古在由重「わたしの先生たち」

党派を裏切るか友だちを裏切るか、二つに一つ
 十数年の戦争がおわって、一年後か二年後のことだった。ある日、駿河台の明治大学の講堂で講演会が開かれ、わたしも講師のひとりだった。おそらくその主題はながい暗黒時代のこと、そして希望にみちた今後のあたらしい展望ということだったようにおぼえている。聴衆はいっぱいだった。最後の請演者として、わたしは話をおわって、講堂を出ようとした。その瞬間、ドアの所にたちどまっているひとりの老紳士と顔をあわせた。60歳ぐらいの、スマートな服装の人である。
 「わしがわかるか」という声に、すぐ「中村先生じゃないですか」とこたえた。「そうじゃよ」という返事。「ああ、やっぱりそうですね。奥さんもお丈夫ですか」。「妻(さい)も元気じゃ」という言葉が返ってきた。ほんのしばらくの立ち話によって、三十年あまり昔の小学校時代のこの先生も、いまは教師をやめて千葉県の市川で歯医者をしているとのことだった。その途端に、おたしは主催者の側から急に別室に呼び出されて、「それでは、いずれゆっくり」といったままわかれてしまった。まったくうっかりというほかないが、正確に住所すらたずねるのも忘れて。ただ、「君も苦労したのう」という身にしむねぎらいの言葉が耳に残っている。おもえば、これが最後の再会となった。
 村の小学校の・・・六年生のわたし(わたしたち)がその魅力に全身ひきつけられたこと、当時はまだめずらしかった女教師のひとりとの恋愛によって双方が首を切られ、これに抗議したわたしたち六年生が三日間ほどの授業放棄をしたことだけをつけくわえておく。「妻(さい)」というのはそのときの女の先生である。この中村常蔵先生は、なみなみならぬ硬骨漢だった。わたしとしては、「人生は努力じゃ」ということを先生の実生活と教室での話から胸にたたきこまれた。あの暗黒の時代のわたしのことについても、気にかけて承知しておられた様子だったのに。

 幾何学の秋山武太郎先生。京北中学の三年生になったとき、この先生によってわたしは幾何学と数学一般に異常な興味をおぼえ、日曜日などにはたびたび先生の家をたずねた。いまおもえば、旧制中学の三、四年生のときに、すでにかなり高級なことを教室で教えられ、ときにはカジョーリの英語の数学史のページをめって、少年パスカルが円錐曲線についての定理を発見したときの、父のおどろきの光景を読みあげた。「ザ・ファーザー・ウォズ・サープライズド」という先生の音声などはいまでも耳にのこっている。そのほかフォイエルバハの九点円の定理、円に外接する六角形の対角線が一点に会するというブリアンションの定理なども、記憶にあざやかである。 
  「民主主義教育」1980年冬号

 人が学校の思い出に式や行事の涙を書くのが、僕には不快である。特に教師や文化人がそう書くのをみると身の毛がよだつ。

 古在由重は、小学校の中村先生の硬骨漢ぶりと旧制中学の秋山先生の授業を書いている。印象深かっただけではなく、哲学者古在由重の生き方に強い影響をもたらしている。
 僕は行事と式が、小学校入学から嫌いだった。準備は手伝っても当日はサボった。日常が浮き上がった雰囲気が軽薄に感じられたのだ。だから中学校以後、自分の卒業式に出た事はない。結婚式もやらなかった。賞の授与式にも行かなかった。式という式はできる限り回避した。その分自分の日常を楽しみたかった。
 式や行事が感動的であればあるほど個人の尊厳が、集団に埋め込まれるような不快感が漂うのだ。仮令小さくとも独立した全体である個人が、大きく感動的な行事や式の部分となることに僕は組みしたくない。どんなに運営が「民主的」であっても、歯車となって筋書き通りに動く自分自身を体験したくはない。

 中村先生の硬骨漢ぶりと秋山先生の鮮やかな授業は、古在由重少年の日常と人格に影響して、彼の尊厳を揺籃している。日常とは、ここでは時代の空気に忖度せず節を曲げない生き方であり、興味溢れる学びの時空である。たとえそれが後の暗い時代の過酷な運命に繋がっていたとしても。
 だから中村先生は、暗い時代の古在由重を思い「君も苦労したのう」と身にしむねぎらいの声をかけることが出来たのだ。「君も」には、中村先生の「苦労」が下敷きになって万感の思いが込められている。誰もが言え、誰もの身にしむ台詞ではない。

 中村先生の授業のどこにも「アクチブ」な装いはない。国家や民族の軛を越えた定理の美しさを淡々と教えて、中身が濃く充実している。こうして感動は、一人の独立した教師とと、自立した若者の間に形成され、時に応じて思い出されるのである。

 世界大恐慌の1929年、古在由重は東大総長の次男であり政治的に無色なことを買われて「思想善導」の教官として東京女子大で「倫理学」を教える事になる。
 この頃、優秀な青年たちが大学でマルクス主義を知り実践に飛び込んでいた。文部省は、対策として旧制高校や大学に「思想善導」の教官と講義を置いた。哲学倫理を正しく教育すれば、学生がアカになるのを防げると権力は考えた。
 皮肉な事に、古在由重は吉田先生譲りの頑固で善良な教育者であったが故に、講義を受けたモップル(国際赤色救援会)の女学生のオルグに共感し、「理論と実践の統一」へと人生の決断をする。ここには、定理や理論の美しさを少年古在由重にたたき込んだ秋山先生の薫陶も見える。
 世間は、東大総長の息子がアカになったと色めき立った。新聞沙汰の大事件となり、1933年に逮捕されている。
 これが、「君も苦労したのう」の一言に込められているのである。
 感動的な行事と式は、所詮人工の産物である。そこに時代に抗して闘う個人の出会いが作る、深みは生まれない。

 学校から行事とその膨大な準備を追放するだけで、学校の抱える諸問題は大方軽くなる。部活を軽く柔らく短くすれば、少年たちは社会に興味を持ち始めるに違いない。

追記 モップル(国際赤色救援会)は、このとき資本主義諸国の個人会員129万人、団体会員202万人。ソ連支部の会員823万人。会員の42%は非党員であったと言われている。現在の日本国民救援会。この組織以前の日本には、解放運動犠牲者救援会があった。

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