ぶれない事が重要か

 「我が「党派」はぶれない」と宣言するのが流行った。 

 オウム真理教のサリン殺人実行犯や戦中の皇道主義者たちは頑強に「ぶれ」なかった。彼らは揃いも揃って、ぶれを知らない「エリート」であった。ノーベル賞を目指す快活な大学の研究者、士官学校や兵学校出。彼らは民衆がどんなに犠牲になろうとも、些かも「ぶれなかった」。信念があったからだ。傍目には愚劣極まる宗教儀式に邁進しても「ぶれない」どころか信心を深める。信じれば信じる程「ぶれず」に虐殺は激化。たとえ負け続けても「ぶれ」ない。だから玉砕まで止まらない。

 切羽詰まって藁をも掴もうとする人には、それは藁だと教える必要がある。敗戦の半年前、「赤飯とラッキョウを喰えば爆弾に当たらない」という迷信が流れていたと、当時の朝日新聞が社説に書いている。人々が藁に縋りたくなったのは軍国政府が事実を伝えないからだと新聞までが書くほど流言蜚語が激しくなっていた。鬼畜米英や大東亜共栄も現人神も「流言蜚語」以外の何物でもない。 

 しかし藁を信じる者が「権力」ある多数派になれば、皇道主義以外を排除する言論報国会如きが組織され、藁だと指摘する者が迫害される。藁を掴めと叫ぶ事が「ぶれない」姿勢であった。竹槍で艦砲射撃やB29に勝てると信じて疑わないのが「ぶれない」愛国心であった。いま言論報国会は「電通」と風貌を変えている。

 電線の鳥や一本足で立ち尽くす鳥は、よく見ると畳んだままの翼や体を微妙に動かして絶えず重心を調整している。しかも夜はその状態で睡眠する。微かに絶えず「ぶれる」ことで落ちない。普段は飛ばない鶏でさえ、枝や棒に留まったまま睡眠を取れるのはそのおかげだ。

 

 教養とは「ぶれる」ことである。誰かどんな時にどのようにどこを向いて「ぶれる」かが問われる。陶器製の鳥はいとも簡単に電線から落ちる、絶対「ぶれない」からだ。安定と「ぶれる」ことは対立しない。

  

塾「変更」勧誘チラシの仰天

  塾の折り込みチラシを時々見る。不思議なことに、志望校合格者の写真が何年も変わらない。塾市場も飽和飽和を通り越して過飽和状態に陥ったことを白状している。過飽和状態は少しの衝撃で土砂降りになる。過冷却と言ってもよい。保険業界や携帯電話会社等も市場が過飽和、そればかりではない電力会社も都市ガス会社も過冷却状態。そこで行われているのが、電力会社はガス料金を安く、ガス会社は電力料金を安くするともちかけ、会社登録を変えさせる。実際は大して安くはならない。めんど臭かったり違約手数料が設定されていたりする。

 それぞれの会社が恰も新規契約があったように見せかけ、過冷却の現状を繕っているに過ぎない。

 生命生命保険会社も各地に保険の無料相談所の類を置いている。無料にはカラクリがある。無料相談所には保険会社からの販売手数料が支払われる。手数料の中身は、数年ごとの無事故祝い金や満期祝い金など保険者自身が出所であるものが少なくない。

 ガス会社はガス料金の値下げを、電力会社は電気料金を、保険会社は保険料を、携帯会社は通話料を、それぞれ値下げする。それが長年のお客にたいする商業道徳。他社顧客の引き抜きに顔色を変えるのは長年のお客に無礼極まりない。信頼関係が生まれる筈はない。

 建設業の受注実態を表す国の基幹統計を国土交通省が書き換えていたが、同様の不正はあらゆる分野で日常化していたのだ。 

 塾のチラシはほぼ全てが女子生徒の肖像を使っている。競馬や競艇の宣伝も若い女性ばかりを使う。男女平等格差が世界最低の国の珍現象だろうか。物言わぬお飾りとしての悲しむべき光景なのだ。男女平等格差をジェンダーギャップと言い換えて、ニヤつく政権党の責任逃れがそこにある。難し気な横文字や漢語を使えば誤魔化せるのだ。  更に最近驚いたのは、塾変更勧誘の案内チラシがあったことだ。塾市場も枯渇してきている。客=生徒の奪い合いだ。


 塾も生命保険も、政府がまともなら要らない筈の代物。将来の不安の産物に過ぎない。不安を官民挙げて煽った挙句の、虚構の産業である。早く滅びるがよい。

  英国人は退職後の貯蓄に関心を示さない。45歳以上で預金額が9000ポンド(約140万円)未満の割合は2014年度末で全体の40%。英国では国民が老人ホームに入居する場合、住宅、貯蓄、年金などの資産併せて500万円以下なら全てその費用を国が負担する制度になっている。ビバリッジ報告の精神「揺り籠から墓場まで」は、今尚守られている。長いナチスドイツとの闘いを経た戦後の苦しい生活の中で英国人が獲得した制度だ。ちっとやそっとでは揺るぐはずもない。労働者や福祉嫌いのサッチャーが腕まくりして戦争で国民を騙しても、これは残っている。


 だからこの英国では、140万円以下の貯蓄でも悠々と生活できる。出世競争で過労死することはない。中高校生は、日本のように将来に備えた受験競争で鬱になることも、推薦入学を狙って部活での体罰や虐めに耐える必要も無い。だから英国の少年は、政治や環境もに関心を持ち自由に行動できる。演劇や音楽にも夢中になれる。祖父や祖母たちの生活が保証され安定していることが、少年たちを若者らしい正義に導く。だからhate言説にも引っ掛からない。

 我々日本人はいくら稼いでも、不安でたまらない。互いに支え合う思想を知らない。墓や葬式すら見栄の張り合いだ。どんなに企業内部留保が積み上がっても、ワークシェアリングに踏み切れないのは何故なのか。

渋沢栄一は皇国的干渉と収奪の象徴。一万円札の顔に相応しくない。/ 干渉はするが、手助けはしない。 

  教育行政は、教師の教育に干渉して止むことがない。しかし決して手助けはしない。

  教材や資料の用い方はおろか、教師の思想や振舞いにまで口を出し、文書の形式提出に拘る。だが世界で群を抜いて長い労働時間に苦悶す教師たちに手助けの「振り」はするが、何年経っても実行はしない。これは教育に限らない。 巨大企業や警察では家族の思想や市民活動にまで介入する。 


 戦中の沖縄愛楽園に県警本部長一行が厳めしくやってきて、居並ぶ患者職員一同に皇民の心得を説いたことがある。戦場で兵士が命を投げ出して皇国に尽くしている時、ハンセン病者も死ぬことがご奉公である、つまり絶滅して経費を節約せよと説いた。その時、強制隔離された元教師の患者が

 「一家の働き手が収容されて、食うに困る家族を抱えた患者が沢山いる。患者にも死んで皇国に尽くせと言うなら、残してきた家族の支援をして欲しい。それが出来ないのは、ひょっとして陛下の目が濁っているからではないか」

 と神をも畏れぬ大胆極まりない批判をした。忽ち職員たちは狼狽、私服刑事が関係箇所を調べる騒ぎになった。

 感染の恐れのないハンセン病を渋沢栄一と光田健輔は「ペスト並みの恐い病気」と人々の恐怖を煽り、死ぬまでの絶体隔離体制を作り上げる。実際ハンセン病患者は併発した病気で死ぬことはあっても、「らい」で死ぬことはなかった。

 病院が医者が患者を助けず、一家の生活を壊滅させたのである。その「戦犯」に当たる渋沢栄一を近代資本主義の立役者と大河ドラマで祭り上げ、一万円札の肖像にするという。確かに渋沢は近代日本の犯罪的体制を象徴する人間ではある。しかし一万円札の顔として見せつけられるのは真っ平御免だ。

 野球部の顧問教師は生徒を坊主にしたがる。「大会の開会式で、球児全員が丸刈りで整列したら感動するよなあ」とは15年前の大会関係者教師が気持ちよさげに頷いた台詞だという。中学生や高校生を「球児」と呼ぶ神経も気持ち悪いが、そんなに丸坊主に感動するなら、自分たちがそうすればいい。他人の髪型に干渉しておいて、表現を手助けしないで、何の教師か。

 彼らはgameとしての野球が好きなのではない。統制と干渉が好きなのだ。だから日本の野球やサッカーは、自らを「サムライ ジャパン」と呼びたがる。日本の近代化は部活やスポーツ界に残る封建制の徹底的克服なしには始まりはしない。先ずは、渋沢栄一の一万円札を葬り去ることだ。


       李氏朝鮮時代から渋沢栄一の第一銀行は、関税の取り扱い業務などを代行して朝鮮政府に深く食い込んで日本貨幣を朝鮮半島でも流通させた。だが日清戦争後、ロシアの朝鮮半島進出とともに日本貨幣の流通が激減。そこで第一銀行頭取渋沢は、李氏朝鮮を引き継いだ大韓帝国に無断で「無記名式一覧払い約束手形」を発行。この手形が実質的な紙幣として朝鮮半島で流通、大韓帝国は1905年に正式な紙幣として承認するはめに陥った。その手形=偽紙幣に、渋沢栄一の肖像画がある。渋沢は京城電気(韓国電力の前身)社長や京釜鉄道会長を努めるなど、植民地収奪の象徴だった。

 この「干渉したがるが、手助けはしない」悍ましい文化が生んだ習慣が「自分へのご褒美」の侘しい光景である。誰も手助けしてくれないのだ。自分でやるしかない。しかし褒美は、他者に向けられてこそ価値がある。

 干渉はしないが、困っていると何処からともなく現れ手助けする人々もある。それが良き文化として定着している国もある。


悪菓?は良菓?を駆逐する

  「企業開発のゲーム」を授業で使う若い教師が増えたという話を聞いた。企業や団体が「開発」する教材やゲームを知って不快になったのは、1970年代終わり。ベトナム戦争に敗北した米国が、あからさまな軍事的侵略にかえて「開発」名目の新たな侵略に動き始めたころだ。

 それで思い出したことがある。東京に転校した1950年代の遅い時期。友達の家でおやつを出された。鹿児島の田舎では、おやつはどこでも「手作り」だった。つくるのに数日を要する手のこんだものから、茹でたり冷やしたりして切っただけのものまで、人手を経ていた。人手をかけることが文字通り愛情であった。貧乏だったが子どもと親の間には、安心と笑顔があった。

 東京の友達の家で見たのは、今スーパーで売られる「袋菓子」だった。企業の開発した画一的「袋菓子」が、家庭の個性的手作り菓子を放逐していた。まさに値札付きの悪菓が値の付けられない良菓を駆逐した。

 東京は豊かなのか、一体誰が豊かなのか、少なくとも「子ども」ではなかった。親の労働が子どもに向けられない。貧乏から抜け出すつもりの雇われ仕事が企業に富を蓄積すれば、貧しくなる者のあることに自治「行政」は気付かねばならない。それが共同体だ。一人では不可能なことを、みんなで補い合う。
 大戦で疲弊しきった英国社会揺り籠から墓場まで」を合言葉に、互いに支え合うビバリッジ計画で乗り切った。

 福祉も教育も医療さえ「営利」の対象にしたのが戦後日本だった。お陰で日本の疲弊した社会は、「高度成長」の幻想と再軍備に向けて解体してしまった。


 果物や農作物の土作りや種まきするとき、収穫物のイメージがある。草取り、収穫を経て食べるまでをみることが出来れば楽しい。出荷し人に食べて貰う場面を知る。その全過程が、自分の労働の中に常にあれば充実する。収穫の部分的肉体労働だけがあるとき、そこに収穫の喜びを見いだすことは出来ない、労働は苦役となる。全過程が自分の労働にあるとき喜びとなる。

