革新派のルイス・イナシオ・ルラ・ダシルバが、保守派の様々な妨害を押さえてブラジル大統領に復帰した。
保守派が多数の議会を相手に、ルラ大統領はどの程度の統治意思決定力を発揮出来るか。
ここで思考を巡らせるべきは、嘗てブラジル議会が革新的議会があったことはないという歴史的事実である。最高の憲法を作った1988年でさえも。左派の議員は16人で、残りはすべて保守政党の議員だった。しかし、それでもブラジルは進歩的な憲法を制定出来た。(上院81、下院513)
議会は社会的諸勢力の相関関係を反映する。ルイス・イナシオ・ルラ・ダシルバが資産家勢力や古い政党と築いた関係は、政府に安全を与えるための歴史的制度でもある事を理解する必要がある。
ブラジルの進歩的大衆は、ルラ大統領が国家の矛盾に立ち向かう事を期待している。ルラ政権の急進性の度合いや構造改革の進展は、大衆の勢力と圧力にかかっている。
なぜなら、社会の歴史的構造変動は常に大衆の結集に支えられて来たからだ。
コスタリカで革新政権が成立したことはただの一度しか無い。この事実を知ると日本の平和勢力は仰天する。肝心なのは体制では無い。民衆の絶えざる運動なのだ。出来上がった体制に依存したり「代行」させたりする事ではない。
希な例だが、アメリカの西部劇でただ一つ感心出来ることがある。銃と略奪が幅を効かせる西部の町で、新聞が果たす役割を見事に描いている作品がある。頑固者の新聞発行者は、銃や略奪に依存する保安官や市民に距離を置いて細々と輪転機を回している。その新聞を市民は買う。市民に背を向ける新聞を読むのだ。そして自ら判断する。
新聞が多数に傾いたり特定の判断をするのでは無い。判断の主体は市民。
何が正しいかを判断する独立した市民のバランス感覚がここにある。暴力や貧乏にも屈しない自由な精神がある。
日本国民は、新聞に一体何を求めているのか。プロスポーツや公営ギャンブルの勝ち負け、天皇一族や芸能人の消息スキャンダルか、世界大会のメダルか。自分たちの尊厳を無きが如く扱われてさえ歓喜する隷属性。日本の新聞と広告代理店はそこに的を絞って恥じない。付和雷同そのものが事柄の価値付け動機となる空虚な危うさがここに生まれる。
体罰や腐敗が横行しても生徒会「新聞」は批判するすべを知らない、なぜなら新聞部や委員会室を仕切るのは顧問と言う名の他者だからだ。体制の広報はジャーナリズムたり得ない。従順な生徒に教師は安堵し、服従を分掌する教師に管理職は安堵し・・・この逆転しない構造が何処までも続く。この構造は空虚な「国体」に収束するように工夫されている。
何処にも日々の授業や成長する若者の姿は無い。卒業「式」の答辞には一過性の幼稚な涙と感動の場面が語られ、親も教師も教委もつくられた予定調和を賛美する。主権者は絶えず異議を唱えねば消える。
服従本能を持ち付和雷同する人間の群れを「畜群的人間」と言ったのはニーチェであった。
日本の学校は幼稚園から大学院まで「自由な民」としての子どもを、コンパニオンアニマルに仕立てる事が要求される。そのためだけに学校の日常を、様々な行事で涙と感動づくめにするのは、成果を目に見えるように求められるからだ。管理社会では、目に見えないものは成果ではないとして葬られる。
「心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目に見えないんだよ」サン=テグジュペリ。
コンパニオンアニマル化は「自由な民」への虐待に他ならない。
「可愛い」ペット=コンパニオンアニマルは、体制=飼い主に服従する以外の幸福はない。ものを見るための心を捨てたからだ。オルテガの指摘を日本の学校の日常が先取りしている。
「俺に任せておけ」と言いたがる活動家や政治家。そして彼らに不和雷同し、やがて暴走する世間の姿が「国家の奴隷」。