教員も宗教者も集団化すれば、堕落する

 「迷悟一如」。迷いと悟りはひとつのことだ、と道元は言った。そして、迷うのも悟りの一つであり、悟るのもまた迷いの一つなのだと。だから,迷いと悟りはまったく同じものなのた、というのである。
 日本宗教界の戦争責任についての声明は、滅法遅かった。大方は50 年以上たってからのことだ。なんという迷いだ。 戦争被害者面して、50年以上も沈黙を守ったのは、もはや迷いとは言えない。悟りの境地か。これを「迷悟一如」と言いたい。
 それでも例えば、道元の曹洞宗は1992年「懺謝文」を出して 「曹洞宗が一九八〇年に出版した『曹洞宗海外開教伝道史』が、過去の過ちに対して反省を欠いたまま発刊され、しかも同書の本文中において過去の過ちを肯定したのみならず、時には美化し賛嘆して表現し、被害を受けたアジア地域の人々の痛みになんら配慮するところがなかった。かかる出版が歴史を語る形で、しかも過去の亡霊のごとき、そして近代日本の汚辱ともいうべき皇国史観を肯定するような視点で執筆し出版したことを恥と感じる」と言い切って、「悟り」の境地を見せた。
 だが、辺野古に教団は姿を見せない。宗教者個人は来ている。情勢が転じれば、たちまち「迷悟一如」だ。集団化して駄目になるのは、教員も宗教者も同じだ。パルチザンが形成されないわけだ。

 「毅然とした指導」という言葉が呪いのように、学校を駆け巡った時期がある。70年代都立高校で、服装規制が「基本的生活習慣」の確立を旗印に流行り始めた頃だ。これを主導する教員の多くが、自らを「民主的」と強く自認していた。あたかも乱世に生きる禅僧のように、悟り切り自信に満ち胸を張って職場を仕切っていた。しかしその中身は、多数決による「管理強化」にすぎなかった。 
 「外見の自由は基本的人権であり、個人に属する。特定の高校に属することを理由に一律に奪うことは出来ない、名門校や難関校だけが自由服として残れば、服装は特権になるのではないか」大学を出て間もない僕は、彼らに噛み付いた。
 直ちに反論された。「今の生徒たちの基本的生活習慣の乱れは目に余る、何らかの規制がなければ秩序が保てない。緊急避難だ」大学で共に活動した教員仲間にも同じことを言い出す者があり、中にはこともあろうに「特別権力関係論」をもち出す者まであった。とても正気の沙汰とは思えなかった。
 全国的に高校が荒れ、特に工業高校の荒廃の凄まじさが、マスコミを賑わさない日は希だった。工高に赴任してまもなく退職する若い教師も少なくなかった。「荒れ」現象の凄まじさ惑わされて、実態や本質をつかめない不安が教師の中にあった。「基本的生活習慣」という言葉が、すべてを説明し混迷する事態を解決する呪いのように思えたのだ。
 だが実態不明の「基本的生活習慣」が、なぜ服装如きで身に付くのか。何一つ自力で具体的に思考したものではなかった。
 「学校が毅然として一致して生徒に迫るためには、目に見える目安が必要、心の乱れは服装の乱れとして現れる」と支離滅裂なことだけが罷り通った。
 ではいつになれば解除するのかと僕は食い下がった。「4・5年」という。自由を奪われたまま卒業する生徒たちが続出するのではないかと切り返すと「 2・3年」と言った。
 こうして学校は、生徒の外見に気を取られ、授業の充実から逃避し始めた。教研に集まる教師の「実践レポート」から授業に関するものが目立って減り始めたのである。
 もうあれから50年弱。一体どこの学校が服装や頭髪などの規制を解除したのか。これは迷いか悟りか。ただの無知蒙昧の結果としての過ちか。生徒の生活の乱れを規制しているつもりが、いつの間にか教師の内面を権力が規制し始めても、抵抗を自粛する有様だ。そして、九条に関心を持ち行動する高校生も大学生も若い労働者も減っている。