 これを黒井千次は「労働の人格化」と呼び、Marxは次のように表現した。  

  「労働者は、彼が富をより多く生産すればするほど、彼の生産の力と範囲とがより増大すればするほど、それだけますます貧しくなる。労働者は商品をより多く作れば作るほど、それだけますます彼はより安価な商品となる。事物世界の価値増大とぴったり比例して、人間世界の価値低下がひどくなる。・・・さらにこの事実は、労働が生産する対象、つまり労働の生産物が、ひとつの疎遠な存在として、生産者から独立した力として、労働に対立するということを表現するものにほかならない。国民経済的状態(資本主義)の中では、労働のこの実現が労働者の現実性剥奪として現われ、対象化が対象の喪失および対象への隷属として、(対象の)獲得が疎外として、外化として現われる。・・・すなわち、労働者が骨身を削って働けば働くほど、彼が自分に対立して創造する疎遠な対象的世界がますます強大となり、彼自身が、つまり彼の内的世界がいよいよ貧しくなり、彼に帰属するものがますます少なくなる、ということである。・・・彼がより多くの価値を創造すればするほど、それだけ彼はますます無価値なもの、ますますつまらぬものとなる。・・・彼の対象がよりいっそう文明的になればなるほど、それだけ労働者は野蛮となる。労働が強力になればなるほど、それだけ労働者はますます無力となる」   『経済学・哲学草稿』(岩波文庫 P.86-90)


 親と子の間の愛情の「全過程が自分の労働にあるとき喜びとなる」ように、教師と生徒たちとの間には「信頼」が不可欠。その「過程が自分の労働」から奪われる度に教育は「苦役」に転化する。生徒と教師の信頼は、授業を通してのみ形成される。何故なら行事や式は、組織に対して向かい合うにすぎないからだ。偏差値教育も、数値に縛り付け組織に隷従させるものであり、教師と生徒の個性が火花を散らす多様性に満ちた授業とは相容れない。

 企業の競争力も大学ランキングも各種学力も、OECD諸国の最下位にあえぐのも、一人一人の個性的能力を蔑ろにした事の当然の帰結である。良貨は食いつぶされ、悪貨にしがみ付いている。

誰が「候補者」の質を見極め、鍛えるのか

 「市民たちはいま、候補者の質を見きわめようとしているんです。同時に候補者を鍛えようともしているんですね。このような市民集会は、市長選までに何十回となく持たれるでしょう。そのたびに候補者は市長にふさわしくなっていくわけです。なによりも、現市長批判派は右から左までいろいろですから、こういう集会の討論を通して連合していくわけです。そうして集会で一致するところを見つけては、それを公約にしていく・・・」    井上ひさし『ボローニャ紀行』

 これは立候補予定者を市民が作り上げる過程を見学中の井上ひさしに、ボローニャの通訳が語った「解説」。この「候補者の質を見きわめる」過程に数年かかる事もある。その粘り強さが、ファシズムとナチズム二つの敵と闘ったパルチザン闘争を産んだ。

 井上ひさしはこの時、「イタリアは国貧しけれども民豊なり、日本は国豊かなれども民貧しけりですね・・・」と呟いたとこの旅行の同行者は伝えている。今、日本のほうが遙に貧しい。


 ボローニャは靴も有名。靴屋では二か月掛かると告げられる。了承すれば足の木型を作る。それに合わせてまず片方を縫い上げ一週間歩き回らせる。そして微調整を加えながらもう片方も作るという。ワイシャツだってそうだ、出来合いを袋に入ったまま買うなんて考えられない。家だって何世代も住むのだ、建築家や大工や近隣との対話は欠かせない。それが自治的共同体をつくる。

 「討論する」とは何か。靴やシャツを討論する。住宅と討論する。だから街づくりや制度作りだって、じっくり討論する、それが自治における主権者の在り方だ。民主主義は「面倒」に決まっている。選挙に勝利する為には、元来は互いに矛盾するかのような要求を討議する中で、一致点を見出す必要がある。多様性を損なわないのでなければ「団結」とは言えない。

 日本財団の調査によれば、投票しない理由に「面倒」をあげる18歳は51%もいる。

 政党が、圧力団体が、宗教団体が、利権団体が「候補」を身内で決めていることに問題がある。

 ボローニャのように「候補」を育て鍛える集会が、地域ごとに日常化する共同体を先ず作り上げる。そんな共同体からは、無免許運転を繰り返す者や挨拶文や議会質問文を官僚に作文させる者は、候補になる前に淘汰されるだろう。どの党派との連合がその共同体で最も相応しいかを見極めるのも「討論」の積み上げでなければならない。

 何処か自分たちと無縁の組織が決めた組み合わせを押し付けられるのは、主体ある市民には心地よくはない。ある地域が特定の党派にとって「空白」であったとしても、その共同体は決して空洞ではない。必要なのは当該共同体による自己組織化であって、他地域からの移植であってはならない。

 自然の生態系は地域ごとに多様であって、画一的景観も画一的食事も根付かない。各共同体ごとの地域の多様な自治体が、先ず少数者たちの討論を積み上げ、共同体の未来像とともに候補が鍛えられるべきなのだ。立憲・共産・社民・れいわの合意は、こうした地域ごとの討論を基盤にしてこそ更に広がる可能性を秘めている。それは最も過酷な試練と闘い続けている沖縄か典型を見せている。 

20ヵ月に及んだパルチザン闘争には 25万人が参加。死者は3万 5000人以上、
虐殺された市民は1万5千人に達し、その多くが婦人と子どもであった。
ユダヤ人部隊も勇敢に闘った(右画像)


「圧制は支配される側の自発的な隷従によって永続する」

    「社畜」という言い回しがある。経営者や首長の驕奢を甲斐性と見做す性癖は根強い。

 働く者は薬物も犯罪もやらず、難民や移民でもない、まして犯罪者やその家族ですらない。教育水準も職務技能も決して低くない。勤勉で、長時間労働に耐える。にも拘らず、日本の貧困は世界で際立っている。「これは完全な「政策の過ち」である」と外国の研究者は驚いている。日本でだって心ある人々は絶望で立ち竦んでいる。  

 厚労省作成の「国民生活基礎調査」(2019年)によれば、平均所得(約552万円)を下回る世帯は61.1%、貯蓄がない世帯は13.4%。「生活が苦しい」と答えた世帯は54.4%に上る。


 株は買えないほど貧しいが、会社の株価が気になる。特売品と百円均一しか買えないから、盗まれる物も家も無い。検事総長予定者が賭け麻雀しても逮捕されないが、治安は良いと信じている。賃金も年金も安いが、テロもない。

 「防衛費」をGNP2%=10兆円に爆発させ、その殆どは米国製武器購入に充てられる。国内の工場や企業が生産で潤う筈もないのにそれをGNPに繰り入れる詐欺手法に、隣国が協調しないから「先制攻撃」も当然と拍手する。そして「変えて悪くなるよりは現状維持」と冷たい笑いを浮かべる。   その隙に日本独自のRNAワクチン開発資金が、怪しさ極まる加計学園に消えたことに怒る気配もない。

  日本の極右政権は、これを世界に類例を見ない日本国民の「美徳」であり、政治的「成功」と見做して、我が世の春を謳歌している。

 「完全な「政策の過ち」」が、何故日本国民の「美徳」に容易く転換するのか。大いなる幻魔術

 まさに天皇制国家体制の「幻魔術」の成果は手っ取り早く手堅い。(嘗ては筆頭戦犯を被害者に見せた幻魔術日本の君主制の際立った特色は、天皇家の対極として民衆の身近に被差別者を配置したこと。被差別部落、ヘイト言説に曝される朝鮮、技能実習生・・・、これらが君主制への憤怒を反らす役割を担ってしまう。それ故、国民の意識は君主=天皇一族への距離で自発的に階層化されるのである。

 北欧などの王政国家には、対極が存在しない。「被差別」者は、イギリスにとってのインドや南ア、ベルギーにとってのコンゴのように遠い国外に設定される。それ故、国民の中に社会的差別は生まれにくい。何故なら不平等は直ちに君主制への不信と怒りに結びつき、王制消滅を意味するからだ。それ故王家も政権も、国民全体の平等実現に努めざるをえない。

 天皇制がある限り、日本社会の社会的差別は永遠に続く。天皇制廃止なしに、この列島に平等は決して実現しない。従ってこの体制下の日本に人文主義は定着しない。

 16世紀フランスの人文主義者Étienne de La Boétieは『自発的隷従論』で、

 「悪い政治が成り立つのは、国民が進んでそれを受け入れているからだ」・・・「圧制は支配される側の自発的な隷従によって永続する」と述べている。


 同時に彼は、高等法院法官でもあった。人文主義者=humanisteは、古典や聖典の探求に基づいて人間と神の本質を考察したので、教会側は危険思想としてたびたび弾圧した。

 ナチへの不服従も人文主義は呼びかけている。

 体罰による生指や部活の横行がかくも長く続いたのも「支配される側の自発的な従属」があったからではないのか。

 自発的な従属=「民主化抜きの近代化」は驚異的な成長と軍事化を進めはしたが、人文主義者=humanisteの抵抗は稀だった。 

 ドイツ語で忖度を表わす言葉は、vorauseilender Gehorsam =先回りした服従 だという。ナチスの暴虐に対してドイツ人が執った行為の本質をよく表している。新自由主義の政権に対する日本メディアの行動は、もはや忖度では言い表せない。

三戸先生の「まくら」は抜群に面白かった

  「まくら」とは 噺の導入部である。

 「先生、教師も芸人かい」と問う生徒が下町の工高にいた。「似ているな」と答えると

 「頼む、俺を弟子にしてくれ」と言う。

 その半年前は「子分にしてくれ」だった。

 一応のテーマは掲げるが、授業としては全編脱線、言わばまくらだけ。クラスがかわれば別のまくらになった。教科書やノート無しで、起立・礼もせず教壇に立つ。それで芸人と定義したらしい。


 桂小三治の高座は「マクラ」が抜群に面白かった。特に彼がヨーロッパ公演で体験した話がいい。まくらの語りを再構成してみる。

 パリの空港で荷物を引きずって難儀していた小三治に、小柄な若者が寄ってきた。

  「ニコニコしながら、『持ちますよ』と言ってくれたんです、その人が」

 「私のことを柳家小三治だって分かって、話しかけて来たり、手伝おうとする人が、中にはいるんです。そういう人は目や、顔の表情で分かります。でも、その若者は私のことを人間国宝だなんて知らないで、『持ちますよ』と言ってきたんだ。これは、彼の表情を見てりゃ分かりました」

 小三治は荷物を持ってもらい、丁重に礼を伝えた。その若者は、「いやあ、いいんです」と言いながら、ずっとニコニコしていた。

  互いに互いを知らないから、話はそこで終わる筈だった。ところが、小三治は荷物を持ってくれた男と再会する。彼は、テレビのなかにいた。パリの若者は2019年秋、ラグビー・ワールドカップに出場していた。

 「あ、あのときの・・・」

 小三治は驚いた。それからというものラグビー日本代表の彼を夢中になって応援した。毎試合その選手が登場すると、テレビに向かって叫んだ。「タナカ!」

 荷物を持ってくれた若い男は、日本代表のスクラムハーフ、田中史朗だった。


 ここにはスポーツ観戦の思想が見事に展開されている。見たいのは、闘う選手の優劣やメダルの数や賞金の額ではない。まして日の丸掲揚ではない。人生を他人の活躍や成功に託すことではない。直接であれ、週刊誌の記述であれ、街頭であれ、自立した個人の出会いの思い出なのだ。負けても勝っても、しみじみ心の奥から湧き上がる出会いの記憶。記憶の中の出会い。

