傷痍軍人とパラリアン / 同情ではなく、承認と連帯を

 日本政府は占領統治が終わるのを待ち兼ねたように「戦傷病者戦没者遺族等援護法」(1952年)を成立させ、翌年GHQが停止した軍人恩給を復活させている。
 軍人恩給復活以降、旧軍人軍属や遺族らに対する補償、援護は累計で50兆円を超えた。一方、民間人には「戦争という非常事態下全ての人が被害を負うのだから等しく我慢しなければならない」という受任論で押し通している。恩給の支給額も上級将校に厚く下級兵卒に薄い構造の酷いものである。
 傷痍下級兵卒にとって療養自活出来る額ではない。 国電車中や駅構内にも、白装束姿で募金箱を首からぶら下げ物乞する「傷痍軍人」を見かけた。
 戦災孤児たちは傷痍軍人たちを手伝った。視力を失った傷痍軍人があれば物乞い出来る場所まで手を引き、歩けない傷痍軍人には食べ物を差し入れたと聞く。傷痍軍人は戦災孤児をかわいがり、路上の片隅で文字や計算を教えた。そんな美しい物語を抽出することも出来る。
 だが彼らにとって最大の問題は、信じた国家からも命を賭して守った筈の世間からも見放されたことだ。
     
 ノルマンディー上陸作戦(
1944年)で多くの負傷者を予想した連合軍は、いち早く治療とリハビリのための特別部隊を編成。競い合わせて効果を目論むリハビリの祭典=パラリンピック像の原型が形成され、「がんばる障害者」「苦難に挑むパラリアン」を演出する。
 ここには世間は、傷病兵を見捨ててはいないというメッセージが確かにある。日本とは天地の差である。社会の中に正当に位置づけられ、「承認」されることの意味は小さい筈はない。

 だが競争し勝つ見通しが、治療とリハビリに効果をもたらすのは事実だろうか。

 「承認」は他者にして「貰う」ものでは無い。他者から褒められることでしか「承認」を実感できなければ、何時までも褒めらようとの衝動にかられる。それは「依存」に他ならない。元気や勇気を「貰う」為に「勇者」・「聖地」巡りを繰り返すことになる。
 承認とは、「勇者」に近づいたり「人と違う自分」に安心することではない。普通の自分の価値を、自ら決定することではないか。所属組織のバッチを付けたり制服を着たりして、他者の承認を求めることを幼少から習慣化するこの国は、永遠の依存に身を寄せてきた。他国とは異なると思い込んだ、他国が「称賛している筈」の、coolな虚像を何時までも追い求め続ける。

 確かに東京パラリンピックが日程に乗って以降、
パラスポーツ用具と施設の進化は凄まじい。だが寝たきりの障碍者はベッドや車椅子で、日の丸が掲揚される場面の自分を想像して励まされるだろうか。
 僕は、パラスポーツ用の車椅子が急速にハイテクになったのに、老人ホームや障碍者施設で用いられる日常の車椅子の性能や使い勝手が一向に改善されずべらぼうに高いのに合点がいかない。一度外国の車椅子販売店を覗いてみるといい。安いだけではなく、粋なデザインで部品の互換性も高く耐久性もある。


 日本では、公園や繁華街そして学校に障碍者の姿が極めて少ない。僕は広東の飲茶屋で、車椅子の様々な年齢の障碍者を
度々見かけた。介助者なしで段差のある店の入口に来ると、付近の客や従業員が駆け寄って車椅子ごと運び上げてしまう。椅子を詰め合う、言葉が不自由な時は慣れた人がやってきて聞き取る、箸や食べ物を落とすのはしょっちゅうだがみんな慣れている。勘定が済んで外に出るまで全てが自然なのに僕は驚いたものだ。ここには「社会」が確かに形成されている。

 今我等の周りには、過労死ラインを大幅に超えた長時間労働を劣悪な環境で強いられる仲間・友人が犇めいている。「普通の自分の価値を自ら決定すること」など思いもよらない過酷さに喘ぎながら。