 管理強化が生徒と学校のためになるのか、という疑問や不安はどの教師にもあったのだと思う。だから高生研の合宿や指導の手引き書が流行った。「迷い」が教師の学習を促し、「悟り」を注入した。しかし自ら悟る事は少しも出来なかった。「生活の乱れる」生徒への言葉は、冷静さを欠くものになり体罰を伴うようになったからだ。

 教員は起立・礼や前へならへに中毒している。それが無ければ不安で禁断症状も出る。そんなに「前へならへ」が好きなら、食堂や駅で勝手に大声を張り上げて一人でやればいいではないかといつも思う。「気をつけ」「起立・礼」が必要と思うなら、家庭や銭湯で、一人で毅然としてやったら良いだろう。君が代が素晴らしいと考えるなら、自宅でカラオケで原っぱで、思う存分歌え。止めないよ、だが他人に強制するな。迷いを隠すために、人は毅然を装う。

   大雪が降れば雪掻きをする。だが元気な小学生も中学生は出てこない、体力の有り余る高校生や大学生も出てこない。スコップを握るのは、足もとの覚束ない年寄りと長時間労働の疲れが溜まる中年ばかりだ。去年も一昨年もその前もそうだった。評価に結びつかぬことには見向きもしない、強制的ボランティア教育の見事な成果である。震災のようにマスコミが騒げば動く、政府が指図すれば動く、動員されれば動く。自分で判断せずに指図にだけ反応する。なるほど「迷い」はない。
 校庭やグランドで野球やサッカーをやっていた健康な連中は、雪の日に何をしているのだろうか。あちらこちらの雪掻きをして歩かないのか。大会目指してスポーツする若者が、年寄りや親に雪をかかせて、本人は炬燵でゲームに興じる。そして「健全な魂は健全な肉体に・・・」を座右の銘にする。なるほど、迷いがない。校庭や体育館では、立ち止まってお辞儀する。なるほど、悟りの境地か。絶対にデモにはゆかない、絶対迷いはない。

文人も教師も調子を合わせるべきではない

文人は調子を合わせることのできないものでもある
 しかし私はここで、文人は傲慢であるべきだ、或いは倣慢であってもよいと主張しているわけではない。
ただ、文人は調子を合わせるべきではないと言いたいだけである。そして、文人は調子を合わせることのできないものでもある。調子を合せることのできるのは、とりもち役だけだ。しかしまた、この調子を合わせないということは、決して廻避することではない。ただ是とする所を歌い、愛する所を頒え、そして非とする所、憎む所のものにかかり合わない。彼は是とする所のものを熱烈に主張するのと同じように、非とする所のものを熱烈に攻撃し、愛する所のものを熱烈に抱擁するのと同じように、憎む所のものを更に熱烈に抱擁しなければならない。あたかもヘラクレスが巨人アンタイオスを、その肋骨をへし折るために、かたく抱きしめたように。
  魯迅「二たび「文人相軽んず」を論ず」


 文人も教師も、人に指針を示すことを期待される。指針が情勢や政権を忖度していては、指針としての価値はない。文人が「調子を合わせるべきではない」なら、教師はもっとそうであり、そもそも「調子を合わせることのできないものでもある」と言うべきである。なぜなら文人が大人を相手にするのに対して、教師は少年を教え導く事で食っているからだ。指導要領が変わるたびに、調子を合わせ注釈書を読まずにいられないのは、少年たちを導くための自前の羅針盤がないと言うことだ。

 そんな者は、ただの伝声管になればいい。伝声管には自分の主張も意見も要らない、ただ言われたとおりに伝えればいい。ある校長は、「私は行政の末端です」と胸を張った。僕は聞き間違えかと思った。「私は行政の末端です」といい、打ち萎れるなら筋が通る。続けて「上から、授業を禁じられている」と言ったのには文字通り開いた口が閉まらなかった。それ以前にも似た事を言う管理職はいたが、恥ずかしげに言ったものだ。彼は堂々と胸を張ったのである。
 