 教師の授業が生徒に思い出されるとき、彼らの胸に去来するのは何だろうか。


 

  石神井高校で三戸先生の講義「世界史」に巡り合う者は幸福だった。先生の「まくら」も長かったし、その日の世界情勢でまくらは縦横無尽に展開した。1960年代から80年は、世界が激動し若者が変革を求めて行動した時代である。聞き手と話し手の息詰まる緊張が教室にみなぎった。 

 しかも先生の授業は終わりの5分間に、受験知識も含めて過不足なく見事にまとめられていた。僕がこの高校に異動したとき先生は既に退職していた。まくらはいつでも聴けるものではない。どんな出来事が彼を待ち受けているか、分からない。だからその日限りの一発勝負と言ってよい。

 僕は先生のまくらを聞きに出かけなかった。何故なら先生の授業のまくらは、先生と生徒たちの関係の中からしか生まれないからだ。真似はきかない。

   都高教研組織者会議が終わったあと、先生とはよく飲んだ。先生を含む数人の読書会も長く続いた。話に集中したくて酔いたくなかったが、旨い酒であった。今僕は全く飲めないが、あの旨さは記憶にある。


 授業が全編まくら噺になったのは、最初の赴任校が私鉄沿線の零細商工業地域の工高定時制課程だったからだ。あの頃定時制は全日制不合格者の溜まり場ではなかった。

 三戸先生の生徒たちに受験知識は差し迫った重大事。零細商工業地帯に「働く青年」たちが求めていたのは、まず職場の春闘方針の総括であった。彼らは組合役員を含む逞しい青年たちだった。僕より年長もいた。

 「先生、会社が儲かっているかどうやれば分かるのか」。咄嗟に財務諸表を持って来いと答えた。

  その経験が授業形式を決定した。だから受験を視野に5 分の授業を組み立てる三戸先生が、羨ましくも遠い存在に思えた。しかしPTAによって高校増設運動が進められ、新設校が続々と開校。働く青年と僕の束の間の幸福な関係は霧散した。


先生、憲法擁護義務違反議員への罰則はないの?

  かつてフランス東芝の労働者が、職場の実態を旧共産党機関誌「ユマニテ」で証言したことがある。東芝は激怒して「東芝には東芝の掟がある」と当該労働者を解雇した。仏政府も裁判所も世論も労働者を擁護した。

 日本の企業は外国内でも、当該国憲法規定より私企業の「掟」が優先すると本気で信じていた。まさに狂気の沙汰。東芝などの企業だけでなく、家庭や学校から組合に至るまで「掟」思考に阿智言ってしまうのか、最後に考える。

 子どもが憲法や法律が認める権利を主張すると、親は「他の家のことは知らん、このうちにはこのうちの考え方がある・・・」と馬耳東風を決め込む。それを親権と勘違いする。

 学校もその多くが「校則がいやなら入学するな」と憲法上の「表現の自由」を一顧だにしない。学校や家庭の「掟」が優先することに皆が極めて「寛容」であった年月が長い。労働組合や医師会などの団体までが、個人の政党支持の自由を踏みにじって特定の政党を組織として支持、団体献金する。憲法軽視は我々の日常に蔓延している。自由は団体や集団にはあっても個人にはないと言わんばかりだ。

 だから中高校生の中にも「先生を続けるなら君が代で立った方が良い」という声は決して少なくない。

 大阪知事時代の橋下弁護士は「君が代を起立して歌うのは当然の儀礼の話」とし、「大阪府教育委員会は2002年から、入学式、卒業式での君が代起立斉唱を教育現場に指導してきた。それでも現場は言うことを聞かない。そこで教育委員会は職務命令まで出した。それでも言うことを聞かない教員がいる。情けない。これは組織マネジメントの話。」と述た事がある。

  しかし彼は議員ではなくなった。自分の発言と99条の関係のいかがわしさから国会議員である限り逃れられないことに気付いたのかもしれない。それ故かワイドショウ発言頻度は過激化している。

  こういう発言を煽る土壌が日本のマスコミにはある。


  僕は教員になるときに、憲法を守る事を誓う旨の文書に署名捺印した。以後新学年の授業のたびにこのことを説明してきた。その日本国憲法は第九十九条で

「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。」

と規定している。その際の生徒の質問が忘れられない。彼はこう言ったのだ。「憲法違反の罰則は?」。僕は若者のこうした憲法感覚が好きだ。

 「憲法を尊重し擁護する義務」は、自治体の公務員も例外ではない。条例は憲法や法律に違反してはならないからだ。

 我々は自治体の条例や管理職の職務命令に従う前に、憲法に従わねばならない。国会議員は憲法改正の動議を出すことはできない。憲法改正を前提とした衆参両院の憲法審査会は、違憲と言わなければならない。

  日本国憲法は、米憲法と同じ様に「修正条項」を付け加えるかたちで「発展」させる事のみを国会議員には命じている。改悪を防ぐにはそれしかないことを、憲法自体が見通しているのだ。

  大阪府知事と玉木国民民主党が、「衆参両院の憲法審査会は毎週開いたらいい。議論するために歳費をもらっている。開かない選択肢はない」と発言し始めた。国会開催にも審議にも応じない者がそう言う。

  最近日の丸・君が代に関する職務命令に関して、思想や学問の自由は「内面の自由」であって「表現の自由ではない」との言い方がある。もし表現しない思想や信教の自由があるのなら、「踏み絵」も「焚書」も弾圧ではない事になる。

  

  何故この国では「掟」思考に陥るのか。その一つが、「おおやけ」が「公」と認識されるのではなく「大家」と観念される歴史的後進性にある。例えば東芝という大きな屋根の下に入る事が「おおやけ」の意味であり、その東芝は更ににに三井グループの大きな屋根の下にある。東芝の屋根の下にも数多の系列企業、例えば東芝エレベーターがあり、更にその傘下には東芝エレベーターサービス等が連なって幾重にも「大きな屋根」は形成される。大きな屋根からはみ出す事は出来ないし、させない。自立した企業活動や自由な個人としての意識を芽生えさせない。「大屋根」のもとでは、市民意識は「危険思想」となる。家族の政治活動は勿論、市民運動にまで干渉して恥じない。マスコミや宗教団体までこれらの動きに加担する。

 傘下の人間は、支配や拘束を感じるよりは「庇護」されていると考えたがり背広には社員バッチを光らせる。そして東芝、三菱など企業集団の多くは「株式会社日本」という巨大な屋根のために「経済団体」を形成して政権と癒着してきた。「庇護」に感謝する態度の一つが「君が代」斉唱なのだと彼らは意識して疑わない。

 だが彼らだけが「庇護」し「庇護されている」と考えている中身は、働く者に広く認められるべき「権利」なのである。決して屋根の下の恩恵ではない。


 「民主主義」の概念さえ、こうした「大屋根の下」では珍妙な多数決となる。多数派が事柄を総取りし、少数派は忍従を強いられる。

 大阪府内の私立高校2年生だった織原花子さんは、私学助成予算の大幅な削減を打ち出した当時の橋下徹府知事に仲間とともに計画の撤回を求め面会した。しかしその場で橋下知事はまず「君たちもいい大人なんだから、今日は子供のたわごとにならないように」と威圧し、次いで「日本は自己責任が原則。それが嫌なら、あなたが政治家になって国を変えるか、日本から出て行くしかない」と言い放った。「日本から出て行くしかない」とは暴論でしかないが、こうした口調はtvワイドショウではもてはやされる。 

 当選した首長は多数派だけの代表ではない、無謬でもない。低い投票率による選挙で当選しているから、有権者の3割以下の支持しか得ていない場合も少なくない。票を入れた者も彼の全てを支持しているわけではない。候補者も選挙で全てを語ってはいない。選挙は白紙一任ではない。

 それ故当選者と言えど当選と同時に少数派を含めた全住民の代表を自覚しなければならない。それでようやく民主制である。

 多数決が少数派の抹消であるなら、独裁の手段に他ならない。

 異議を主張する若者たちへの、権力者の見事な対応例をあげておこう。



  『パリをゆるがした30万人の高校生・ブラック校則と闘うために 4』https://zheibon.blogspot.com/2018/01/30-4.html


入学・卒業式での管理職や教委による叱責脅迫は、法が禁じるパワハラではないのか

  2010年6月施行の改正パワハラ防止法(労働施策総合推進法)で相談窓口の設置など対策を大企業に義務付たが、佐川急便の事件では通報はあったものの調査はなく、企業任せの実態が露呈した。

 罰則規定抜きの法いじりはこうした悲劇を繰り返す。繰り返すうちに担当官僚は異動して問題は受け継がれない。異動の際彼らは必ず「在任中は大過なく」と言い残す。彼らは主権者の大過なと眼中にないのだ。

 パワハラについて厚労省は、①優越的な関係を背景とした言動で、②業務上必要かつ相当な範囲を超え、③労働者の就業環境が害される、この3つを満たす威圧的な叱責など精神的攻撃や身体的攻撃を指す場合をあげている。

 労働局等に寄せられた「いじめ・嫌がらせ」相談は増え続け、20年度は7万9190件と9年連続で最多を記録。トヨタ自動車や三菱電機の自殺などは、稀ではあるが労災認定された。

 パワハラ防止法では被害者が自殺や退職に追いやられる案件だけを対象にしてはいない。

 学校の入学・卒業式での管理職や教委による叱責脅迫は、パワハラではないのか。保護者や生徒そして同僚教師の見ている前での管理職や教委による叱責脅迫は何故放置されてきたのか。

 2017年5月大津市のホテルで開かれた県教委と県立学校校長らの懇親会で、県教委の男性職員が男性校長から「君が代斉唱の伴奏が止まった」などと叱責され、人前で土下座していたことが分かった。職員はその後、仕事を休むようになり、昨年度末で退職した。県教委は「職員からの申し出がない」との理由でパワハラに当たるかなどの調査はせず、校長も処分していない。 複数の関係者によると、当日は100人近くの出席者がおり酒類も振る舞われる中、会の終わりごろ研修会で出席者が歌う君が代の伴奏が途中で止まるなど進行が乱れたとして、研修会で進行役を務めた男性職員が校長の叱責を受け土下座した。会場にいた人は「怒鳴り声が聞こえ、2人の間に止めに入った人もいた」と、ほかの出席者も「職員が一方的に怒られていた」、「注意の仕方に配慮が必要だった」と話す。

 男性職員は届けを出し休む状態が続き、退職を申し出た。県教委の聞き取りに対し、「自分の仕事に対する行き詰まりを感じた」との趣旨の話をした、という。懇親会の前は休みがちだった事実はなく、関係者は「まじめで優秀な職員だった」と話す。

   米原高校では2020年、女性教諭が校長の激しい叱責直後に過呼吸に陥り、その後学校を休んだ。県教委によると、校長は昨年同一学年の同一教科を教諭2人に担当させ、2人が別々に定期テストを作成して学級ごとの点差が大きくなると、女性教諭に対し「どう責任を取るんや」と厳しく追及。教諭はその後、医師の診断を受け1カ月休んだ。校長は今年3月にも、生徒に皆勤賞を独自に贈った男性教諭を必要以上に叱責し、「お前らの仕事は遊びや」と侮辱した、という。こちらの場合さすがに県教委も、米原高校長を減給10分の1としている。

ILO総会で、「仕事の世界における暴力とハラスメントの根絶に関する条約」が採択された瞬間



  

 ILO/ユネスコ教職員勧告適用合同専門家委員会が学校での〝君が代”強制問題で日本政府に是正を勧告。2018年に採択、2019年に正式に承認し,世界に公表。

 この時ユネスコは、国歌斉唱時に「起立や斉唱を静かに拒否することは,職場という環境においてさえ,個人的な領域の市民的権利を保持する個々の教員の権利に含まれる」と指摘している

