授業のために分掌はある。行事も日々の授業の為にある。その逆、授業が分掌の犠牲になってはならない。行事優先で授業が軽んじられてはならない。
本来校務は、管理職の任務。校長は教員が授業に専念出来るよう身を粉にして走り回らねばならない、校長室でふんぞり返るだけが能では無い。
教委や文科省との喧嘩も覚悟の上で、教員の待遇、労働時間、休息・休暇、研究の自由、福利厚生、その他諸々の保障に関する雑務こそが校長の仕事である。
だから例えば帝大の農学者古在由直は学長や総長就任を断り続けた。雑務が多く研究に専念出来ないからだ。また正木ひろしをして「狩野先生こそ本当の国宝的人物だ」と言わしめた狩野亨吉が帝大総長を固辞したのも、研究に専念したいが為であった。
近頃の校長や学長は、何が生き甲斐なのか。校長室の書棚を見れば一目瞭然。専門分野の本は無い。教師の従順さに乗じて、自らの任務は教師に分担させ、その励み具合を評定するから救いは無い。人は研究や授業より地位に惹かれるのか。
始めは教師も授業に差し支え無い範囲でイヤイヤ分掌を引き受ける、だがやがて分掌に励むために授業は軽んじられ忘れてしまう。特定の分掌や部活の「専門家」になってしまえば、教委の歓心は得るだろうが、机上から教科関係の専門書は消えている。
学問や行政から責任感が見事に消失した時期がある。ヨーロッパで言えば魔女狩りの約二世紀間。日本では犬将軍の時代。この時代、学者や官僚はいなかったのか。いた、とびきり優秀で目立ちたがりが。彼らは無知蒙昧な民衆を啓蒙し暴走する火炙りを鎮めるどころか、反対に暴走に「科学」や「法令」に基づく根拠を与えた。
今、学問や行政の世界から責任感が消え失せている。首相にして責任という言葉を知らないかのように振る舞う始末。行政法人に成り果てた大学や病院にもはや倫理感の欠片も無い。
ということは、今世は「魔女狩り」の時期にあると見た方が良い。 社会全体が思考停止して、考えること自体が恐ろしいから、新聞や放送までが短く大きく乱暴な声にしか反応しない。
思考停止状態のまま社会のハンドルを握られてはかなわない。機構や政府のハンドルを握り続ける思考停止した人間の手を止めのは誰か。誰もが忠実な「専門家」 として秩序維持に勤めるのだろうか。