 かつて裁判官は、裁判所長をボーイ長と呼び蔑んでいた。裁判に専念できず雑務に翻弄される立場は、まさにホテルや船のボーイ長。政権に忖度して所長になる裁判官を誰が尊敬するか。裁判官は法の番人であって、政権の「とりもち役」ではない。
 
 若い時には、授業や生徒との関わりに夢を描いていた教師も、夢破れて授業は行き詰まり生徒や保護者との関係も閉塞する。事務に逃げ込み校長と呼ばれるのは、彼には救いなのかも知れない。

 とりもち役になることが自慢すべき事に当たるという神経は、「中央との太いパイプ役」と自分を売り込む地方議員にはもともとあった。しかし恥ずかしい生き方である。学校では校長が退職するたびに、○○先生を囲む会が作られる。これは、教委など業界への「とりもち役」を退職校長に期待しているからである。親戚や同窓生には顔が立ち、時期が来れば勲章が待っているのだ。

 少年たちの成長のために「是とする所のものを熱烈に主張するのと同じように、非とする所のものを熱烈に攻撃」しなければ、生きた教師ではない、なんのとりえもない物質=伝声管に過ぎない。「立ってください」「口を開けなさい」「これは職務命令です」と言うのを誇らしく感じる人間がいるのだと言うことを知って情けなくなった。伝声管に過ぎないのに、その声の主の代理人になった気の幼稚な夢想家である。江戸時代にも、将軍や藩主の書き付けに頭を下げさせ「上意」と叫ぶ者があった。それを真似て得意になれる神経を嗤う。

古在由重「わたしの先生たち」

党派を裏切るか友だちを裏切るか、二つに一つ
 十数年の戦争がおわって、一年後か二年後のことだった。ある日、駿河台の明治大学の講堂で講演会が開かれ、わたしも講師のひとりだった。おそらくその主題はながい暗黒時代のこと、そして希望にみちた今後のあたらしい展望ということだったようにおぼえている。聴衆はいっぱいだった。最後の請演者として、わたしは話をおわって、講堂を出ようとした。その瞬間、ドアの所にたちどまっているひとりの老紳士と顔をあわせた。60歳ぐらいの、スマートな服装の人である。
 「わしがわかるか」という声に、すぐ「中村先生じゃないですか」とこたえた。「そうじゃよ」という返事。「ああ、やっぱりそうですね。奥さんもお丈夫ですか」。「妻(さい)も元気じゃ」という言葉が返ってきた。ほんのしばらくの立ち話によって、三十年あまり昔の小学校時代のこの先生も、いまは教師をやめて千葉県の市川で歯医者をしているとのことだった。その途端に、おたしは主催者の側から急に別室に呼び出されて、「それでは、いずれゆっくり」といったままわかれてしまった。まったくうっかりというほかないが、正確に住所すらたずねるのも忘れて。ただ、「君も苦労したのう」という身にしむねぎらいの言葉が耳に残っている。おもえば、これが最後の再会となった。
 村の小学校の・・・六年生のわたし(わたしたち)がその魅力に全身ひきつけられたこと、当時はまだめずらしかった女教師のひとりとの恋愛によって双方が首を切られ、これに抗議したわたしたち六年生が三日間ほどの授業放棄をしたことだけをつけくわえておく。「妻(さい)」というのはそのときの女の先生である。この中村常蔵先生は、なみなみならぬ硬骨漢だった。わたしとしては、「人生は努力じゃ」ということを先生の実生活と教室での話から胸にたたきこまれた。あの暗黒の時代のわたしのことについても、気にかけて承知しておられた様子だったのに。

 幾何学の秋山武太郎先生。京北中学の三年生になったとき、この先生によってわたしは幾何学と数学一般に異常な興味をおぼえ、日曜日などにはたびたび先生の家をたずねた。いまおもえば、旧制中学の三、四年生のときに、すでにかなり高級なことを教室で教えられ、ときにはカジョーリの英語の数学史のページをめって、少年パスカルが円錐曲線についての定理を発見したときの、父のおどろきの光景を読みあげた。「ザ・ファーザー・ウォズ・サープライズド」という先生の音声などはいまでも耳にのこっている。そのほかフォイエルバハの九点円の定理、円に外接する六角形の対角線が一点に会するというブリアンションの定理なども、記憶にあざやかである。 
  「民主主義教育」1980年冬号