 1999年,「国旗及び国歌に関する法律」が制定・施行された時も野中内閣官房長官は

 「式典において,起立する自由もあれば,また,起立しない自由もあろうかと思うし,また,斉唱する自由もあれば,斉唱しない自由もあろうかと思うわけで,この法制化はそれ画一的にしようというわけではない」と公式に言っていた。



 
ところが東京では2003年から,大阪府では2011年から,公立学校の卒業式や入学式の国歌斉唱時に教職員に対して起立・斉唱を命ずる職務命令が出され、そして起立斉唱しない者に対して,懲戒処分が行われてきた。500名を越す被処分者のうち、東京と大阪が8割を占める。

続く


「行政の詐欺を見破る」のは主権者の義務

 大阪は28市町村で待機児童ゼロを達成している、と大阪地域政党は自己宣伝に余念がなかった。大阪作成の数字だけを見ると、大阪府の待機児童問題は大幅に解消されたかに見えた、だが府民の声は違っていた。「待機児童」が意図的に隠されている。「隠れ待機児童」は、潜在的な入所希望者。        

 国は、2001年に待機児童の定義を変更、大阪府はこの定義を利用、四つのケース(・1自治体が独自補助する認可外施設を利用の場合・2求職活動中の一人親で求職活動を休止している場合・3特定の保育所等を希望している場合・4育児休業中の場合)を待機児童に数えなかった。

 どの自治体でも「特定の保育所等を希望している」保護者が最も多いのは当たり前。子どもが兄弟姉妹であれば、「自宅から一番近い同じ保育所に」と考えるのは至極当然。「求職活動を休止している場合」は、子どもを預ける保育所が決まらなければ求職活動ができず、職が決まらなければ保育所に預けられないというジレンマに陥る。やむを得ず求職活動を休止しているケースも多い。それを隠して「待機児童ゼロ」と言うのは、登校していれば虐めはないと言うに等しい。 住民の生活実態に寄り添わない行政を、国の基準で追認と言う仰天。大阪はそれを巧みに利用していた。

 政府定義の待機児童に数えない場合を含めて計算すると、待機児童ゼロと住民を欺いた自治体も、相当数の「待機児童」を隠していた。これは行政による犯罪である。その情報をもとに組み立てられたのが2021年10月衆議院選挙だった。まともな判断を期待する方が間違っている。

 それを見破る学力の上に「模擬投票」を実施しなけれは、投票ゴッコに過ぎない。だから本番では棄権してしまう。

 厚労省の調べでも2016年の認可保育所の待機児童数が2万3553人となる一方、待機児童数にカウントされていない「隠れ待機児童」数は6万7354人。

 大阪府内自治体の隠れ待機児童数は計6568人、それまで待機児童として報告してきた1434人とあわせれば、実際の待機児童数は8002人。


 大阪市は2013年(橋下徹市長)、それまで待機児童として数えていた「自宅で求職活動中」の人の子ども等を待機児童数から除外、前年に比べ待機児童が377人減ったと発表。待機児童隠しを図った。

 2013年5月23日記者会見で「以前の集計のやり方だと大阪市の待機児童数ってものが、ちょっとかなり数が増える」ために「集計のやり方も横浜市に合わせ」たと白状している。

 横浜は、「保育所に入れず育休をやむをえず延長した場合」や、「自宅で求職中の場合」も待機児童から除外している。横浜も大阪も、給食は最低。市長が、中学校給食を視察

左は刑務所、右は大阪給食 
横浜市は給食にしない理由に、「弁当作りがやりがい」「熱烈に作りたい」
という保護者の存在をあげた。しかし市は実際にはそのようなアンケートは取っていない

した際、1年生の生徒から『おっちゃん、これ給食ちゃうで、餌やで』と、中学校給食の本質を突いた鋭い言葉が返ってきたという。

 大阪の地域政党と自称する連中の手口は、結果がすぐ現れる政策に特化させること。その為には「詐欺」紛いの公文書も発表する。

 こうしてまで主権者を欺く自治体(横浜は市長選で敗北して撤退)が、カジノを欲しがった。宣伝向きの成果が華々しく、ギャンブル依存症や犯罪の増加はマスコミを統制すればどうにでもなるからだ。誹謗中傷デマ専門の「Dappi」は政権党の資金を入れた組織であったが、「待機児童」隠しは地方政府と政権党合作の公文書を偽造。主権者の判断を謝らせる犯罪。

 大阪の知事は、国家戦略特区による待機児童解消対策を提案、特区内で保育士の数や保育所の面積基準などを自治体独自決定を狙っている。


 国家の犯罪行為に対する責任は、主権者たる市民のほうが独裁体制下の臣民より重い

国家の犯罪行為に対する責任は、主権者たる市民のほうが独裁体制下の臣民より重い

   水兵からの叩き上げで暗算が得意だった祖父は、抜擢され兵学校で弾道学を教え、退役後は畑に精をだし旧制中学で教えた。祖母や教え子たちの思い出話などから想像するに、今の高校教師より遙に自由に振舞っている。配属将校や若い教師が無暗に総動員体制への威圧的忠誠をこれ見よがしに披露していた時も、祖父は温和だった。「軍人じゃ無か若い先生たちはよく殴いやった、ばってん先生の怒いやったことは無か」。町の様々な階層から仲裁を頼まれ、赤ん坊の僕を懐に入れて散歩がてら話を聞いていたという。 
 「国家の犯罪行為に対する責任という点では、主権者たる市民のほうが独裁体制下の臣民より重い。」M.マイヤー『彼らは自由だと思っていた』未来社

 第二次上海事変で砲兵将校として軍艦勤務した祖父は陸戦
隊には加わらなかったが、「国家の犯罪行為」としての謀略・殺害を目撃している。この頃の祖父の母宛の絵葉書には苦力や屋台の職人が色彩豊かに描かれたが、軍人や軍艦は描かれていない。
  40 歳そこそこで祖父は退役、表向きは病気が理由だった。後日叔父は中学生になった僕をこっそり呼び出し、退役を巡って海軍内で揉めたらしいことを耳打ちした。詮索しなかったのが悔やまれる。
 
 交戦時には互いの攻撃をかわして敵艦も自艦も複雑に移動する。砲術の難しさは陸戦のそれとは比較にならない。しかも咄嗟の判断で計算・作戦立案・命令指揮する必要がある。
 三角関数を組込んだ計算尺を祖父は大切にしていた。弾道計算に不可欠の道具。
 操船術と砲術、祖父の判断に全乗組員の命が掛かっていた。何より実戦で磨き上げた経験がものを言う。そうでなければ訓練を重ねた水兵の命も軍艦も失う。ところが日本の軍隊では実力は滅多に考慮されない。兵学校で皇族も高級将校子弟が規律を破り現を抜かしても「国体」擁護を絶叫しさえすれば、叩き上げ将校をアッと言う間に飛び越し昇進した。それが皇軍の輝ける規律であった。彼らには、敵に勝つことより皇軍の秩序が優先していた。酒を飲まない祖父は苦笑いしながら、皇族や高級将校子弟のやんちゃぶりを話していたと言う。
 英国皇太子戴冠式にへの航海に参加しているから、祖父は彼の国では戦功次第で序列を飛ばして昇進する例を見知っていたに違いない。
 日本軍で国を守る事はできない、祖父は大胆にもそう判断した。それ故、旧制中学で虚勢を張る若い教師や配属将校たちを見る眼は冷めていた。
 その厭戦姿勢は敗戦とともに平和志向に変わる。国防婦人会で竹槍訓練の先頭に立っていた大叔母も、「バカの考え休むに似たり」が口癖になった。

 終戦直後の50年代始め、町議会議長長男の結婚式を祖父の家で挙行する珍事が起きた。町議会議長は運送業も兼ねる網元で、河口の絶好の位置に何百人も寝泊りできる大きな屋敷を構えていた。対して貧乏極まる祖父の家は、部屋も台所も家族だけで手一杯の詫び住まい。とりえは志布志湾が見渡せることだけだった。庭と露地に臨時の竈が拵えられ、近所や親戚も総動員され戦場のようになった。二部屋と廊下が全て開け放たれ、廊下の先に縁側が張り出された。居間も台所も庭もテーブルが並べられ配膳の支度にてんやわんや。行き場のない僕は、客間から聞こえる「高砂や~」を聞いていた。歌に合わせて舞ったのは祖母に違いない。祖父も祖母も三味線と舞を習い、バイオリンまで覚えていた。

 農地解放の波に乗り、農民組合がつくられ勢力を増していたし、志布志機関区の国労も強大。デモは盛大だった。小さな僕もデモに引っ張りこまれた。厭戦気分を隠さなかった祖父が、平和な時代を象徴する存在と見られたのかも知れない。
 結婚の宴は三日続いた。しかし暫くして祖父あっけなく急逝。祖母はショックで口が利けなくなり足腰も立たなくなってしまった。その間に日本は逆コースを転がり落ちてしまった。
 大叔母は残された孫の平和な教育のために、文字通り身を粉にして奮闘し続けてくれたことになる。事あるごとに「うんだももしたん、こんたいかん」と下駄ばきで駆け出す姿を忘れられない。

 いま都会の教師は幾重にも哀れだ。現場の反動化に呆れ早期退職しても、耕す畑はない。ローンは残り、恩給はないから再就職の派遣労働に明け暮れる。疲れ果て、老人ホームの空きを待つ間にウサギ小屋で息絶える。それだけは避けたいと教育の劣化にも我慢を重ねれば、日々に日々に教育の裁量の範囲は無くなる。
 堪らないのは、自らが生徒に伝える価値を裏切る振舞いを生徒や父母の見守る「式」で強制される事だ。
 「国家の犯罪行為に対する責任という点では、主権者たる市民のほうが独裁体制下の臣民より重い」。

自分と違う価値観や理念を持つ人が何を考えているのかを想像する「知的力」、エンパシー

  BBC制作、サッチャーのドキュメンタリー番組で彼女の側近が「彼女にはシンパシーはあったけどエンパシーはなかった」と語っていた。

   シンパシーは同情や共感などと訳される。エンパシーは、自分と違う価値観や理念を持っている人の考えに積極的に入り込み「想像する知力」を表す。日本語で何と言うべきか困っている。的確な翻訳を探す苦悩を経て、初めて言葉は世界性を獲得する。ほかに言いようがないとすれば、理解しているとは言い難い。しばらくこのまま考えてみる。 


 『アラバマ物語』でハーパー・リーは、アティカスに

 「他人の靴を履いて歩き回ってみなければ、本当にその人のことはわからない。」

と言わせている。

  You can't know how other people feel until you are in their shoes.

  Atticus said 'you never know a man until you stand in his shoes and walk about in them'   Which TWO moments in the novel is this lesson is most vivid to scout and jem? I need some evidence to support those incidence too.


