅語や皇国史観は、民族や国体の名において疑い得ない前提となるが故に危険なのである。命を捧げることさえ疑わなくなる。自らの命を捧げることを疑わない者は、他民族を殺すことも厭わなくなる。


 分からないことも私的生活の秘密も秩序正しく排除された世界をオーウェルは『1984』に描いた。そこでは戦争が日常化していた。

  分からないことが増えてくるのを楽しみ、敢えて分からない領域に踏み込むことに価値を置くのが教室である。そうでなければ、権力の闇は決して暴かれない。闇を暗いと言う者が、血祭りに上げられる。官邸の記者会見は、すでにそうなっている。

 教科「現代社会」が高校に導入されたとき、当初は教科書無しという画期的方向性もあった。にもかかわらず「現場の強い要求」で教科書が作られたという苦い経験がある。

 教科書通りに「分かっていると権力が認定したことだけ」を教え、板書どおりに憶えて作られる究極の「明るい」格差社会世界をハクスリー『素晴らしい新世界』は書いた。
 分からないことやルールの定まらない未知の事態にワクワク出来なければ、新しい疑問が生じることも、発見も革命も正義も無い。

若者を貧困と無知から解放すべし

    「病気の原因は社会の貧困と無知からくる。」「だがこれまで政治が貧困と無知に対してなにかしたことがあるか。人間を貧困と無知のままにしては置いてはならないという法令が出たことがあるか」   黒澤明は『赤ひげ』で新出去定に怒りを込めてこう言わせている。             ...