 人が学校の思い出に式や行事の涙を書くのが、僕には不快である。特に教師や文化人がそう書くのをみると身の毛がよだつ。

 古在由重は、小学校の中村先生の硬骨漢ぶりと旧制中学の秋山先生の授業を書いている。印象深かっただけではなく、哲学者古在由重の生き方に強い影響をもたらしている。
 僕は行事と式が、小学校入学から嫌いだった。準備は手伝っても当日はサボった。日常が浮き上がった雰囲気が軽薄に感じられたのだ。だから中学校以後、自分の卒業式に出た事はない。結婚式もやらなかった。賞の授与式にも行かなかった。式という式はできる限り回避した。その分自分の日常を楽しみたかった。
 式や行事が感動的であればあるほど個人の尊厳が、集団に埋め込まれるような不快感が漂うのだ。仮令小さくとも独立した全体である個人が、大きく感動的な行事や式の部分となることに僕は組みしたくない。どんなに運営が「民主的」であっても、歯車となって筋書き通りに動く自分自身を体験したくはない。

 中村先生の硬骨漢ぶりと秋山先生の鮮やかな授業は、古在由重少年の日常と人格に影響して、彼の尊厳を揺籃している。日常とは、ここでは時代の空気に忖度せず節を曲げない生き方であり、興味溢れる学びの時空である。たとえそれが後の暗い時代の過酷な運命に繋がっていたとしても。
 だから中村先生は、暗い時代の古在由重を思い「君も苦労したのう」と身にしむねぎらいの声をかけることが出来たのだ。「君も」には、中村先生の「苦労」が下敷きになって万感の思いが込められている。誰もが言え、誰もの身にしむ台詞ではない。

 中村先生の授業のどこにも「アクチブ」な装いはない。国家や民族の軛を越えた定理の美しさを淡々と教えて、中身が濃く充実している。こうして感動は、一人の独立した教師とと、自立した若者の間に形成され、時に応じて思い出されるのである。

 世界大恐慌の1929年、古在由重は東大総長の次男であり政治的に無色なことを買われて「思想善導」の教官として東京女子大で「倫理学」を教える事になる。
 この頃、優秀な青年たちが大学でマルクス主義を知り実践に飛び込んでいた。文部省は、対策として旧制高校や大学に「思想善導」の教官と講義を置いた。哲学倫理を正しく教育すれば、学生がアカになるのを防げると権力は考えた。
 皮肉な事に、古在由重は吉田先生譲りの頑固で善良な教育者であったが故に、講義を受けたモップル(国際赤色救援会)の女学生のオルグに共感し、「理論と実践の統一」へと人生の決断をする。ここには、定理や理論の美しさを少年古在由重にたたき込んだ秋山先生の薫陶も見える。
 世間は、東大総長の息子がアカになったと色めき立った。新聞沙汰の大事件となり、1933年に逮捕されている。
 これが、「君も苦労したのう」の一言に込められているのである。
 感動的な行事と式は、所詮人工の産物である。そこに時代に抗して闘う個人の出会いが作る、深みは生まれない。

 学校から行事とその膨大な準備を追放するだけで、学校の抱える諸問題は大方軽くなる。部活を軽く柔らく短くすれば、少年たちは社会に興味を持ち始めるに違いない。

追記 モップル(国際赤色救援会)は、このとき資本主義諸国の個人会員129万人、団体会員202万人。ソ連支部の会員823万人。会員の42%は非党員であったと言われている。現在の日本国民救援会。この組織以前の日本には、解放運動犠牲者救援会があった。

若者を貧困と無知から解放すべし

    「病気の原因は社会の貧困と無知からくる。」「だがこれまで政治が貧困と無知に対してなにかしたことがあるか。人間を貧困と無知のままにしては置いてはならないという法令が出たことがあるか」   黒澤明は『赤ひげ』で新出去定に怒りを込めてこう言わせている。             ...