  「力ある者には自らすすんで平伏する者の内面には、どんなに弾圧にも誇りを失わず抵抗した者への理由のない攻撃衝動が生まれる」こんな雰囲気の強まるこの国で、エンパシーは育つだろうか。虐めや体罰が何時までも繰り返される所以だ。

 学校の生活指導は、「公平」に拘る。いとも簡単に無遅刻無欠席を貫ける生徒がいる一方、人間関係や病苦のためどうしても遅刻欠席する者もいる。回数は努力を表す公平な目安と言わんばかりの皆勤賞・精勤賞は、前者には無意味だし後者の登校意欲を削ぐ。ある者にとっての最良が別の者の最悪や無意味であったりすることは稀ではない。公平性は管理職や生指部の自己満足にすぎない。

 これが就職後も「昇進規定」として退職まで覆いかぶさるから遣り切れない。僕自身は学校も勉強も大好きで、病気以外遅刻したことはない。いつも始業の一時間前にうちを出て教室に入っていた。腹痛や頭痛で寝ていても、痛くなくなれば我慢できずに学校に走った。もし皆勤賞・精勤賞があったら遅刻常習者になっていたと思う。僕はへそ曲がりだった。ただ平日の昼間の光景や音はとても気に入った。

 「たまには思い切って都心や奥多摩まで乗り越して遅刻し

未知の駅まで乗り過ごす
てみろよ」と生真面目な生徒に言ったことがある。翌日彼は原宿まで乗り越した。

 当日の午後、ほっぺたを真っ赤にしながら準備室にやってきた。

 「乗り越す瞬間はドキドキしたよ。先生、日曜日に行くのとは全然違うね、面白かった。人気のない神宮は葉っぱやトンボも何もかも綺麗で空気まで新鮮だった。」

 「又行きたいかい」

 「なんだかスッキリしちゃった。又いつでも行けるって分かったから当分いいや」

 何人かにすすめてみたが、反応は同じだった。東京駅や千葉まで行くのがいるだろうと思っていたから、生徒たちの常識の健康さに少しがっかりした。

 ある生徒は乗り過ごしせず、学校の屋上に寝そべって一時間を過ごした。すぐ準備室に駆け込んできた。

 「先生、空はでかいね。ずーっと見てたら地球が回っているのが分かった」

 ある優等生は、通信簿に遅刻回数を入れたくてわざと教師の点呼より僅かに遅れて教室に入った。それだけではなく「5」以外の成績を付けたくてサボった事さえあった。

 青梅で開いた夜間の学級PTAでこれらを話した。

 「家出されるより、ずっといい」という声がすぐ上がり、途端に賑やかになった。隣には校長が同席していた。


  こんなことは学年会では問題にもされない。基準にもとずく公平性に集団は寄りかかりたがる。他人の靴を履くのではなく同じ靴を履き、履かせたがる。他人の靴の歩きにくさ、未知の世界の入口に立つ不安を知ることなしに、empathyに達する事は決してできない。

 他人の靴を忌避し続ける間は、教師の仕事も父母や多くの働く他者のempathyを喚起出来ない。

「細菌」=嫌われ者の意外な機能と「不良少年」の社会的役割

   細菌は汚く危険、速やかに消毒すべきとの強い先入観がある。顔面には、数十億個もアクネ桿菌が確認されニキビ患部からも検出されるため、長い間ニキビの原因と考えられてきた。お陰で若者たちは高価な洗顔剤を求め、日に何度も神経質にアクネ桿菌を洗い流してしまい、ニキビ面に悩み続けた。アクネ桿菌は健康な人の毛穴に常在、肌を守る働きをしていることが広く知れ渡ったのは、そのあと。

 皮膚は人体最大の臓器。その面積は畳一畳分、重量は体重のおよそ 16%。皮膚常在の細菌は 1000 種で腸に次いで多い皮膚は外部環境に接しているため、外部の刺激や感染から人体を保護する重要な機能を果たしている。顔から汗を流し、細菌叢を維持すべきなのだ。除去し尽してはならない。

 過度の潔癖は健康を破壊する。雑草を完全に排除した芝は瞬く間に枯れる。「完璧な校則」は若者の健康な批判精神を根こそぎにする。

 厄介なのは「完璧な校則」が保護者はおろか生徒たちに支持されてしまう事だ。一見楽で見栄えもいい、管理もソフト。しかし健康な批判精神は、「楽」な筈はない。絶えず責任を伴う判断を求められる。それは予期出来ない。

 ある私立高校の校長が教員による選挙で交代。リベラルな人物で、先ず屋上を即日解放した。狼狽える教師が、タバコやサボりを心配して反対した。校長は「たかがタバコ」と一笑に付し、断行。大いに生徒たちから歓迎された。この人物がまさか選ばれるとは、投票した教員すら予測出来なかったと言う。革命とはそういうことだ。この大胆な路線は20年以上続いていると聞く。校長選定は教師の選挙に限る。


 僕は四谷二中の「不良」たちが、学校の管理体質を打ち破るのに果たした役割を思い出す。

『四谷二中 4 非教育的環境ゆえに理想の教育的緊張 』      https://zheibon.blogspot.com/2017/05/4.html   

 1961年5月生徒会役員選挙がおわり、早速学級委員会=中央委員会が開かれた。小学校出たばかりの僕には、驚天動地の幕開けだった。決まり切った新生徒会長の挨拶の後、やや沈黙があって、三年生が

 「お前、バカか」と一番後ろの席から言う。新生徒会長があっけにとられていると、

 「分かんないのか。お前、自由に発言して下さいって言っただろう。お前の隣にいるのは誰だ」

 「係の先生です」

 「何のためにいるんだよ」 

 新生徒会長は先生に何かを聞いた。

 「僕たちを指導するためです、相談にのって貰います」

 「それが困るんだよ、何でも自由に言えば、その中には先生に聞かれたら困ることも、言いにくいこともあるんだよ」

  「どんなことですか、何を言っても構わないと思います」隣の先生と必死に打ち合わせをしている。

 「バカ野郎、そんなこと言える訳ないだろう。先ずお前の隣の先生に出ていって貰え」

 生徒会長は救いを求めるように、更に意見を求める。他の三年生が

 「僕も出ていって貰うのに賛成。さっき生徒会は生徒のものだって言ったでしょう、君は。生徒の話し合いの最中に先生は要らない」

 「×○先生の授業つまんないんだけどさ、そんな話もしたいよ。先生がいたら出来ない」

  ・・・

 係の教師は、僕の担任だった。議論を聞いて、何か呟くとニャッと笑いながら出ていった。それからどんな話になったのか、あまり覚えていない。  

 入学式でいきなり現れたヤクザの子どもたちに仰天して、それから一ヶ月も経たないうちに、また仰天してしまった。僕はすっかり小学生の尻尾を切り落として、一つ高い場所に上がったんだと思った。大人ではない、しかし明らかに子どもではない。それを「中ども」という叔母があったが、言い得て妙である。

 臆することなく教師に文句を言う。こういう校風が二中の授業を引き締めたことは十分に想像できる。雑多な生徒・父母、その中にヤクザの舎弟も弁護士も芸者もいることがどんなに大切か分かる。もし歌舞伎町の連中がいなければ、学級委員会は優等生ばかりになっていた。学級委員も、堂々と教師に楯突くことを、歌舞伎町の生徒の生き方から学ぶことは無かっただろう。状況の胡散臭さを敏感に肌で捉える者と、それを言語化して表現する者が揃わなければ学校も、企業も社会も面白くない。

 越境生が犇めく授業環境、それは歓楽街の非教育的環境にも拘わらず維持されたのではない。非教育的環境を排除しないが故に成立したのである。


 管理する教師にとって厄介な 「不良」こそが、学校に於ける「公」と民主主義の最良の肥やしとなっていた事実を、無いものだらけの50年代新制中学校育史から読み取らねば歴史を記述する意味はない。ここには「ごっこ」ではない本物の民主制が芽生えていたからだ。

 

若者は何故投票を嫌がるのか。

  アフォーダンスと言う言葉がある。主体的意図を持つ有機体としての我々と、我々を取り巻く環境の相互作用を指す言葉。語源はafford=提供するとの意。

 暗闇の洞穴に生きる魚が目を退化させるのは、遺伝子を通しての進化。相互作用しない。

 しかし例えば、貧困・汚染・偏見・「偏差値」・トラウマは人々の行動や精神に影響する。遺伝はしないが、その便宜が社会の隙間に定着、人々に特定の意識や行動を提供(afford)する。ツッパリの生徒たちにとって眉剃りやうんこ座りや茶髪は「管理」への抵抗として定着している。ある意味で心地良い。多摩の或る高校に妙な「不良」がいた。放課後の夕暮れ時、わざわざ登校して部室で煙草を吸い酒を飲むのだった。何度捕まっても登校停止解除とともに、忍び込んでいた。教員たちは首を捻った。特定の部室が彼らに居心地の良さを提供(afford)していたのだと考えられる。彼らは卒業後も忍び込んだ。ある女子生徒たちは校内一家をなし、下校前の一時を屋上出入り口で過ごす習慣を維持していた。生指の見回りに発見される危険性を楽しんでいるように見える。

紳士俱楽部(画像は英国学士院)も橋の下も居心地のいいたまり場

   




 無論逆もある。金も地位も名誉が豊富なことも、その人間の意識と行動に作用する。言葉遣いや目つき、服装や持ち物、たまり場(例えば、マイクロフト・ホームズのディオゲネス倶楽部のような紳士クラブ)・・・ある種の家系や群れには恰も遺伝形質のように伝わる。

 こうして格差は収入に留まらず、人々にそれぞれの居場所を提供(afford)している。

 若者が選挙に興味を示さずhate言説やfake情報に魅入られるのは、それらがなくてはならぬ居場所を構成しているから他ならない。

 たった一票に甘んじるより、世間を騒がせ「上に出て勝つ」方が彼らには心地よいのだ。平等な権利は、平凡な価値観の形成抜きには実現できない。大会だらけの部活や偏差値から逃れられない競争原理の中に居場所を指定される日本の高校生が、「一票の価値」に目覚めるには時間がかかる。

 ツッパリや選挙を忌避する若者に「君たちは間違っている」と説教するのは、カルトに信者に「帰ってこい」と言うに等しい。。

 政権党の選挙スローガンが「野党の政策に抱き着く」ことを覚えて、模擬投票ゴッコは不透明になった。口先と見栄えだけならどんな詐欺も出来る。選挙の詰まらなさを事前学習することになる。

   追記 だが待て! アフォーダンスは「遺伝」ではない。いくら親や爺さんが偏差値に雁字搦めになったからと言っても、やめられる。人間は主体的に決意することが出来る。永い間社会的習慣になっていたことをやめる。それが革命である。

 バリがヒトラーのドイツに占領されたとき、ロンドンに亡命したドゴール政権を支持したのは、僅か3%。圧倒的多数がナチとの「平和」を選んだ。始めから多数派の革命は有る筈がない。しかし少数派は無数にある。多様な少数派の統一戦線のみが新しい多数派を形成しうる。

これは差別ではないのか

  「・・・特別支援学校」や「・・・中等教育学校」と、学校の種別を表示する理由は何か。何故他の学校と同じように ○✕市立第八中学校  などと書かないのか。地域名と番号で十分ではないか。例えば市立二中が所謂「普通」で、市立五中が所謂「障害児学校」であって何の差支えがあるのか。いずれの学校も憲法に基づく国民の権利としての教育を任務として、平等でなければならない。本来同じであるべきものを違うと言う、これが差別である。

 「偏差値」で上位にある学校は、何かにつけて都合のよくない生徒を排除して「賢く健康な」生徒を囲い続けてきた。「偏差値」で上位にある学校の対極には、都合のよくない生徒たちが集積されそれ以外の行き場はない。

 差別がないのならまだしも様々な偏見に取り巻かれて、障害のあるなしを学校の壁に大書するのは、生徒の服や鞄に「・・・特別支援学校」と書くのと変わらない。


ナチスが「ダビデの星」を服にも店にも強制したことを思い出させる。もし学校の偏差値を色別のバッチにしたら、どうだ君は付けるか。

 特別支援学校生が、自宅近くの小中学校にも籍を置き、地域の一員として学び合う制度がある。

 普通の小中学校生にとっても、障害や多様性への理解が深まると教委は自画自賛している。嘗てのように公選制教育委員会を置き、どのような学校形態が名称が相応しいか地域全体で議論すべきである。その為には自治体を欧州並みに小さくする必要がある。日本のように合併を繰り返した数十万の自治体では地域性は消え、効率だけが追及される。管理統制する側からは、学校種別名称は細かいほど便利に違いない。