 僕は2001年春のHarvad大学に始まり、全米に燃え広がった「生活賃金運動」を思い起こす。
  一日にいくつもの仕事をしながら娘と話す時間もなく、それでも貯金を取り崩して生きざるを得ない大学清掃労働者たち。
 彼らの「生活賃金」を要求して、学生が大学本部を占拠。長い闘いの中で、発言の機会さえなかった清掃職員が自らの労働の誇りに目覚め、集会で発言する場面は感動的であった。
 同じような運動が現在の日本で求められている。必要なのは同情ではない、連帯なのだ。
 

教室で行儀良くディベートしている場合か、教師と討論し喧嘩せよ

体制に反逆して徴兵カードを焼く学生
   今は僧侶となった「木枯らし紋次郎」=中村敦夫がuclaバークリー分校を訪ねた時のこと。
 1969年、米国はベトナム戦争で揺れていた。・・・ 街角には戦車が止まり、ヒッピーや学生たちが、警官隊に追いかけられていた。街全体が白煙に包まれている。バスが大学前の停留所に止まると、武装警官が現れ、いきなり催涙銃をぶっ放した。拙僧も乗客も外へ飛び出したが、呼吸困難で地面を転げ回った。後で知ったが、これは歴史に残る〈人民公園戦争〉だったという。公園の使い方を巡って、大学理事会と学生が対立し、暴動に発展した。このドサクサにつけ込んで、反体制運動の拠点になっているこの地を抑えようと、レーガン州知事(後に大統領)が州兵を送り込んだ。
 最近の黒人虐待に抗議する巨大デモや、トランプによるワシントンへの州兵動員を見ると、あの時の光景がまざまざと蘇ってくる。50年経っても、米国は変わっておらんわい。

 それはともかく、何より驚いたのは、戦争の当事国で、市民もマスコミも、堂々と戦争に反対している事実じゃった。日本ではあり得んよ。

 あり得ん話をもうひとつ。大学の授業に潜り込んでいたら、突然、教授と一人の学生が激しい論争を始めた。テーマは、ベトナム戦争の是非。どうやら、教授は政府寄りの肯定派、学生は反対の立場だった。拙僧が注目したのは、その議論の激しさじゃ。お互いに相手を罵倒し合う。日本だったら、この学生は報復を受け、進級は無理じゃと誰もが思う。しかし、長時間の議論は、突然打ち切られた。「君が正しい。勉強になった。ありがとう」。教授はそう言って握手を求めた。その素直さに、万雷の拍手が起きた。
 僧侶中村敦夫は「なぜ?」と考え続け、英語には敬語がないとの結論に達する。平等な言葉でやり合えば、論理の正当な者が勝つと。
 そうかも知れない。そもそも大学生や高校生を学生=STUDENT=研究者と呼びもせず、生徒=PUPIL=弟子と呼ぶことへの抵抗感すらないのだ。言葉の専門家たるTVアナウンサーまでが、
平然と大学生を生徒と呼ぶ始末。
そうであればこそ、教師は生徒学生と対話したり論戦するとき敬語を使う必要がある。起立・礼のかけ声はもってのほか。
   ともあれ、こうした喧嘩的討論を経て授業の『秩序』は、学園のコンセンサスとして形成される。公僕である大臣が、主権者代表として記者の質問に「逆ギレ」する国を建て直すのは青少年の感覚にかかっている。ジャンジャン教師と論戦して勝たなければ未来は闇だ。討論して喧嘩・勝つほど勉強しろ。仕組まれたディベートを有り難がっているようでは、見込みはない。

もし、君の庭が貴金属だらけになったら

   夢のような幸運、たった一掴みでどんな贅沢も思いのままだ。ひとかけらの土も糞や汚物もない。大リーグ「大谷」の幸運は、さしずめプラチナか巨大なルビー相当だろうか。プロゴルフも競艇も競馬も囲碁将棋gamerもオリンピックplayerもその稼ぎ高が、画面や紙面を賑わす。それにつられ...