誰が「候補者」の質を見極め、鍛えるのか

 「市民たちはいま、候補者の質を見きわめようとしているんです。同時に候補者を鍛えようともしているんですね。このような市民集会は、市長選までに何十回となく持たれるでしょう。そのたびに候補者は市長にふさわしくなっていくわけです。なによりも、現市長批判派は右から左までいろいろですから、こういう集会の討論を通して連合していくわけです。そうして集会で一致するところを見つけては、それを公約にしていく・・・」    井上ひさし『ボローニャ紀行』

 これは立候補予定者を市民が作り上げる過程を見学中の井上ひさしに、ボローニャの通訳が語った「解説」。この「候補者の質を見きわめる」過程に数年かかる事もある。その粘り強さが、ファシズムとナチズム二つの敵と闘ったパルチザン闘争を産んだ。

 井上ひさしはこの時、「イタリアは国貧しけれども民豊なり、日本は国豊かなれども民貧しけりですね・・・」と呟いたとこの旅行の同行者は伝えている。今、日本のほうが遙に貧しい。


 ボローニャは靴も有名。靴屋では二か月掛かると告げられる。了承すれば足の木型を作る。それに合わせてまず片方を縫い上げ一週間歩き回らせる。そして微調整を加えながらもう片方も作るという。ワイシャツだってそうだ、出来合いを袋に入ったまま買うなんて考えられない。家だって何世代も住むのだ、建築家や大工や近隣との対話は欠かせない。それが自治的共同体をつくる。

 「討論する」とは何か。靴やシャツを討論する。住宅と討論する。だから街づくりや制度作りだって、じっくり討論する、それが自治における主権者の在り方だ。民主主義は「面倒」に決まっている。選挙に勝利する為には、元来は互いに矛盾するかのような要求を討議する中で、一致点を見出す必要がある。多様性を損なわないのでなければ「団結」とは言えない。

 日本財団の調査によれば、投票しない理由に「面倒」をあげる18歳は51%もいる。

 政党が、圧力団体が、宗教団体が、利権団体が「候補」を身内で決めていることに問題がある。

 ボローニャのように「候補」を育て鍛える集会が、地域ごとに日常化する共同体を先ず作り上げる。そんな共同体からは、無免許運転を繰り返す者や挨拶文や議会質問文を官僚に作文させる者は、候補になる前に淘汰されるだろう。どの党派との連合がその共同体で最も相応しいかを見極めるのも「討論」の積み上げでなければならない。

 何処か自分たちと無縁の組織が決めた組み合わせを押し付けられるのは、主体ある市民には心地よくはない。ある地域が特定の党派にとって「空白」であったとしても、その共同体は決して空洞ではない。必要なのは当該共同体による自己組織化であって、他地域からの移植であってはならない。

 自然の生態系は地域ごとに多様であって、画一的景観も画一的食事も根付かない。各共同体ごとの地域の多様な自治体が、先ず少数者たちの討論を積み上げ、共同体の未来像とともに候補が鍛えられるべきなのだ。立憲・共産・社民・れいわの合意は、こうした地域ごとの討論を基盤にしてこそ更に広がる可能性を秘めている。それは最も過酷な試練と闘い続けている沖縄か典型を見せている。 

20ヵ月に及んだパルチザン闘争には 25万人が参加。死者は3万 5000人以上、
虐殺された市民は1万5千人に達し、その多くが婦人と子どもであった。
ユダヤ人部隊も勇敢に闘った(右画像)


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