  老人ホームの名称も、一目瞭然いかにもそれと分かる名称が付けられている。例えば  // 介護老人保健施設 ほほえみの里 // 特別養護老人ホーム ふれあい荘 // すこやかホームゆうゆう //  有料老人ホームシルバー  // ケアハウスかがやきの郷//・・・それだけではない、外見も巨大な墓石のようで画一的。

   ある「高い」有料老人ホームの名称が、「・・・倶楽部」と地域名だけになっているのを見かけたことがある。気持ちが和んだ。何故地域名だけではいけないのか。地域の歴史や文化を生かした独自の建物を建てないのか。緑地公園や河川を周りに配したものがないのか。国の責任で運営する国々の施設の方が余程個性的で環境豊か。 

 国も自治体も責任を放棄、民間の有料施設に依存している日本が画一的なのは皮肉なことだ。民営とは「自由」や「多様性」を意味しない。立地も建設費も極限にまで切り詰めれば却って画一化する。『姥捨て山』の方が立派に思える。


 旅行中「芸術家の家」とだけ小さく書かれた施設を見たことがある。興味を惹かれて中に入ると、老人たちの演奏が玄関や廊下に響いて年寄りが楽しく談笑していた。絵を書く人もあった。退職者のホームだった。豊かな国ではないのに重厚な外観、立派な中庭は威厳に満ちていた。


   英国人労働者は退職後の貯蓄に関心を示さないと言われる。45歳以上で預金額が9000ポンド(約140万円)未満の割合は2014年度末で全体の40%。日本では65歳で定年して「平均貯蓄額2080万円」それでも不安。

 英国では誰であろうと国民が老人ホームに入居する場合、住宅、貯蓄、年金などの資産併せて500万円以下なら全てその費用を国が負担する制度になっている。ビバリッジ報告の精神「揺り籠から墓場まで」は、今尚守られている。長いナチスドイツとの闘いを経た戦後の苦しい生活の中で英国人が獲得した制度だ。ちっとやそっとでは揺るぐはずもない。労働者や福祉嫌いのサッチャーが腕まくりして戦争で国民を騙しても、これは残っている。

 だから英国の労働者は、140万円以下の貯蓄でも悠々と生活できる。出世競争で過労死することはない。中学生や高校生は、日本のように将来に備えた受験競争で鬱になることも、推薦入学を狙って部活での体罰や虐めに耐える必要も無い。

 英国の少年は、政治や環境もに関心を持ち自由に行動できる。演劇や音楽にも夢中になれる。祖父や祖母たちの生活が保証され安定していることが、少年たちを若者らしい正義に導く。だからhate言説にも引っ掛からない。


 日本では、大名や豪商の屋敷が庭ごと老人ホームになることは想像すら出来ない。ウサギ小屋程度でも順番待ちで、待っている間にあえなく死んでしまう。それが嫌なら億近い入居一時金と月数十万円を私費負担せねばならぬ。

参照  https://zheibon.blogspot.com/2019/09/blog-post_26.html                                                  

雨にも負けず・・・

  日本国籍を失ったアメリカ国籍のマナベ氏がノーベル物理学賞をもらった。彼は

「日本に戻りたくない理由の一つは、周囲に同調して生きる能力がないからです」

と言い切っている。

 マナベ博士は偶然日本で生まれた。そんな些細なことで「日本人!日本人!」と興奮して得意がる国柄はさもしい。偶々異国で生まれた人が、又は難民となった人が、この国の大学や研究機関だからこそできる研究でノーベル賞を取る事がありうるか。そちらのほうがずっと誇らしい。

 そんな母国にワクワクする主権者でありたい。

  

 わざわざ選んで日本に留学してきたスリランカ女性を、在留資格を失ったとして法務当局が収容・虐待し続けた。彼女は日本語で「なんでわたしたち動物みたいな扱いですか?」とメモにのこして極度に衰弱して絶命。 こうして収容中に亡くなった人は2007年以降、17人。そのうち5人はみずから命を絶っている。「おもてなし」と言いながら、何たるざまだ。この国は嘘つきや詐欺師、下着泥棒を大臣にして恥じない政府を許している。

 誇りは状況と闘ってこそ生まれる、もとからそこにあるものではない。

富士に向けて砲弾を放つ米軍、上空は
米軍管理の広大な「横田空域」



 「あれが日本一の名物だ。あれよりほかに自慢するものは何もない。

・・・我々がこしらえたものじゃない」と言ってまたにやにや笑っている。

・・・三四郎は「これからは日本もだんだん発展するでしょう」と弁護した。

すると、かの男は、すましたもので、「滅びるね」と言った。  漱石『三四郎』

苦手には理由がある

 

 >>・・・グループ学習は、すべての生徒が楽しんでいると思っているのか。嫌がる生徒がいるかもしれないと思わずにグループ学習をしているんですか?と言いそうになって、黙りました。

 学校では成績が良く、楽しかっただろう経験値を持つ教員が、「そんなことは当たり前だろ」と様々に生徒が嫌がることを強制し、追い詰めていく。自分の権利は大きな声で言いながら、生徒の人権には黙してしまう。

 生徒と「授業」は好きなんだけど、学校は嫌いだな・・・<<   M先生からののメール

 僕は長距離走が苦痛だった。学校では断トツのビリ、ゴールする前から青ざめ頭痛がしてよろめいて倒れた。みんながランニングを終えた高揚感に浸っている時、僕はいつも吐き気を堪えていた。

 神経伝達物質ドパミンは必要なときだけ必要な量が放出される「快楽物質」、それが運動をコントロールしていることを知ったのは成人後のことだった。同時にパーキンソン病の名も医師から伝えられ不安が襲った。

 小学校の「集団体育」でみんなが夢中になって行進練習に酔い痴れている時、僕だけドパミンが分泌されていなかったのか。観察や工作だけが救いだった。

 トランプや花札や麻雀などのゲームに熱中出来ない。テニスやバトミントンは、試合を挑まれれば簡単に勝ったがすぐあきた。何であれ勝敗が絡むと冷めてしまう。やりたくないのだ。


 ドパミン分泌障害で青い顔して倒れている僕に、担任も友達も気付きはしなかった。快楽物質ドパミンとはそういうものだ。快楽物質まみれの帝国主義は、支配下大衆の苦難にはとんと気付かない。そもそも人間扱いしない。主体は常に支配する側にある。例外がない。彼ら帝国主義者は「他人の靴を履く」ことは思いもよらないのだ。

 メダルの快感に浸っている者たちが、「観戦者に勇気を与えたい」以外の言葉をなかなか言えないわけだ。

 企業や学校経営などの組織活動に熱心、ドパミン豊富な自信満々の人物にも遭遇したが、どうしても馴染めなかった。 裏声で絶叫しながら「総員玉砕」を命じた皇国将校も、快楽物質に酔い痴れていたに違いない。そうでなければ、部下を死地に追い込みながら勲章をぶら下げられはしない。

  幸い四谷二中校庭は、100m直線コースも取れなかった、

一歩校外に出れば新宿の繁華街、走るところはどこにもない。ドパミン分泌障害の僕には願ってもない天国で、体育授業は木陰に腰を下しての「理論」であった。走り回れる環境が整っていたら、僕は青い顔のまま息が絶えていたかも知れない。戦時中でもないのに二十歳まで生きられたか。少なくとも登校拒否にはなっていた。

 どうしても「苦手」な授業形態やテスト形式が、誰にもある。教師にもある。「ディベート」「学びの共同体」「グループ学習」やオンライン授業や偏差値的競争が「苦手」という声を、我儘と片付けていいか。耳を傾ける必要はないか。

 これら授業を提唱する側は、組織化された教師と業界、「苦手」で難儀しているのは孤立した子ども。勝負にならない。「苦手」には生理的・心理的理由、更には哲学的・思想的根拠が必ずある。いじめや体罰の克服はそこから始まる。


 山登りだけは僕もに向いていると気付いて、高校生以降よく登った。他人に調子を合わせ競う必要のないことが、僕の気持ちを楽にした。所要時間やコースも荷物の重さも自由に塩梅できる。大学でも職場でも暇があれば、夜行列車に乗った。     いつの間にか僕は山岳部顧問になっていた。頂上を極める事は二の次となったこの山岳部を、みんなは「温泉山岳会」と呼んで卒業後も山行に同行した。大概現役部員よりOBの方が遙に多かった。

 対戦しない球技、計算のない数学、記憶する必要のない歴史、走らない体育、協力して真実を発見する討論、間違いや失敗から始まる理科、先生に質問し宿題を出す授業、テスト廃止、生徒や保護者が選択する生活指導、大会のない部活、 検閲に走らないオンライン授業(知事に忖度する都教委は都立高校でonline 授業の録画を現場に命じている)


 

いつも使う易しい言葉を使おうとしない「専門家」は、何を隠そうとしているのか。

  知り合いの高校教師に、最近増加著しいコロナ関係の横文字を高校生がどの程度認知しているか聞いてもらった。  

「 ・・・生徒に聴いたら、ほとんど知りませんでした。そもそもニュースを見ないのですが、それにしても。私が言うと、反応する生徒もいるのですけれど。トリアージは、全滅で、聴いたことがない生徒がほとんどでした。・・・」

 業界の専門家たちは、どうして日常の易しい言葉を使おうとしないのか。自分を高みに置きたいのか。何かを隠そうとしているのか。自分の無能がバレるのが恐いか。恐れねばならぬのは伝えたい事が皆に伝わらないことではないのか。この世は専門家ばかりで構成されてはいない。  

 仮に若者が現在進行中の事態の本質を知りたくても、初めて耳にする専門家好みの「横文字」だらけではどうにもならない。年寄りが意味を掴みかねている間に、ことが進行して手遅れになることを恐れねばならない。 「トリアージ」「オーバーシュート」「ソーシャルディスタンス」とニュースが伝えても、すぐ忘れる。たとえ外国語だと見当がついても何語だかわからない。辞書がないから諦めてしまう。こうして日常の言語世界に、理解不能の穴が次々に空く。名刺だけではない、形容詞や動詞まで横文が横行する。ネット漬けの業界人に「バズる」と突然言われた子どもや老人は困る。意味が分からないままでは対話は成立しない。誤解したまま放置されれば困った事態を生じる。


 学校は官庁経由の横文字に無防備。「アジェンダ」「ペンディング」「ウィン・ウィン」「ワークショップ」・・・などは学校でも頻繁に様々な場面で使われるが、保護者や生徒に正しくに伝わっているとは思えない。狭い世界や同じ世代間で通じても、言葉の最も重要な機能は、世代や立場をこえて「文化を共有」することの筈。

 僅かな「高み」に自分だけを置けば得意面出来るが、言葉を共有できないのでは元も子もない。偏差値を高く揃えたり、メダルで校長室を飾る暇があったら、教科書や教材の横文字や校内の日常を再検討する必要がある。既に危険な崖っぷちに我々はいる。

 言葉を共有し互いに理解し批判し合う関係が社会をつくることを知らねばならない。対話の要らない旅先では「みんな温かい優しい人」だが、利害を調整して「公」を形成するためには、言葉を共有して時には喧嘩もしなければならない。教室は、地域社会は、自治体は、国家は旅先ではない。「和を以て尊しとなす」が上から権力的に押し付けられる社会は、常に弱者が我慢を強いられ言葉も文字も奪われている。対等に喧嘩可能な言葉を通して「公」が形成される社会が民主制である。

言葉の共有だけが平和交渉を可能にする

   




