一学年10学級が続いた悪夢の日々を思い出す。学区は選択の多様化をうたい文句に無闇に拡大。それを教委は「自由」の拡張と錯覚させ、親も中学生も教師もこんな安手の詐欺にまんまと引っ掛かってしまった。
受験生に選択の余地はなかった。彼らは受検産業の用意した「偏差値」に相応しい学校を指定されるに過ぎない。「偏差値」が低すぎても高すぎても近くの学校は、予め「自由な選択」からは排除さているのだ。
おかげで教師も生徒もは、1時間以上を満員電車で通勤通学させられる。学校に着く頃には既に疲れている始末。
平等と民主を欠いた「自由」の実態を良く表している。
「高校増設運動」は時間的に追い詰められ、教育の「質」を自ら放棄したのだ。「子どもの声」を騒音扱いする価値観は共同体の拡大や消滅に伴い拡がる。幼稚園や保育所の立地が難しくなっている。保育者の幼児に対する体罰も起こる。
共同体か小さければ、子どもたちの遊び泣く声は煩さくない。親や祖父母を安心させ和ませる機能がある。保育者も親も子どもも古くから続く共同体で生まれ育ち、互いに気心が知れている事の価値を我が国は破壊し続けている。それを地域の「発展」といつわつてきた。
1888年日本には7万314の自治体があったが、2019年現在1718にまで減少。フランスは3万8000ドイツは1万4500 の自治体があり、それぞれ一自治体あたりの人口は1600人と 5600人である。日本は7万8000 人である。
我々の社会の自殺の多さ、いじめ、貧困に対する不寛容は、ここに根を探る必要がある。
社会の大きさや複雑さの違いは、社会のあり方を、従って人間のあり方を変える。
例えば村会と国会の運営には質的な差がある。数千万、数億人を対象とする様々な案件を抱える国会では集団の利害や党派の一般原則に基づいて討議決定せざるをえないが、村会では、政策の提案者や対象となる個人を考えて柔軟に決定できる。お酒の好きなこの人を、酔っ払い、博奕好きという属性だけを切り離して判断しないということである。子どもと博奕打ちの、曖昧さを含んだ有機的関係を固有名詞のまま連続的に捉えるということ、それが小さな共同体では可能になる。酔っぱらいの博奕打ちの変化を、多くが目にし話して確かめることが出来るからである。自治を支える人口的条件がそこにはある。
人口が増加すれば、こうした判断(曖昧さを含んだ有機的関係を固有名詞のまま連続的に捉える)は難しくなる。酔っぱらいの鼻つまみは固有名詞を奪われ、多数雑多な厄介者の一人として一括処理されてしまう。彼らが孤立状態から共同体への回帰するためには、多数への順応・同調という手続きのみが残り、同調できなければ罰と排除が待っている。 彼らの全生活の複雑性の理解と把握は顧みられなくなる。同時に社会は豊かな文化性を失う。リベラルな教養はその文化の中にある。
小さな共同体で、ひとは全て、取り替えることの出来ない固有名詞の複雑な全体として承認される。それが平凡という価値であると思う。平凡は平均ではない。千人程度の「奇妙な国」で、それが可能であったことの持つ意味は深い。何故なら「社会」では、企業も自治体も学校さえもが合併して、人は特性のない諸属性に解体・分類・適応され、従って絶えざる競争と孤立の日常に埋没してしまったからである。
勘違いしてはいけない。大きな都市でも日常的な生活決定の単位を小さくすることで共同体は小さく出来る。通勤や通学圏の縮小、世界を仰天させる悪習=単身赴任廃止は行政の決意にかかっている。遠方への高速で高価な交通機関や設備ばかり心を奪われ、日常の安価で便利な施設に目が向かないのは我々の意識か奴隷化してしまったために違いない。
プラトンは奴隷を「自分の行動において自分の意志ではなくて誰か他人の意志を表現する人間」と定義している。