フォスターは、ナチスにたいしてだけは徹底的に闘った |
ダンテはフィレンツェ市政に関わっていたが、激しい政争に敗れ追放された。彼は、この時味わった政治的不義への憤りを隠していない。「神曲」では ブルータスとカシアスは、祖国ローマを裏切るよりシーザーを裏切ることを選んだとして嘆きの川に落とされいる。
僕は
「国を裏切るか友だちを裏切るか、二つに一つを選ばねばならない場合には、国を裏切る勇気があってもらいたいと思う」と書いたE.M.Fosterに組みする。彼は「公正であることは信念を持つ限り不可能である」ことの例に聖パウロやモーゼを、師たるに値する存在としてモンテニューやエラスムスを挙げる。
古在由重は、東大総長の次男であり政治的に無色なことを買われて「思想善導」の教官として東京女子大で「倫理学」を教えていた1929年、国家を裏切りモップル(国際赤色救援会)の女学生を支援して逮捕されている。良識とは何か、如何にして発揮されるかをよく表す挿話である。←クリック
組織は、良識ではなく信念を支柱としている。 さて党派は、国家と友のいずれに近いだろうか。
一九八四年夏の原水爆禁止世界大会はソビエトの核実験を巡って大いに荒れ、運動の分裂を決定的にした。共産党に近い組織は、吉田嘉清原水協代表理事に対し、『党中央決定である。代表理事と原水爆禁止世界大会準備委員を辞任せよ』と強要した。
この時である。代表委員の古在由重氏が発言を求め
と、吉田代表理事を擁護する。忽ち会場に衝撃が走る。古在氏は高名な哲学者、おそらく共産党員だろうとだれもが思っていたからである。「共産党の広告塔のような古在氏が党の方針に異を唱える・・・」。報道陣から驚きの声が上がった。古在氏はその後、共産党を除籍される。「吉田君が退場なら僕も退場になる。だいたい同じ考えだからね」
僕は長い間、古在由重氏が会長を務める研究会の一員であった。年一回の大会では毎年会長の近況が報告される習わしだった。正月に主だった会員たちが、古在氏宅を訪問し歓談するのである。
僕はこれに噛み付いた。仲間で歓談するのに問題はない。しかし大会で「古在先生の近況」と恰も神や貴種を敬うかのような扱いに我慢がならなかった。古在先生を良しととするなら、古在先生のように振る舞うべきであり、奉つることで古在先生に近づいたつもりになるべきではないからである。翌年から近況報告はなくなった。
良識ある人間にとって我々の日常には、国家や党派や組織に裏切り刃向かわなければならない時が少なくない。生徒・学生や同僚の為に公正でなければならないからである。
しかし友愛の為ではなく、政治的な党派と党派、取引き相手同士、そして大した知り合いでない場合、多くの場合がそうであるがいちいち目くじらを立ててはいられない。できるだけ穏やかに辛抱する。努めて愛する努力などはしない。これが「寛容」であると、フォスターは言う。
内ゲバ殺人や査問は、努めて理想に向けて結束し純化する中過程で生まれている。文明は長い時を要する、だから我々は互いに努めて寛容であらねばならない。
だがフォスターは、ナチスにたいしてだけはそのような態度をとらなかった。首尾一貫して闘った。彼はBBCの電波に乗せて毎晩英国市民に徹底抗戦を語りかけたのである。何故ならナチスは、アーリアンだけが正しい理想であるとして、気に入らぬ者を虐殺し追放し絶滅を図っていたからである。 英米の資本家たちの「寛容」の精神は、ナチスへの投資に向けられる始末であった。(例えばブッシュ一族は、絶滅収容所の毒ガスを製造していたe.g.ファルベンに積極的に投資。ハリウッドの映画資本は、1940年の『チャップリンの独裁者』を作らせまいとしていた。しかしチャップリンは独立プロダクションを持っていたため、良識に基づいて行動できたのである)
フォスターは英国市民と長く厳しい闘いを強いられた。共に闘うのはソビエトのみであった。
追記 僕は信念に凝り固まった嘗ての学生セクトが、フォスターのように辛抱強い「寛容」の精神を、何故互いに発揮出来なかったのか、歯痒くてならない。内ゲバ・殺人に向けられた「理想」を、一致してベトナム反戦や反核闘争に向けられたはずである。もし高橋和巳がフォスターを読んいたら・・・と「もし」を重ねたくなる。