 情報化社会の標語だけは賑賑しいが、言葉が社会的共有財として機能していない。機器と関係機関だけが巨大化、空前の利益を隠せない。その中で行きかう単語は意味も繋がりも行方不明。対話不能な社会はこうしてつくられる。便利さに幻惑され、AI端末を通しての「戦争と格差拡大」を学校も家庭も隠蔽してはならない。


茶壺道中・ルメイ叙勲・ペリー記念碑 / 歴史から学べない国の社会科は憂鬱

ずいずいずっころばし胡麻味噌ずい

茶壷に追われて(茶壺道中が近づけば理不尽極まる面倒が課されるから)

トッピンシャン(戸を閉め隠れて息をひそめる)

抜けたらドンドコショ(茶壺道中が過ぎてようやく賑やかな日常に戻った)

 御茶壺道中は、将軍専用の茶葉を、宇治から江戸に運ぶ行列。この御茶壷道中は、たとえ参勤交代や御三家の行列であっても、駕籠や馬から降りて道を譲る仕来りに遭遇して厄介千万だった。行列の街道は、事前に入念な道普請が命じられ、見ても顔をあげてもならず、恐る恐る息を潜めて遣り過ごす。田植えは農繁期であっても禁止、子供の戸口からの出入りも、たこ揚げも、屋根の置き石も、煙の上がる煮炊も、葬式までも禁止して弾圧。 

 先ず空の茶壺が東海道を宇治に向かい、茶葉を茶壺に詰めたあと、一旦京都の愛宕山へ預け朝廷にも分けた。その後、中山道を通って、途中茶壺を山梨県の谷村で夏を過ごし、秋になって江戸へ運んだ。

 千人もの大人が、「恐れ多い」茶壺への失態に怯えながら徒歩で運んだという。こうした横暴は必然的に腐敗を生む、茶壺役人は質が悪くなる。茶壺関係物品をわざと人馬往来ある場所に置き、粗相を誘発しては恐喝の種にした。

 その道中の様子を風刺したのが、「ずいずいずっころばし」。

 茶壷の数も行列の人数も年ごとに増え、道中は千人以上が百個を超える茶壷を運ぶ「絢爛豪華」な行列になった。この前代未聞の馬鹿げた慣行は、家光が1633年に制定し幕府が消滅するまで235年も続いた。

 こともあろうかこの愚行を、地域の誉れ高い歴史的行事として再現する自治体が一つならずある。世界遺産はこうした愚行の集積に他ならない。

 

 どんな迷惑も限度を顧みず徹底的に強行弾圧し続ければ、やがて民衆は諦めるばかりか自ら進んで平伏する。その封建時代の忌まわしい記憶は、日本に今なお深く刻まれている。皇室の人間は「様」付でその恋人は「さん」だ。相手が強大ならば、どんな仕打ちにも「耐え」やがて自らひれ伏し従属する。大空襲と原爆投下の指揮官ルメイに、勲一等旭日大綬章を贈る恥ずかしい国となり果てたことを忘れてはいまい。ペリー一行が琉球や日本に上陸して、まずやったのは「婦女暴行」である。この事実はむしろ米国の学生のほうが知っている。それを全く無かったかのように、開国の「偉業を讃える」像や碑を競って建てる。

 弾圧は徹底的にやるほどよい、やがて弾圧にすすんで迎合する勢力が政権を握る。それを米合衆国に伝えたのは敗戦日本ではないか。ベトナムもキューバも、力で理不尽に襲い掛かるアメリカを決して許さなかった。中南米もイランもイラクもアフガニスタンもどんな苦難を舐めてもアメリカに屈せずやがて排除している。

米軍に轢殺された幼女、左の写真を撮った写真家は米軍に射殺されかねなかった
 日本だけが、金も出すから基地による支配を続けてくれと懇願している。その原型は江戸時代に形成されたのではいか。そう思えてくる。歴史から正しく学ばないこの国で「社会科」を教える困難の中に我々はいる。

 ナチ支配はそれでも13年で解体した。しかし米軍基地による沖縄支配は既に約80年、なお終息の気配どころか拡大。こんな理不尽を地球上のどこに見つけることが出来るか。

 他人の犠牲になりたがるものは、他人を犠牲にしたがる。悪徳は加害者によってより、むしろ被害者によって拡大される。 むのたけじ

何故「民主」ではなく「民主主義」なのか      「主義者」と「特高」

  自由に主義をつけるのは、「新自由主義」の場合ぐらい。平等を平等主義と言うことはない。平和も平和主義とは言わない。

 「民主教育」と言う場合と「民主主義教育」と言う場合、どこが違うのか。民主法律家協会は民主主義法律家協会ではない。

  「主義者」という言葉がある。非「国体」思想撲滅を任務とした特高警察が、マルクス主義や無政府主義など左翼的傾向全般を一括りにしていた。「国体」概念が曖昧な事が味噌、感情的憎しみが込められ虐殺と弾圧の言語的温床となった。対して天皇制支配や植民地獲得を喧伝する者は、どのように振舞っても「主義者」ではなく世間の標準なのであった。

 tvワイドショーで弁護士が「・・・共産党はまだ『暴力的な革命』というものを、党の要綱として廃止してませんから。・・・」と発言するや、自民党の支持率が爆発的に上昇(自民党24.9→43%)し野党の支持率が軒並み激減(立憲民主党28.1→11%、共産党10.0→6% 各党の支持率は前者が信濃毎日、後者が朝日)した現象は、「主義者」呼称と特高的「国体」概念が如何に根強いかを示している。「特高」紛いの言説で政権やマスメディアの人気を狙う輩も後を絶たない。


 日本で「民主」が生き生きしていたのは、敗戦後の僅かな期間だけ。生まれたばかりの「公選制教育委員会」や「公選制公安委員会」が押しつぶされた時、体制は曖昧な「国体」概念で自らを包み込み、「主義者」概念を徐々に復活させることに成功した。

 今教員が何であれ自主的取り組みを目指せば、間髪を要れず「日教組」という「主義者」ラベルが貼られ 世間の眼差しを曇らせる。日教組は組織としては死んだも同然だが、体制が自らを守る道具に使えば世間は判断力を放棄する。お陰で政権は何をしても無色・標準を装うことが出来る。  

 徳冨蘆花が一高で「謀反論」を公演した意義を想う。彼は会場に溢れる若者にこう訴えた。

「・・・社会主義が何が恐い? 世界の何処にでもある。然るに狭量にして神経質な政府は、ひどく気にさえ出して、殊に社会主義者が日露戦争に非戦論を唱うると俄に圧迫を強くし、足尾騒動から赤旗事件となって、官権と社会主義者は到頭犬猿の間となって了った。諸君、最上の帽子は頭にのっていることを忘るる様な帽子である。・・・我等の政府は重いか軽いか分らぬが、幸徳君等の頭にひどく重く感ぜられて、到頭無政府主義者になって了うた。無政府主義が何が恐い? ・・・幸徳君等は時の政府に謀叛人と見做されて殺された。が、謀叛を恐れてはならぬ。謀叛人を恐れてはならぬ。自ら謀叛人となるを恐れてはならぬ。新しいものは常に謀叛である・・・」

 2時間に及ぶ演説が終わると数秒の静寂の後、万雷の拍手がわいたという。蘆花は些かも「主義者」ではない。無論この後「不敬罪」騒ぎが起こった。問題はどこにあるか。


 左は無冠の貧しき抗日ゲリラ戦士、右は勲章を誇る富める大量虐殺戦犯。
 我々に必要なのは、あらゆる権威や権力に依存しない自立した判断だ。それを学校は培ってきたか。指導に名を借りて、特高並みの暴力的思想善導に励まなかったと言えるか。この国では、体罰殺人が半ば当局公認で戦前から続いている。

 

「経営の専門家」は何が「専門(得意)」なのか

  「100歳まで生きる」と公言していた稀代の「経営者」ロックフェラーは、98歳の誕生日を目前にして亡くなった。死にゆく彼をフォードが見舞ったときの会話。

 ロックフェラー「さらばだ、天国で会おう」

 フォード「あなたが天国に行けるならね」

 フォードはロックフェラーが天国に行けないことを見抜いていたのか。ならばフォードはマルコによる福音を正しく読んでいたことになる。

  「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。(マルコ10:25)

 それにしても冷酷な男だ。フォードは自分だけは天国に入れると本気で信じていたのか。

 フォード社は1960年代後半、軽量廉価の「ピント」を設計した。日本製小型車との競争のため、短期間開発は至上命令だった。結果、ガソリンタンクは後部車軸とバンパーの間に置かれ差動装置のボルトは露出、衝突の衝撃でガソリンタンクを刺し通す恐れがあった。

 このままではピントが、新基準には合格しないことを技術者たちは知っていた。新たな基準時速20マイル試験では、12回の後部衝突のうち11回が不合格、衝突によりガソリンタンクが破裂し車体は炎上。安全のための改良には、1台あたり11$の追加投資が見込まれた。

 フォード社担当取締役は、「衝突事故がもたらす燃料の漏洩と火災による死亡事故」という文書を作成、命と追加投資を天秤にかけた。

 改良のための追加投資=販売台数1250万台×単位費用11$=約178億円

 社会的損益=死傷者の出る火災180件×(死亡による損失20万$/件+負傷による損失67千$/件)+車両炎上2100台×車両損失700$=約64億円

 この結果をもとに「経営の専門家」フォードは、改良なしのまま販売を続け、人命を軽視する策に踏み切ってしまった。

 1972年、追突されたピントが発火・炎上、運転手が死亡し同乗者が大火傷を負った。この事故をめぐる製造者責任訴訟で、フォード社はガソリンタンク炎上の危険性を知りながら、経済的収支計算結果に基づき販売を続けたという事実が、退職技術者らによって暴露されるに至った。

「ヒトラーの謝辞 と独大鷲十字章」を独大使から受けるフォード

  フォードとヒトラーの関係も、彼が「天国」から遠いことを現している。しかし福音や経典は、何時の時代も「富と力」のために都合よく捻じ曲げられてきた。天国がないことを最もよく知っているのは彼らである。


 コロナ分科会の尾身「専門家」が病気治療の専門家ではなく巨大病院網の経営者でしかないように、原発も宗教も経営が理論や理念を容易く踏みにじる。学校の教頭が副校長になったのも、校長の授業を禁じたのも教育の専門家としての職能を奪い、教委や文科省の尖兵たる経営者としての自覚を促すために他ならない。

 「経営学」修士号やメダルに魅了されるのは、己の価値を損なうだけではない、積極的に他者の価値を棄損することを知るべきである。

 まさしく、持たざる者、貧しき者は幸いなりである、天国や極楽のありなしに関わらず。

幸福度が低い国の子どもを待ち受ける危険な「隊列」

 ユニセフの子どもの幸福度調査は、利用できる統計が集まった38カ国を対象に実施。「精神的な幸福度」「身体的幸福」「学力・社会的スキル」の3分野で行われた。


 「精神的な幸福度」で使われた指標は、生活満足度と自殺率。 「身体的幸福」では肥満度。「学力・社会的スキル」では学力と「すぐ友達ができる」子どもの割合を調べた。

  日本の「精神的な幸福度」の低さは際立っている。

 学校では、いじめと体罰が国際的比較の対象にならない規模とレベルで蔓延している。 東京五輪パラリンピック開会式の楽曲担当予定者・小山田圭吾らへの政府、組織委員会、世間の鈍い対応がそれを如実に示している。たかが金メダルの数でごまかされる。おまけに偏差値による受験地獄は文科省がベネッセの植民官庁となって留まるところを知らない。

  「すぐ友達ができる」環境を日本の社会は、破壊することで

福井新聞から
繁栄している。

 それだけでも、絶望に値する。日々落ちこぼれる恐怖が更新されるからだ。その恐怖から逃れるために、子どもも親も「塾」資本と部活に救いを求める「アリ地獄」構造に自ら笑顔で飛び込む始末。


  子どもの幸福の根幹にあるのは、「こん子たちゃもう戦争に行かんでん良かとじゃな」と大人が安心して子どもたちの未来を見通せる事だ。平和の安定性を支える政治構造への信頼だ。

  日本国憲法第9条は「日本への攻撃」がない場合の武力行使を認めていないから集団的自衛権の行使はできないというのが,戦後一貫した政府の解釈だった。それが「こん子たちゃもう戦争に行かんでん良かとじゃな」の根拠だった。


  現在日本は集団的自衛権行使を口実に、NATOの「不朽の自由作戦・海上措置作戦」に参戦、武装「隊列」を組んでいる。集団的自衛権は明白な憲法違反。地理的に遠い世界への武力行使に無関心を利用して、保守政権は解釈改憲に移行した。そんなことにさえ気付かない鈍感さが、小山田圭吾問題への醜悪な対応に及んでいる。

 若者にも、子どもにもそして働く者に年寄りにも絶望的な世界がもう始まっている。不幸は、学力や賃金や競争力の国際ランキングの低下ばかりではない。  

 


「勤評」は子供にどう見えたか

 

 熊本市の成績票は、教科の獲得目標ごとに「がんばりましょう」、「できました」、「よくできました」の三段階の欄に赤い○がつけられていた。初めて成績表を貰った時説明はあったが、よくは分からなかった。下校しながらみんなで考えたがやっぱり分からない。うちに帰って「どれが一番よかとね」と聞いたが、母はもとが小学校教員だったせいか、担任と同じ言い方をした。
 鹿児島に転校すると五段階評価。「1」と「5」のどっちがいいのかと周りに聞くと、笑いながらてんでバラバラに言う。成績票を祖母にみせながら「成績が上がったから褒美がもらえる」と友達が言ってたことを話すと、「褒美のために勉強しちゃいかん、成績はどげんでんよかよー」と手作りのおやつを出してくれた。

 だから成績で一喜一憂する必要は殆どなかった。殆どと言うのは、一度だけあったからだ。

 あれは四年生になった1958年の春だった。その日担任は機嫌が悪かった。社会科の点数で学級丸ごと叱られた。僕は名指しで「一番だが76点、一体どうしたんだ」と雷が落ちた。窓辺の学校菜園に茂った豆の光景と「76点」をいまだに鮮明に覚えている。

 帰るなり「今日は先生に叱られた」と事情を話して答案を見せた。暫く沈黙が続いたが祖母が「わっこが76点じゃ、教え方が間違っちょる」と断言。大叔母はものも言わずに下駄をつっかけた。こんな時の大叔母のコースは決まっていた。何人かの同級生のうちを回った後学校に走るのだった。


    次の日担任は「明日スケッチブックをもって来い」と言い、そのあくる日の三時間目「今日は勉強止めよう。築港で絵を描こう。弁当持って」こっそり学校を抜け出した。しかし50人がぞろぞろでバレないわけはない。わざわざ校長室の前を抜き足忍び足で通った。

 歩いて5分の港のあちこちに散らばって、先ず大方は早弁した。そして絵を描いた。担任は堤防の先にある灯台の陰で寝そべってしまった。こんな時僕はみんなに絵の下書きをせがまれる。構図を取るのだ。サッサと済ませうちに戻った。港周辺の子は大抵そうした。不思議なことに、僕が帰るのを予想していたように支度が整っていた。知っていたのだ。

 こんな事が何回か続いた。これは大叔母が関わったに違いないと気付いたのは、彼女が他界した後だった。彼女は「勤評」が、日本中の教室を荒廃させつつあるのを新聞で掴んでいた筈。それが故郷でも始まったのだと、僕の報告を通して知った。先ず校長に釘を刺し、担任には慰めの言葉とともに「築港で子どもと遊んで昼寝でもして全部忘れんね」とでも言ったはずだ。 公選制教委は廃止されていたが、経験は蓄積され続けた。 

 

全「隊」止まれ! は戦争の予行練習

  勝手に「授業を抜け出す」、授業中「歩き回る」、消しゴムを刻んて前の子に投げる。協調性がない。「小1プロブレム」のはしりと言われかねない要素を抱えていた僕だが、一度も咎められたことはない。

「爺ちゃん、日本はもう戦争せんとな」

「絶対戦争はせんと決めたんじゃ。戦争に良かこた何も無か」

 朝食前、筑港と町を隔てる権現島に登りながら、祖父はそう繰り返した。日の長い夏には夕食後の散歩もこの山だった。

   庭や露地で遊べば、祖母たちが「こん子たちゃもう戦争に行かんでん良かとじゃな」と繰り返していた。

 海軍のたたき上げ将校で兵学校教官だった祖父は、軍装や勲章の類をきれいさっぱり捨てていた。国防婦人会の先頭に立ち竹槍を構えていた大叔母は、家族の全てを戦争で失い「バカの考え休むに似たり」が口癖になっていた。

 町の商店街で大売出しの拡声器から軍歌や軍艦マーチが流れると、耳を押さえながら「好かーん」と足早に駆け抜けていた。お陰で孫は文字や数字を覚える前から戦争を憎むようになった。

  勉強を禁じられた僕は登校が嬉しく前の晩からそわそわして一時間も前にうちを飛び出した。「急がんでん学校は逃げんがね」と母は笑っていた。学校に着くまでにやることはいっぱいあった。誰もいない学校に着いてからも、花や昆虫を見つけるのに忙しかった。

 入学式と同時に授業が始まると信じていた僕は、式がだらだらと続き記念写真撮影で待たされるのに不機嫌になった。次の日こそ朝から勉強出来ると思って張り切っていたが、クラスごとに学校の中をぐるぐる回る。順番が来るまで教室で待たされる。席につかず立ち歩いたり消しゴムを刻んで投げた。

 ようやく授業が始まる、週一回「集団体育」の時間があった。右向け右、二列縦隊、前へ進め、全隊止まれなどばかりを、怒鳴られながら繰り返すことに嫌気がさして僕はうちに帰った。

 「どげんしたとね」、たまたまうちに来ていた大叔母と母は驚いた。僕は「「集団体育」が嫌だ、あれは勉強じゃない・・・」と訴えた。大叔母は「そんた戦争の練習じゃ」と叫ぶと下駄で学校に走った。その後僕の記憶に「集団体育」の記憶はない。鹿児島の故郷に転校してからも「集団体育」があり、憤然と早退した僕の訴えに「行かんでん良か」と血相を変えて学校に大叔母は走った。

 プロブレムは生徒や家庭にばかりあるのではない。第一わざわざ横文字を使う神経自体が問題。

 思い起こせば、学校で「問題」が起れば大叔母は「こんたいかん」と走った。その声を聞く柔軟さがこの頃の学校にはあった。そして教師は平和に敏感だった。

 前川喜平元文科次官が、「運動会の入場行進の「全たい進め」や「全たい止まれ」という号令の「全たい」は「全体」ではなく「全隊」である」と証言している。文科省はその流れを総括しないまま今日に至っている。「組み体操」や「体罰」を巡る愚かな醜聞は文科省の不作為の成果と言ってよい。そればかりではない。 

 高度成長の直前、日本の農村は崩壊、悲惨な様を曝しはじめた時、田舎の学究でも弁当に焼いた魚を新聞でくるんだり何も持たずに校庭でうな垂れる子が増えた。帰宅して話すと大叔母は「ぐらしかー、何を植えてん売れんごつなったとじゃ」とどこかに走った。数日して担任がアルミのドカ弁を幾つも抱え、弁当のない子たちに配るようになった。六学年全クラス分は大変な作業だった筈だ、一人では手に負えない。ひと月経つか経たぬうちに給食が始まった。町議会議長は父の叔父だったし、役場のあちこちに知り合いもいた。大叔母は根回しが巧だった。祭りが近づけば、庭は大叔母に知恵を借りる若者の溜まり場になった。町中の情報が集まり、動きはす早かった。

 大叔母は「公選制教育委員」経験者だったかもしれない。初め町は、大叔母を国防婦人会の活動家の経歴に目を付け無害な教育委員として立候補させたのだろうが、実際の動きは生徒や父兄の実情を行政に反映させるものだった。公選制教育委員会や公選制公安委員会が瞬く間に潰されたのは、この住民との密着行動を行政が恐れていたからに違いない。

 大叔母の口癖「バカの考え休むに似たり」は、行動する草の根民主主義の標語だった。帝大卒や士官学校・兵学校出の浅慮が、自国民とアジア民衆を苦難のどん底に叩き込んだ経験を祖父母も大叔母も決して忘れなかった。だから彼らは、孫に勉強を禁じ、冗談で「東大に入るよ」と言えば慌てたのだ。

「アネハヅルのヒマラヤ越え」

  ヒマラヤ越えの飛行ルートダウラギリの標高は8,167m。酸素濃度が地表の3分の1しかない。酸素ボンベが無ければヒトは10秒で意識を失う。アネハヅルは、毎年ここを越える。


 アネハヅルはツルのなかではもっとも小さい。ある朝の夜明け、モンゴル大草原を一斉に飛び立つ。
  

 羽ばたきと滑空を繰り返しながら、山越えの上昇気流を探り高度を上げる。ダウラギリの周辺は、強い乱気流が渦巻き、風向きは瞬時に変わる。彼らは美しいV字編隊を組んで薄い酸素濃度と乱気流を克服してきた。

   V字編隊の空気力学を最大限に活用するために、先行する鶴の翼端で生じる螺旋状の気流の渦の上向き部分に翼を持っていく。先頭の鶴も常に羽ばたくから気流も絶えず上下する。従って、後続の鶴が先行する鶴の気流に乗り続けるには、的確な位置取りだけでなく、羽ばたくタイミングも正確に合わせる。それ故先頭の鶴には相当の負担がかかる。彼に疲労が見えてくると、体力を温存した仲間が次々と交代する。

  複雑な乱気流の中には、真上に向かって上昇する風もある。 その上昇気流に乗れればヒマラヤを越えられる。

 失敗すれば2000mも3000mも後退し疲労困憊のあげく、低地に舞い降りることになる。疲れ果てたアネハヅルの群れは、もうワシやトンビから逃げる元気すらない。アネハヅルの山越えの季節には、群れを狙う猛禽類も集まっている。


  上昇気流を見いだした群れは、一気に高度を上げて静寂のうちにダウラギリをこえてゆく。

  ここには安っぽいメダルも声援も賞金もない。メダルを齧る者も、メダルの数を数える組織もない。国賓待遇に胡坐をかく傲慢な男もいない。

 

  インド亜大陸がユーラシアプレートに衝突するまでは、多くの鳥や獣や昆虫そしてヒトがここを越えていた。ヒマラヤ越えの厳寒の峠に人の歩いた跡がある。岩壁に穴を穿って路をつくったのだ。

  「あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさいマルコの福音書10章43~45節

 マルコの言葉を聞くのに、えらい神父や大仰な教会は一切要らない。アネハヅルのダウラギリ越えが示している。教会や寺院が膨大な人と億万金を使って、いまなお失敗し続けていることを。

もし、君の庭が貴金属だらけになったら

   夢のような幸運、たった一掴みでどんな贅沢も思いのままだ。ひとかけらの土も糞や汚物もない。大リーグ「大谷」の幸運は、さしずめプラチナか巨大なルビー相当だろうか。プロゴルフも競艇も競馬も囲碁将棋gamerもオリンピックplayerもその稼ぎ高が、画面や紙面を賑わす。それにつられ...